Ⅴ ディフェクティブ
物心着く頃には、見えるもの全てがモノクロームだった。
母親の唇も、父親の瞳も、テレビで流れるアニメーションも、空も、野原も。
黒と灰色と白だけの、繊細なコントラストの世界が、僕のいる場所だった。
僕はそれが普通のことだと思っていた。
だって、太陽はいつも昇って、僕のいる世界を鮮明にしてくれるから。
キラキラと輝く小川の水面も、凛と立つ大樹の、無数の葉がザワザワと折り重なってそよ風に揺れるのも、木漏れ日の蝶が舞うような美しさも僕にはわかるし、たとえ何も見えなくなる夜が訪れても、僕もみんなも、同じように眠りに着くから。
困ることは何もなかった。
それに、僕には本があった。大好きな作家の絵本を、寝る前に読むのが日課だった。
僕が小学校に上がったばかりの頃、
『なかなかユニークな組み合わせのファッションね』
そんなことを先生に言われた時だって、単純に褒められているのだと思っていた。
でも、初めてのアートの授業中に、異変は起きた。
『ではみんな、持ってきたクレヨンを出して』
先生の指示に従い、各自ガタゴトと机から平たい箱を取り出した。もちろん僕も。
続けて、先生はこう指示した。
『それでは、ここにあるりんごと、ぶどうをスケッチしてみましょう』
みんな、クレヨンを何本も出して、少し描いては他のものと換えてを繰り返しながら、思い思いに描き出した。
――描きにくくなったら交換するのかな。
そんな事を思う僕は、ケースに書かれた「12色」の意味も知らなかった。
見たままの世界を描く。下にいくにつれて薄明るくなっていく、丸みを帯びた果実。
全体的に濃く、よく見ないと分からないが、艶のある小さな丸がたくさん連なった果実。
みんなの真似をして、クレヨンをたくさん使って描いていく。
突然、あるクラスメイトが、横からびっくりしたような声を上げた。
『うわー!なんだ、この絵!!』
教室がにわかにどよめいた。僕は目を丸くしてそのクラスメイトを見た。
『変だよ先生!レイのりんご、青と黄緑なんだ!』
『ホントだ、怖ぇ!それに、ぶどうもおかしいよ。黒と茶色と、黄色だぜ?!』
ほかのクラスメイトもどんどん集まってきて、奇異なものを見るように僕の絵を見つめては、「変だ」「おかしい」と口々に騒ぐ。
仲裁に入ろうと様子を見にきた先生も、僕の絵を見た瞬間驚いたような、変な顔をした。
「え?」
僕は、右手に持ったクレヨンの文字を見た。
りんごの枝を塗ろうとしていたそれには、"むらさき"と書かれていた。
色に関するつまづきは、次々と起きた。
まず、アートの授業では僕はすっかり変わり者扱いされるようになった。
空と海を描く課題では、地獄の風景などと言われたし、家族の似顔絵も、化け物と言われる始末だった。
黒板の字も、白以外の色が見えにくく、先生の話をよく聞いていないとまともに勉強が追いつかなかった。
教科書が読めないこともあったが、非難されるのが怖くてクラスメイトに聞くことも出来なかった。
裁縫の授業では、布と糸の境目がわからず、何度も指に針を刺した。
運動の授業で走る時も、砂に引かれた白線やゴールテープが見えず、コースアウトしてブーイングを食らった。
そんな日々が続いて、とうとう親が学校に呼び出された。
『息子さんは、どうやら目に障害があるようです。1度診てもらっては』
気の毒そうに話す先生と、動揺を抑えきれない様子の母の顔が今も記憶に残っている。
『レイくんは、色覚障害です。それも、とても珍しい事ですが、"全色盲"……色覚が一種類しかありません。彼には、全てがモノクロに見えています』
眼科医がそう告げると、両親は僕を抱きしめて項垂れた。
消毒薬のにおいと、無情に時を刻む秒針と、沈黙がもたらす重い空気。
僕を胸に抱く母のすすり泣きが、只事ではないことを思わせる。
『なんてことだ…かわいそうに…』
『ああ…レイ…レイ…!ごめんなさい…普通の目に産んであげられなくて、ごめんなさい…』
父と母の、絞り出すような悲痛な声を聞いて、僕はやっと認識した。
――僕は、普通じゃない のだと。