地球さんの涙
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湖のほとりで、母親は洗濯をしていた。娘は浅瀬で水を蹴って遊んでいた。
遠くから見た湖は青いのに、近くで見ると透明で、底が見えるだけ。時折、小さな魚が泳いでいるのが見えた。
少女は捕まえようと魚を追いかけるが、なかなかすばしっこくて捕まえられない。
昆虫はそっと近づけば後ろから捕まえられるのに。
「ママ、どうして魚はこんなに速く動くの?」
質問された母親は一度顔をあげ、どのように説明するか考え、意地悪に答える。
「水の中はね、お魚さんの世界だからよ。だから速く動けるの」
「水の中は人の世界じゃないの?」
少女はその場で足踏みする。
「だって、あたしは今、水の中にいるよ?」
「それじゃあ、全身水の中にいるとは言えないわ」
母親は苦笑する。「足だけしか水に入ってない」
「じゃあ、お空は鳥さんの世界?」
「そうね」
青空を、旋回する鳶か鷲か、猛禽類の大きな翼のシルエットが見える。
「それじゃあ、どこからお空なの? ここらへん?」
少女は湖から上がって背伸びして、手を思いっきり伸ばして見せる。
「人それぞれ、かな?」
「あいまい?」
「そう、曖昧」
母親は衣類をもみ洗いしながら続ける。「空の位置は人によってそれぞれ。蟻の視点だと、蝶が舞ってるところを空だと思っているかもしれない。だけど、蝶はもっと上を飛ぶ鳥が飛んでいる場所を空だと思っているかもしれない。でも、たいていの人は雲があるところを空って言うんじゃないかな?」
「雲?」
少女は聞き返して、空を見上げるが、その日は雲は見当たらなかった。
「雨はしょっぱくないね」
突然、話題が切り替わる。
少女の言葉に、母親は手を止める。
「この湖もしょっぱくない。でも、涙や汗はしょっぱいよ。地球さんは汗をかかないの?」
少女――ピンクがかったマロンブラウンの長い髪を白いリボンで二本で結わえた娘は、地球のことを「地球さん」と呼ぶ。
魚や昆虫、鳥。それに草木。
意志疎通の出来ない自然が少女の唯一の友達であり、先生でもある。
そう父親に教えられたのだ。
だから「地球さん」と呼ぶのだ。
「地球さんは泣かないの?」
娘に聞かれ、母親は肩をすくめる。
「そうね……」
涙といったらしょっぱい。
でも雨はしょっぱくない。
冬は雨が凍って雪になる。だから雨は地球の涙というのは少し語弊があるのだろう。
だとすれば、思い浮かぶのは――
「海かしら?」
「海? 陸地よりも広い水たまり?」
「そう。海の水はとてもしょっぱいのよ」
「へー」
少女は母親の隣にしゃがみ込んで呟く。
「地球さんは、とても悲しいことがあったんだね。だから涙が海に溜まっちゃったんだね」
「……そうね」
子供の想像力は本当にすごい。
空想上の友達を生み出し、それらと遊ぶこともできる。
大人ではそうはいかない。
ヴァーチャルシュミレーションでも、リアリティが低ければすぐに飽きが来てしまう。
陸上にはなんでもある。街に行けば娘と同じ世代の子供たちもいる。
だけど、娘は聡明すぎた。
頭が良すぎた。
そして、友達になろうと言う子供たちをことごとく、その知識でもって傷つけた。
本人には傷つけたという認識はない。ただ事実を述べただけ。
もう少し成長したら、人との付き合いかたを理解できるようになるだろうか?
もし、できるようになったら、あの人から与えられた役目なんて放棄して、街で暮らそう。
そのほうが良いに決まっている。
子供が生まれ、母性が高まり当時の反発精神はなりをひそめていた。
ただ平和に暮らしたかった。
だけどやっぱり、人間は愚かだ。
私も娘も、愚か者だ。
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