Ⅰ エンカウント
あれから、およそ2日が過ぎた。
と言っても、24時間ずっと夜中のこの街で、
いつ日付が変わったかなんて、よくよく確かめない限り分からないのだけれど。
先のエクリプスの退治で、思いの外体力を使ってしまったらしく、未だに筋肉のあちこちがギシギシする。
執筆活動をするようになってから、あまり外に出ていなかったのがいけないのだろう。
お陰でろくに歩き回る事も出来ず、ラグにおんぶにだっこな状態になってしまっている。
もう少し寝ていたい気もしたが、いたたまれなさが勝り、無理やり体を起こして眼鏡を掛けた。
ラグは、少し前に『ちょっと出掛けてくるから』と言って家を出たばかりだ。サイドテーブルには温められたロールパンと、(恐らくケチャップがかかった)オムレツが並んだ黒い皿が用意されており、一緒に置かれたホットコーヒーが、芳ばしい香りを漂わせる。
…申し訳ないな。
皿を手に、モソモソとロールパンを食べながら、僕は故郷のことを想った。
『本当に、あなた一人で大丈夫?』
『あぁ、大丈夫だよ。僕ももう大人だ、都会へ出て自分で頑張ってみたいんだ』
父から譲ってもらったトランクを手に、大きすぎるリュックサックを背負った僕は、寂しそうにこちらを見上げてくる母へ、笑顔を返した。列車が急かすように発車のベルを鳴らしている。
『それじゃあ、行ってくる。まめに連絡するよ』
乗り込んだ列車の車窓から、ちらりと外を見ると、両親が僕に向かって頻りに手を振るのが見えた。列車が動き出すと、その少し老いた2つの姿が、ゆっくり、ゆっくりと後ろへと遠ざかっていく。
よく晴れた春の空は突き刺すように眩しくて、僕は帽子を目深に被り、目を閉じた。
大丈夫かどうかなんて分からないけれど、
僕のことを誰も知らない街へ、とおくへ、行きたかった。
いろんな場所へ行って、いろんなものを見よう。新しい世界を識ろう。
そうしたら僕にも、あんな素敵な物語が書けるだろうか。
それから、街で本の文章校正の仕事をしながら執筆活動を続けているうちに、あっという間に3年が経った。本に携わる仕事はそれなりに充実していたし、もともと黙々と作業するのには向いていたから、多分馴染んでいたと思う。
職場の人の目だけが、相変わらず怖かったけれど。
普通でありたい。それだけで僕は平凡で当たり前の人生を送ることが出来るのだ。
そう、思っていたのだけど。
――ガチャ。
遠くで扉が開く音がして、頭が現実に引き戻された。
「…ラグ?」
ベッドから立ち上がり、覚束無い足取りで部屋を出た。
「…帰ったのか?」
呼び掛けるも、返事がない。階段から見下ろす大きなリビングはがらんとしており、人の姿はどこにも見当たらなかった。
おかしいな、確かに誰かが入ってきたような気がしたのだが。
まさか、泥棒だろうか。それなら、家主の代わりに僕が家を守らなければ。
暖炉のそばに立て掛けられた大きな火バサミを握り締め、キッチンの方へ向かった。
みし、みし。コトン。物音が聴こえる。
どうやらここに何か居るらしい。物陰からそっと覗くと、明らかにラグではない、大きな影が蠢いていた。
「……誰だ!!」
覚悟を決めて僕はキッチンへ飛び込み、火バサミを思い切り振り上げた。
―――キィンッ!!!
