ロングロングリバー
俺たちに残された道は共に死ぬ事。拓郎と俺は道ならぬ恋の果てに心中し、死後の世界に行った。
そこは魂が様々な形で暮らしていて……。
「ごめん。冬紀。……俺のこと許してくれる?向こうに行っても、俺のこと、好きでいてくれる?」
拓郎の震える手に握られたナイフ。拓郎の頬に涙がとめどなく流れる。俺の意識は激痛で赤く染まる。血が喉をすごい勢いで遡ってきて、口から大量に出た。一瞬、強烈な血の匂いと味。俺は咳込みながら胸を押さえた。暖かい血が大量に噴き出て、手と辺りのものを赤く染める。膝から力が抜けて、床に膝をつく。
俺の方こそごめん。……お前を守れなかった。守ると約束したのに。
拓郎は止める間もなく、自分の頸動脈を掻き切った。首から勢いよく噴き出る紅……。拓郎は崩れ落ち、俺は必死に彼の元に這い寄った。頭を抱える。彼の眼からみるみる光が失われてゆく。
言葉をかけようとして咳き込み、彼の顔に、身体に、俺の血が降りかかる。それを塗りつけるように、頬を撫でた。瞼がゆっくり閉じる。拓郎、俺の拓郎。
……俺もすぐにゆく。
「冬紀ぃ、あさー。コーヒー淹れたよ」
ミントグリーンのカーテンから光が差し込み、窓辺のテーブルと椅子、湯気の立つコーヒー入りのマグカップを照らした。もう片方のマグを持って拓郎が俺の前髪を指で払った。
俺は欠伸をすると、ベッドから抜け出て、昨晩脱ぎ散らかした紺色のTシャツと薄いグレイのジーンズを床から摘み上げて身につける。拓郎はその様子を見て顔をしかめる。
「冬紀さぁ。寝る前に床に服を散らかすのやめなよ。あとその服、もうひと月以上洗濯してないよね。しわっしわ」
「拓郎は気にしいだなぁ。気に入ってんだよコレ。いーじゃん別に、洗濯なんて必要ないし」
俺は窓辺の椅子にどっかと腰を下ろして、暖かいコーヒーを有り難く頂く。美味い。
「はぁ……朝イチのコーヒー最高。あ、一句思い付いた。『カフェインが 胃の腑に染みる 幸せよ』……どう?」
「元国語教師とは思えないお粗末さ。カフェインだって入ってるかどうか分かんないし」
俺は笑うと拓郎に顔を近づけてキスをしようとし……彼の白いシャツの胸の膨らみに気づく。眉根を寄せてよく観察してみると、身体の線、特に腰が細くなり、顔が一回り小さくなって、全体に細くたおやかになっている気がする。拓郎がニヤリと笑う。
「気がついた?俺さあ、今日は女でいってみよーかなって思って。昼はハカセとランチだしさ。女の方が銀ちゃんもハカセも喜ぶし」
俺はしかめ面をした。
「俺は男のお前の方が好きだな」
拓郎は優しく微笑んだ。茶色い瞳と柔らかい猫っ毛が、陽の光を透かして金色に輝く。綺麗だ。真っ黒い剛毛の俺の髪とは大違い。見惚れていると、今度は拓郎が顔を寄せてきて、俺達はキスを交わす。何というか、味は拓郎なのに、いつもより甘くて柔らかい感じ。女に欲情した事なんてないのに、相手が拓郎だと触りたくなるから不思議だ。
マンションの部屋を出て、階段に向かって廊下を歩いてゆくと、同じ階に住むコマツさんに会った。コマツさんはパンチパーマのいかつい頭と鮮やかな黄色いエプロンが目印の、四十代くらいの男の人だ。信じられない事に、以前は凶暴なヤクザだったそうだ。でも現在は、まだこの世界に慣れない人の世話役を買って出ている。
コマツさんは小学生位の男の子を連れていた。男の子は右足の膝から下が無く、松葉杖をついていた。
「冬ちゃん、拓ちゃん。おはよう!」
拓郎は親しげに挨拶した。
「コマっさん、おはよーございます」
「おはようございます。新人さんですか?」
コマツさんは頷いた。
「この子、前は生まれてすぐに病気で右足が麻痺して。ずっとそうやって過ごしていたから、足がある状態を上手くイメージできないみたいでさあ。しばらくウチで預かるから、よろしくね。テンちゃん、こちらは302号室の冬ちゃんと拓ちゃん」
