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からまりからまれ

 遼ちゃんは酔っ払った淋しい夜にだけ、わたしに電話をかけてくる。

 酔っ払った、淋しい夜にだけ。

 そしてただ繋がっただけの空間でずっと黙っていたり、ぽつりと飲んだお酒の話をしたり、月の形を言ってみたりする。

 遼ちゃんは十才年上の三十八歳で、お母さんの弟で、だけど血は繋がっていない。おじいちゃんとおばあちゃんは連れ子同士の再婚で、だから遼ちゃんとわたしの血が繋がるわけがない。

 遼ちゃんは背が高くて口がちょっと大き過ぎて、顔が小さくて疲れると眠く見える奥二重の目をしている。

 遼ちゃんは白いシャツがとっても似合って、黒とか紺とかのスーツを格好良く着こなす。国家公務員で、国立大学の職員さんをやっている。大学付属の病院があって、何年かごとにそっちへ移動になったりもしている。

 遼ちゃんはわたしが高校を卒業するまで一緒に暮らしていた、うちのお父さんがお母さんの実家に住んでいる、マスオさん状態だからだ。

 遼ちゃんはすごく爽やかに笑う、遼ちゃんは無敵みたいなしなやかさで、いつも誰かが困っていると解決法をそっと提示してくれる。遼ちゃんは飄々としていて、遼ちゃんは格好良くて、なのに寝癖を直す習慣を持っていなくて、真っ黒な髪をしていて、遼ちゃんはわたしの初体験の相手をしてくれた人で、遼ちゃんは十才年上の恋人がいて――遼ちゃんの恋人は、だからわたしより二十才も年上だ――、遼ちゃんは穏やかな目をしていて、そして。そして。

『……寒い』

「どこにいるの」

『ベランダ』

「部屋に入りなよ」

『うん』

「返事ばっかじゃなくて、お部屋に入んなよ」

 遼ちゃんはぽやりとした声を出す。自分のアパートにいるのが分かったから、行こうか、とわたしは言ってしまう。

「行こうか、遼ちゃん」

『ダメ』

「……行くよ、遼ちゃん」

『ルウに甘えちゃうから、ダメ』

 るり子、というわたしの名前を、遼ちゃんはルウと呼ぶ。わたしが生まれたときから、遼ちゃんはそう呼んだのだという、わたしのオムツを換えるところも見たことのある遼ちゃん。

 甘えて良いよ、とわたしは言う。

 甘えて良いよ。遼ちゃんのルウだから、甘えたって良いよ。

「淋しいことがあったの?」

『……ルウは、家?』

「うん、ベッドの中」

 十時を過ぎていた。髪は乾き切っていないお風呂上り。エッチな響きだ、と遼ちゃんがからかうみたいに言う。

「バカじゃないの」

『うん』

「バカだよ、もう、なに言ってるの」

『うん、バカ』

 電話の向こうで小さな金属音がする、カシュリとこすれるプルタブの音。ん、なんて声がして遼ちゃんの気配が少しだけ遠のく。何本目、と聞けば、分かんない、と笑うような声が返ってくる。

「……ケンカしたの?」

『……ん?』

「……彼女さんと、ケンカしたの?」

『ケンカにもなんないよ、別に』

「……結婚の話?」

『お、すごい。ルウは超能力者かな?』

 小さな子供に言うみたいな色の声が耳に届く、ここにいない遼ちゃんの手が伸びて、わたしの髪をそっと撫でてくれたような気になってしまう。

「するの?」

『笑って誤魔化された』

「……遼ちゃんは、したいんでしょ?」

『ちゃんと、したいんだけどねえ』

 ため息混じりのやさしい声がわたしの胸をぐっさり刺してくるけど、一息置いてから平気な声を出す。血がだらだら流れる心を、隠して泣き笑いみたいな顔になってると自分でも分かっていながら、電話だから見えなくて良かった、と安心して嘘の声を出す。

「彼女さん、遼ちゃんのことちゃんと好きだと思うよ」

『……いい、この話はおしまい』

「泣かないで、遼ちゃん」

『名かないっつの、今日の月は綺麗だぞ、おい』

「泣かないで、遼ちゃん」

 月が綺麗ですね、に似た言葉を言わないでね、わたしはそれが愛の言葉だという話をちゃんと知ってる人間だから。

『くっそ、ルウめ』

「あはははは、あ、今度の法事来るの?」

『行くよ』

「……彼女さん、連れてくる?」

『……あの人、来てくんないよ』

 あの人、と遼ちゃんは恋人のことを言う。それは驚くくらいやわらかくて穏やかで、甘い声だ。あの人、と。甘い。甘い声。びっくりしてしまうくらい、大人の男の人にこんな甘さがあるんだ、と思ってしまうような声。薔薇色の、淡いピンク色の、恋をしている大人の人の、声。