鉄と鉄のぶつかる音が、甲高く狭い空間に響いた。
びりびりとした衝撃が武器を伝って僕の腕を震わせる。ゴトンと音を立てて火バサミが床に転がった。
「……おめェこそ誰だ?」
猛獣が唸るような低い声が、下方から僕を威圧する。廊下からの薄明かりで、目玉が2つ、こちらを睨んでいるのがわかる。すっかり硬直した僕は、ハ、ハ、と短い息を吐くのがやっとだ。
その影はゆらりと立ち上がると、あっという間に僕を床へと叩き伏せた。
「いッ…!!」
巨大なそれは、僕の顔をまるでゴルフボールでも握るかのように掴んで離さない。
鋭い爪が頭にくい込んで、今にも穴が空いてしまいそうだ。
アルコールの臭いがダイレクトに鼻をつく。
こいつは只者ではない。確実に僕を殺しにかかってきている。
「んッ………っま、待ってくれ!!」
出せる限りの力を両手に込めてその腕を引き剥がそうとしながら、隙間から悲鳴をあげるように僕は叫んだ。
「僕はここの家主の……ラグの同居人だッ」
「……"旦那"の?」
僕の頭を押さえ込んでいた手の力がフッとやわらいだ。
カチッ、と小さな音がし、覆われた視界の端が淡くぼんやりと光るのが見えたあと、ようやく解放された。
よかった、どうやら少しは話が通じるようだ…とホッとしたのも束の間、その姿を見て僕は声にならない声をあげた。
ランプが照らし出したのは、部屋を埋めつくさんばかりの翼を広げ、立派なたてがみを蓄えた白いライオン。立ち上がれば2mはあるような巨体で、今なお僕の体を床に押さえ付けたまま、怪訝そうに見下ろしている。
「おめェ、"旦那"の知り合いか?見ねぇ顔だな…」
気だるげな低い声が、大きな口から漏れる度、肉食獣特有の鋭い牙がちらりと覗く。
少し湿った黒い鼻が、スンスンと僕の匂いを確かめてくる。
…おかしい。"仮装"にしては、精巧すぎている。まるで、本物の野獣を目の前にしているようで、わなわなと身体が震える。
「あ…あぁ。少し前に、森で迷っているところを、た、助けて貰ったんだ……本当だ」
絞り出すようにそれだけやっと答えると、ライオン男は少し考えるように目を細め、そして顔を逸らし浅い溜息をついた。翼が静かに畳まれていく。
「ったく、あの人らしいぜ…」
押さえ付けていた手が離れるなり、僕は身を縮こませて後ずさった。
「そんなにビビんな。事情はわかったからよ。しっかし…いきなり火バサミで殴り掛かるとは、おめェ見た目の割に良い根性してんな」
コルク抜きに似た長柄の槍が、男の足元に転がっている。…もし、何かが間違っていたなら、僕はこれに刺し殺されていたかもしれない。喉がごくりと音を立てた。
「名誉の為に言っておくが、オレはここに酒を届けに来ただけだ。ラグの旦那には世話になってるからな…」
そう言うと男は、後ろに置かれていた長方形の木箱をヒョイと持ち上げ、戸棚へとしまい込んだ。
成程、さっきの何かを置くような音の正体はこれだったのか。
「で、オレは酒屋のリヒトだ。リヒト・スピリタス・フランベルク。覚えときな」
顎髭のように留め具で纏められたたてがみを爪の先で弄りながら、口許をクイッと上げてみせる。ゆらゆらと揺れる尻尾が、彼を"本物"だと認識させた。
……なんてことだ。
一昨日のマルシェにいた人々の姿がフラッシュバックし、軽い頭痛をおぼえた。
「さっきの事はチャラだ。お互い誤解した結果だからな。オレは謝らねぇぞ。おめェの謝罪も要らねぇ」
軽い口調でそう言うと、リヒトは前掛けに着いた埃を叩き落としながら立ち上がった。
ラグの家の天井はそれなりに高い造りだと思ったが、彼がぬっとそこに佇んでいるだけでなんだか狭苦しく感じてしまう。
「そんじゃぁな。お得意さんが待ってるんだ。旦那に迷惑かけんじゃねーぞ」
リヒトはそう言うと、ランプと槍を手に勝手口を開けて夜の闇へと消えていった。
嵐のような時間が終わり、静寂が訪れる。
未だに立ち上がれない僕は、ズレてヒビの入った眼鏡を直すことも忘れて呆然と呟いた。
「…ライオンが、……ライオンが喋った……」
その後、ラグが帰ってくるまでの出来事は、よく覚えていない。