男の子は無言でぺこりと会釈した。
拓郎は男の子の目線に合わせてしゃがむと、軽く頭に手を置いた。
「テンちゃん。イメージするんだよ!ここでは足を取り戻す事はワケないよ、信じて!コマツさんとイメージの練習をしてみて。サッカーでも野球でも、何でも出来るよ」
男の子は力強く頷いた。
マンションを出ると、振り返って階数を数える。マンションの階数は、住人の増減に合わせて変化する。俺達が入った時は五階建てだったが、現在は七階建てになっている。俺は呟いた。
「近くにパン屋があるからかな」
「美味しいパンは、やっぱり食べたくなるよね」
拓郎は俺の隣に並ぶと腕を絡ませた。近所にある『詩人の血』というパン屋のお陰で、この辺りも人が増えて賑やかになってきた。道ゆく人が、パンの良い匂いを漂わせながら、浮き浮きと包みを抱えて歩いてゆく。まだ時間は早いのに、思いの外、大勢の人が行き交っている。
人混みを見ていると気がつく事がある。歩いている人の年代だ。圧倒的に十代後半から三十代位までの人が多い。子供の数が少ないし、お年寄りの姿は無い。家族連れも滅多に見ない。殆どの人は一人か、二、三人で行動している。そして、みんな幸せそうだ。難しい顔をして歩いている人はいない。
ここに住んでいる限り、本当は、食べ物を食べる必要はない。身体も汚れないし、病気になったり、怪我をしたり死んだりしない。ここは、一度死んだ人間が、再び生まれ変わるまでの、いわば『魂の待機場』のようなモノらしい。もう一度生まれ変わりたい、と願わない限り、ずっとここに居られる。ここに居る間にする食事や仕事、する事なす事全ては『娯楽』だった。
「排泄する必要が無くなったのはひっじょーに残念無念!私は生前、排泄の拍子に発想が浮かぶことが、ままあった!」
ハカセことドクター・ドリトル(本人がそう名乗っている)は、イギリス人らしい。俺達は、会話するのに日本語を使っていない。じゃあ何語か、と聞かれても答えられない。この場所特有の言語で、みんなそれで意思疎通をしている。
ハカセはカリカリに揚がったポテトフライにフォークを突き刺し、一息に頬張った。食事中の「排泄」発言に拓郎は顔をしかめ、俺は笑って言った。
「食べ物を食べるのに出ないってホント、不思議だよね。食べたものはどこに行くのかな。時々、思うんだけど、これは全て夢で、俺たちの肉体はカプセルの中でずっと夢を見てるんじゃないかって」
拓郎は頷いて
「SFのネタであるヤツね」
ハカセは咀嚼の合間に熱を込めて語った。
「さすがは四条先生。当たらずと言えども遠からず。今の状態は、魂が『待機場』で見ている夢と考えれば、色々と辻褄が合うんだな」
ハカセは、ここに長く留まり、この場所の不思議を研究している人だ。具体的にどれだけ長いか聞いても、はぐらかされるが、百年以上はここに居るらしい。
ハカセは嬉しそうに日本酒を啜った。アルコールは少しの時間だけ酔える。でも、それも気のせいだ、という人もいる。
拓郎の大好物、ニンニクでソテーした殻付きエビの皿を持って銀ちゃんがテーブルにやって来た。皿を置くと、四方から手が伸びる。拓郎は幸せそうに頬張った。
「んん〜コレコレっ!幸せぇ」
「拓ちゃん女子verがそう言ってくれると作りがいあるわ」
このバルのマスター銀ちゃんが、ニコニコしなから拓郎の方を見ている。俺としては微妙に……いや、結構ムッとする。
拓郎がふと思いついた、という顔で
「そういえば、この海老とか、ジャガイモとか……食材ってどうやって仕入れてるの?趣味で農業やってる人は結構居るけど、ここって海は無いよね?見た事ないけど」
この世界には車や飛行機、オートバイは無い。自転車はあるけど、電動機付きのものはない。銀ちゃんは考え込むように
「ネタバレになっちゃうかな……前の晩にね、これこれをこれだけって計画立てといて、出来るだけ具体的にイメージするのよ。そうすっと、次の日の朝にはキッチンの中に届いてるんだよね……ホント、いつ来てるのか謎。ありがたい話だね」
ハカセが割り込んだ。
「この世界では、人間以外の生きた動物は居ない。ヒアリングしたところ、食材の魚も、届いた時点で生きて動いているものは皆無だ。おそらく……この海老は『その形をした何か別のもの』じゃないかと私は推測しているよ。食材だけでなく、もしかするとこの世界を構成する全てのものが、それで出来ているのかもしれない。元の世界の元素のように。そしてそれは、我々の思考で、ある程度干渉できる、と。現在のここが、生前の世界にかなり似ているのは、おそらく人間の思考干渉の結果だろう。植物もあるいは、見た通りの生物じゃないかもだ」
ハカセはフォークの先のポテトをしげしげと眺めながら
「通常、人間の表皮にも体内にも微生物が何億と居るが、ここではおそらく一匹も居ないんだろうね。顕微鏡が無いから証明は出来ないけど、そう考えないと辻褄が合わない。それで何事もなく生きてるんだから、やっぱり世界は夢のような何かで、それに干渉出来るのも我々が夢の一部だから。こう推測するわけだな」
俺は提案してみた。
「『何か別のもの』って長いから、他の名前で呼びません?世界を構成してる元素に魂を足して『魂元素』とか」
銀ちゃんが勢いよく
「そこは『ソウルエレメント』でしょ!カッコいいよね、ゲームアイテムみたいで」
ドアに取り付けたベルが鳴り、他の客が訪れた。銀ちゃんは入ってきたお客に、親しげに声をかけた。彼が席を立ったのを機に、俺達もご馳走様と言って立ち上がると、食器を流しに持ってゆく。ここでは銀ちゃんにご飯を作って貰った人は、自分で食器を洗う事になっている。
この世界でのレストランやパン屋、その他諸々の店は全て『ボランティア』または『趣味』だ。
食事も排泄も、生きるために行う睡眠以外の全ての物事は、ここでは必要がない。その気になれば、何もせず、何も摂取せずに過ごしてゆける。
ただ、人間は、それでは楽しくない、味気ない、と、どうしても感じてしまう性質らしい。なので、大抵の人は何か、趣味で『仕事的な事』をしている。
俺は国語教師という前職を生かして、日本語を学びたい人に日本語を教えている。拓郎は、声がかかったら何でもする『便利屋』をしている。一昨日まで、彼は喫茶店でお菓子作りを手伝っていた。今朝飲んだコーヒーは、賃金代わりに店主に貰ったものだ。
大抵の場合は、何かのサービスを受け取ったら、労働か、自分が持っている何かで返す事になっている。基準は様々だ。お互いが納得すればいい。
多分、貨幣が流通する前の人間世界はきっとそんな感じだったんだろう。ここには、貨幣に相当するものはない。
死んだ後でも……将来というものが無くても、人は新しい何かを学ぶことが好きなのだ。ここにきて実感した。生きていた頃には、欲や色んなしがらみがそれを見えにくくしていた。ここでは全てがシンプルだ。やりたい人がやり、受け取りたい人が受け取る。善意と好意の循環で、悪意は存在しない。
俺と拓郎とハカセは、皿を洗って拭き終わると、銀ちゃんに挨拶して店を出た。ハカセが声をかけてきた。
「いざ出陣!と、日本では、戦いに赴く時に言うんだよね?友よ、いざ出陣しよう!仕事が我らを待っている!」
俺達が向かうのは『出会いの道』。文字通り、仕事を提供する人と、それを必要とする人のマッチングをする場所だ。
広い大通りの両脇にズラリと机が並び、机の上には小さな黒板上にチョークの文字が踊っている。色んな言語が書かれているけど、何故か意味が分かるから不思議だ。
『ミニトマトの苗を提供できます(先着三十名様)育て方も教えます』
『水回りの修理できます』
『エプロン、鍋つかみ、靴下など、作れます。月二回の手芸教室も開催中』
『ハワイのダンス教えます。出張ショーの依頼も受けてます』
『拘りのビール作り。手伝える人募集。週三日くらい。ランチに出来立てビール一杯が付きます』
『出張料理します!パーティ料理の材料選びからお手伝い。元フレンチシェフ』
『焼き物の器、注文承ります。作り溜めた皿やカップ、差し上げます』
拓郎は、最初の頃「同人誌即売会みたい」と評していた。賑やかな会場の中、声を張り上げつつ受付をし、縦横40センチ位の黒板と白いチョークを渡されて、指定の机に行く。ハカセとはそこで別れ、俺達は机の後ろに回り込んで椅子に腰掛けると、黒板にこう書き込んだ。
『日本語教えます。俳句、詩、漢字。その基本ルールを教えます。
小説や詩を書きたい人、読んだ作品の感想を話したい方も歓迎。元国語教師、小説家』
黒板の後ろにはフォトフレームのように支えが付いていて、それを机に立てかけ、声がかかるのを待つ。
俺達は机の後ろから、賑やかな通りの様子を眺めた。色んな国の色んな民族の人達が、これまた色んな服装で歩いている。
精密機器はこの世界には存在しない(多分、細部の仕組みまで具体的にイメージできる人がいないんだろう、とハカセは言っていた)。なので、コンピュータや電話が無い。そうなると連絡方法は直接会うか、紙でやりとり、に限られてくる。ここに集まるのは、そういう事情があるためだ。
そして、その人出に向けて、食べ物や飲み物を提供する人も居る。ちょっとしたお祭りみたいな雰囲気になっている。
アフリカ系アメリカ人らしき若い男が、俺達の机の前に立った。鮮やかな緑色のTシャツに白いハーフパンツを身に付けている。
「あんた達、日本人? 俺さ、日本のアニメと漫画が好きでさ。続きが気になってるんだ。こっちに来たのいつ?……あのさ『襲撃の亜人』の、十巻から先の話、知ってる?」
俺と拓郎は顔を見合わせた。拓郎は頷くと、男に説明を始める。日本人、というだけで、この手の質問をされる事がよくある。でも、俺は全くそっち方面は疎い。幸い、拓郎はサブカル系に強かったので、それもあって、一緒に来てもらう事が多かった。拓郎がストーリーの続きを話すと彼は興奮し、喜んだ。青年はアニメネタで暫く話をした後、礼を言って立ち去った。
歩く人々の中に、両親らしき大人の男女と連れだって歩いている一人の子供がいる。肌が浅黒く、男性は白い長袖シャツに茶色のズボン、女性は身体全体を覆う茶色い服を着て、頭も水色の布で覆っている。男の子も白くて丈の長いワンピースのような服を着ている。ニュースの映像で見たような感じの服装だな、と俺は思った。どこまでも続く砂に塗れたテントの群れ。ずっと内戦が続く遠い国。……いつの間にか、男に戻っている拓郎は、小声で呟いた。
「本物の家族連れかなぁ」
俺は親しげに会話している子供と母親の様子を見て
「子供は両親のどちらにも、何となく似てるし、凄く態度も自然だから……本物の親子じゃないかな。みんなで同時にこっちに来たんだろう」
それを聞くと拓郎は少し切ない顔をした。親子がいっぺんに死ぬ状況は限られてる。大きな事故か無理心中か……または殺されたか。
この世界では、肉体はイメージで割と自由に変えられる。高齢の人がこちらに来ると、大体は二十代から三十代頃の姿をとる事が多い。逆に見た目は大人でも、子供が姿を変えている場合もある。顔だって自由に変えられる。ただ、ここでは見た目で差別する人が居ないので、そのうち気にしなくなる事が殆どだ。性別、年齢、容姿、さらに人種も、ここでは従来の意味を持たない。
人々の賑わいを目で追いながら、拓郎はボソボソと話した。
「俺さぁ、生きてる時、どうしてあんなに絶望してたんだろ。そう思えるのは、今が幸せだからかもしれないけど。……肉体の性と環境は絶対で、望みは無いって思い込んでたんだよな。どちらも、そこまで不変のものじゃない。……冬紀と気持ちを通わせる事さえできれば、あとは自分次第だったのに。なんでもっと闘わなかったんだろう。……俺、本当はただ怖かったのかもしれない。周りの目が。だから、全部から逃げたのかもしれないって、思う」
俺は拓郎の手を握った。拓郎も握り返してきた。
「拓郎は、まだ高校生だった。怖いのも無理ないよ。俺が悪かったんだ。大人だったのに。……多分、俺も、怖くて。今まで築いたものを失う事が。……本当は縛るものなんてない筈なんだ、魂は。なのに、肉体がそれに気づけない。不自由だけど……生きてる人間はそういう風に出来てるんだろうな」
拓郎は椅子をさらに俺に近づけると、俺の肩に頭をくっつけて、もたれかかってきた。彼の髪の甘い匂いがする。拓郎と至近距離で目を合わせ、手を伸ばして彼の柔らかな髪に触れる。
「あのう……」
「!」
遠慮がちな声に俺達は我に帰り、慌てて目の前の彼女に向き直った。俺は狼狽し、思わず声が上擦る。
「オリヴィアさん! えっとこんにちは。あの、お散歩ですか?」
オリヴィアさんは、パン屋『詩人の血』で、パン職人をしている、フィンランド人のお姉さんだ。少しふくよかな体型と、綺麗な金髪を後ろで纏めたピンク色のリボンがトレードマークになっている。オリヴィアさんは困ったように首を傾げて微笑んだ。
「ちょうど見かけたものだから。間が悪かったかしらね。二人に話があって」
拓郎は勢いよく立ち上がった。
「俺達、今、暇だし、手伝えるよ! いつから始める?」
オリヴィアさんは首を振った。
「今回は、パン屋としてのお願いじゃないの。実は私、あと三日でここから『巣立つ』ことになったの。それでね、食事会をしようって事になって。料理の準備をお手伝いして貰いたいなって」
「えーーーーっ!!」
俺達は同時に叫んだ。周囲が一瞬、鎮まり、皆の視線がこちらに集まった。
巣立ちの前日の朝。入念な食材の準備と手順の計画を経て、俺と拓郎、ハカセ、コマツさん、他数十名の男女が朝から銀ちゃんの厨房に集まった。
食事会は昼からだが、オリヴィアさんの知り合いは数多い。彼女はこの辺りでも割と古参の住人だし、パン屋のお客さんは大体リピーターで、その人達も別れを惜しみにやって来る。
料理は銀ちゃんと、同じく料理人のスミスさん、李さんが交代で臨む。厨房はさほど広くないので、他の人間は、テーブルで下拵えをする係と、出来た料理を運び、空いた皿を下げる係、洗い場で皿を洗う係とに分担し、時々交代して休憩する事にした。
計画通り、まずは銀ちゃんが厨房に入り、下拵えの済んだ食材から順に料理してゆく。下拵え班、料理を運ぶ班はどんどん仕事を進める。拓郎とコマツさんは下拵え班、俺とハカセはウェイター班だ。
食事会はパン屋を臨時休業して、パン屋の中と、それから外の広場に椅子とテーブルを沢山出して、空いてるテーブルに座った人に、オリヴィアさんと会話をしつつ料理を楽しんで貰う。パン屋の職人さんは、今日はパーティーの為に焼き立てパンを提供するのだ。昨日から準備をすすめ、手順通りに焼いてゆく。
宴もたけなわ。オリヴィアさんはお客さんの相手をするのに忙しい。でも、とっても楽しそうだ。宴は盛り上がり、ますます賑やかになる。背後の一抹の寂しさから目を逸らすように。
来たばかりの頃、俺達も色々教えてもらい、その度に美味しいパンを貰った。食べる必要がなくても、人は美味しいものを食べると元気になる。
ここに来たばかりの人達は、まだ死んだ時の記憶が生々しくて、気分が荒れたり、塞ぎ込んだりする事も多い。そんな人の相手を、オリヴィアさんは自ら進んで引き受けた。コマツさんや他の世話係の人達と連携して、ずっと優しくサポートしてくれた。
ハカセ曰く、ここに居るだけで、何もしなくても時間が経てば、人は次第に前世の記憶を忘れてゆき、魂が癒されて、巣立ちの日を迎えるらしい。……でも、やっぱり人間は、他人の好意と触れ合う事で回復スピードが早くなるんじゃないかと思う。人で傷ついた人間を癒すのは、やっぱり人なんだ。俺はここで過ごして、そう思える様になった。
夜になると、楽器を奏でる人、ダンスをする人達、歌を歌う人達が芸を披露して、さながら生演奏付きオープンエアのレストランような趣になってきた。料理人は一巡して、今はまた銀ちゃんが厨房で腕を奮っている。
俺と拓郎は休憩に入り、オリヴィアさんと話をしながら食事をし、再び仕事に戻り、こんなに頑張ったのはいつぶりだろう、と考えながら、テーブルと厨房とを行き来した。
ついに食材が尽きて、パーティはお開きになった。掃除の後、お茶とお菓子を囲んでスタッフの慰労会が始まった。既に夜中で、テーブルに突っ伏して眠る人達が出始めたのを潮に、オリヴィアさんはスタッフの解散を厳かに宣言した。
俺達は家路についた。マンションの廊下で別れる時に、コマツさんが鼻を啜り上げる音が辺りに響いた。
身体は疲れている筈なのに、少し眠っただけで、何故か目が覚めてしまった。すぐ横では拓郎が爆睡している。ベッドで一時間ほど悶々と過ごしてから、俺は上体を起こした。拓郎の掛け布団をそっと直すと、ベッドから降りて、服を身につけ、外に出た。
夜明けの紫がかった光の中、静まり返った街を歩いて『詩人の血』の前まで来た。小さなテーブルが一つと椅子が二脚出ていて、オリヴィアさんはそこに座ってコーヒーを飲んでいた。
俺と目が合うと、彼女は俺を手招いた。
「コーヒーはいかが?」
「頂きます。ありがとう」
以前にも何度かここで、同じやり取りがあったなと思う。オリヴィアさんと飲むコーヒーは、これで最後なんだな。急に寂しさを実感する。
オリヴィアさんは、砂色のマグカップになみなみと湯気の立つコーヒーを入れて、俺の前に置いてくれる。俺はゆっくりと、それに口をつけた。
しばらく沈黙の時間があった後、俺は口を開いた。
「……巣立ちって……どんな感じなんですか? 何か知らせがあるんですか?」
オリヴィアさんは、少し考えた。
「そうねぇ。どう言えばいいのか……渡りをする鳥が居るでしょ。渡り鳥が、渡りを始める瞬間、みたいな感じかもね。意識の中に突然、何処かを指す矢印が『今だよ!』って指し示すみたいに現れる。そんな感じ。……伝わってる?」
「はい、何となく」
「……私、生前は、詐欺師だったって、前に言ったことあったよね?」
「聞きました。今も信じられませんけど」
オリヴィアさんはいつもの優しい微笑みを浮かべた。俺は鼻の奥がツンとして、慌ててコーヒーを啜った。
「正直に言って、今では殆ど覚えてない……。沢山、人を騙して泣かせたと思う。本当に沢山の、お年寄り、女の人、弱い人たちを。……こちらに来てすぐは、行き先は地獄って思い込んでたから、拍子抜けしたの。でも身体が……つまり、魂がね、酷く重かった。沢山の悪意と誰かの涙と悲鳴とで、真っ黒な汚い水を沢山含んだみたいにずっしり重かった。動けるようになるまで、何もない部屋でじっとしてるしかなかった。ハッキリしないけど、その状態で一年は過ごしたかな」
俺は驚いた。彼女のその話は、初めて聞いた。彼女は自分の、白いマグカップを覗き込んだ。
「お腹も空かず、時々眠って、昔の夢を見て、また起きて。……動けずにいると、考えることしかできない。思い出したくも無いのに、どうしても思い出してしまう。……段々と、それが、それこそが罰なんじゃないか、そう思えてきたの。思い出して考えた。最初に嘘をついた人。その次。そしてその次……一人一人を。
とっくに忘れたと思ってた。でも魂には刻み込まれていたのね。心の中で謝った。謝り続けた。気がつくと私は泣いてた。真っ黒い、煤が溶け込んだような涙が、ずっと止まらなかった。このまま涙が出続けて、私は萎んで消えてしまうのかな、それが罰なのかもしれないと思った……。
涙は細長い、長い川のようになって、私の目からドアの外まで一筋になって流れて……。どのくらい泣いたか忘れた頃に、やっと止まった。それから、どうにか動ける位に身体が軽くなってるのに気がついたの」
俺はじっと彼女を見つめた。いつも明るくて優しくて穏やかなオリヴィアさん。そんな事があったなんて。
オリヴィアさんが俺の頬にそっと指を触れた。俺はいつの間にか泣いていた。優しい指は俺の涙を拭って言った。
「あなたの涙は綺麗だね。聞いてくれてありがとう」
俺は俯いた。
「忘れません、今の話も……貴女の事も……」
オリヴィアさんはかぶりを振った。
「いいえ。あなたは忘れる。それでいいの、きっと」
オリヴィアさんと、彼女を見送りに来た大勢の人達は、大きな森を抜け、一面の花畑の中にポツンと立っている『巣立ちの扉』までやってきた。
花畑から先は『巣立つ』ものしか進めない。オリヴィアさんはこちらを振り返って言った。
「みんな、ありがとう!感謝しかありません。私はいま、凄く幸せ。ありがとう、行ってきます」
俺達は呼びかけた。
「オリヴィアさん、お世話になりました!良き巣立ちを!」
「ありがとう!オリヴィアさん、大好きです。良き巣立ちを!」
抜けるように青い空と、見渡す限り続く青い花の地平線に浮かぶ白い扉に、オリヴィアさんは歩み寄ってゆく。トレードマークのピンクのリボンが背中で軽やかに揺れている。
俺達は花畑の手前で佇み、その勇敢な後ろ姿を見守った。オリヴィアさんはこれから新しい生命へと生まれ変わる。未来はどうなるか分からない、でもここに居る俺達は彼女の幸せを祈り続けている。それが少しでも魂に刻まれますように。
祝福を。新しい生命に、限りない祝福を。
オリヴィアさんは扉を開けた。七色の光がそこから漏れる。彼女は足を踏み入れ、扉は閉まった。
白い扉は、何事もなかったようにそこにある。
テンちゃんこと、天堂君は、野球のボールを投げた。中々の威力だ。俺はバットを振った。ボールは擦りもせずに、拓郎が構えるミットの中に収まった。
「テンちゃん、ナイスピッチ!」
拓郎は呼びかけると、ボールを投げ返した。テンちゃんには、立派な両足がある。コマツさんのイメトレが功を奏し、彼はもう一本の足をあっという間に使いこなした。今、彼は、スポーツを思い切り楽しんでいる。コマツさんと近所の有志は、近くの空き地を整備して、テニスコートを作る計画を立てていた。
拓郎もスポーツの相手が出来て嬉しそうだ。俺は運動と名の付くものは悉く苦手なので、良かったと思う……こうして、時々付き合わせられない限りは。
「テンちゃん、あとワンナウトぉ」
拓郎が呼びかけ、テンちゃんは振りかぶると、ボールを投げた。俺は思い切りバットを振った。
カキィン!
小気味良い音がして、俺は驚き、次いで爽快な思いで白球を見つめた。抜ける様な青空に浮かぶ白いボール。
———— あれ?
以前にもコレと似たような情景を見たような。
青い空 青い花 白い扉 ……ピンクのリボン。
ふいに記憶をよぎる情景を捕まえようとするうちに、ボールが背の高い樹木に当たった。数秒待っても落ちてこない。テンちゃんは不服そうに言い放った。
「打った人が取りに行くんですよぉー」
「ええーっ、マジで!?」
俺は愕然とした。拓郎が吹き出し、腹を抱えて笑っている。
俺達はボールを抱え込んだ樹木の下に歩み寄り、上を見上げた。梯子を持ってこよう、いや、長い棒で突ついた方が良いんじゃない?と、ボールを取り戻す算段をするうちに、さっき頭をよぎった情景は俺の中から消え去った。
青い空。
緑の野原。
地面を照らす木漏れ日。
人は死んだらどうなるんだろう。魂と脳と心、記憶はどこに刻まれるのだろう。
そして生前の罪は、死後、どう裁かれるのか。
こうだったらいいな、という思いで書きました。