「……風邪引く前にお家入ってよ」

『うん』

「入んなさそうな声で言わないの」

『飲み終わったら』

「なに開けたの」

『ビール』

「中身は?」

『え、だからビール……ああ、普通の。350、だっけ?』

「飲みながらお部屋入ってよ、風邪引かないように」

 遼ちゃんは、酔っ払った淋しい夜にだけわたしに電話をかけてくる。

 遼ちゃんの十才年上の恋人はとっても綺麗な人だ、女優さんみたいに綺麗な人で、わたしは写真を見せてもらったことがあるから知ってる、まつげの長い横顔で、色が白くて唇がお人形さんみたいにふっくらぷっくりしていた。

 写真でしか知らないけど、遼ちゃんより年上には見えなかった、綺麗な人だった、彼女は遼ちゃんのプロポーズに頷いてくれないという。

――いつかもっと若くてあなたを好きな女の子が現われて、あなたの赤ちゃんを産みたい、って言ってくれたときに、そうしたら私の存在が邪魔になってしまうでしょう。

 彼女はいつもそう言うという。

 結婚したら私はもう絶対あなたを手放してあげられなくなっちゃうわ、と。

 あの人、そう言うんだよ、と遼ちゃんは泣きそうな声で電話をしてくる。酔っ払った淋しい夜に。

 手放してくれなくていいから、結婚したいのに、と。わたしが大好きでたまらない遼ちゃんは、涙でもうびしょ濡れになっている声で言う。

 大好きで、大好きでたまらない遼ちゃんは。

 わたしの、血の繋がらない叔父さんは。

 生まれたときから、きっとわたしは遼ちゃんに恋をしていた。恋の魔法だ、目は覚めない。ずっと夢の中にいるみたいに恋をしている、だけど遼ちゃんはわたしを見ない、わたしは彼のただの姪で、遼ちゃんには大事な大事な恋人がいる。

 わたしの、大好きな遼ちゃんは。

 結婚をしない、という縛り方で彼をがんじがらめにしている、綺麗な綺麗な恋人を愛している。


*****


「ごめん、わたし勘違いしてた」

 パンッ、と両手を合わせて、拝む格好で頭を下げた。紺色の事務員スーツ。スカートは膝丈で、薄く細い銀のストライプが入っている。ギリギリで縛れない、顎のラインで切り揃えたボブの髪を両耳にかけている、それが耳たぶのところでさらさらしてくすぐったい。

「なに、なになに、なに、財布の中身忘れた?」

 奢れ? と明日美が笑う。肩幅ががっちりしているのが悩み、という彼女は幼稚園のときに同じクラスだった、小中が違って高校は一緒で、短大が別でまた職場が一緒になった。中堅の文具会社だ。ふたりとも事務員をしている。

「違う違う、映画行こうって言ってたじゃない。あれ、今度の休みわたし、法事だった」

「あれま」

「おばあちゃんの七回忌。あるのは憶えてたんだけど、なーんかずーっと先のことのような気がしてて」

「ばば不幸な孫だあ」

「憶えてたの、あるのは憶えてたんだよう、ひーっ、おばあちゃんごめんんんんっ」

 そして明日美もごめんんんんっ、とわたしはもう一度手を合わせる。

 昼食を取りに来た店は生パスタが売りで、会社の近くだから45分しかない昼休みでも充分に間に合った。少し少女趣味の、カントリー風な店内。ギンガムチェックの赤と白と、明るい茶色をした木のテーブル。

「映画、延期してもいい?」

「いいよ、金曜とかのレイトショーでもいいし」

「ああん、いいねえ。だけどわたし、帰りに服とかも見たい」

「お、欲張り」

「明日美は?」

「えへへ、服もなんだけど、冬用のコートがそろそろ見たい」

 パスタはすぐに運ばれてきた。ブロッコリーとエビのスパゲッティは明日美に、フィットチーネのクリームパスタはこちらに。

 そのせい? と、明日美が不意に聞いた。え、とわたしは聞き返す。

「なに?」

「なんか余裕ない顔してたの」

「わたし?」

「あんた以外の誰の顔から余裕なくなってんの」

「え、余裕ない人なんていっぱいいるでしょ……え、顔に出てた?」

「出てた。るり子はすぐ顔に出るよね、なに、法事忘れてたのとその日に約束入れちゃってたのでテンパってたの? って違うな?」

「な、なに、」

「あれだな?」

「なによ、」

「るり子のお兄さん関係でしょ」

 明日美は目尻の大きく垂れた、くっきり二重の大きな目の印象が強いから、分類分けすると狸顔になる。その目が細められると光がギュッと集まって、言い訳ができないような気にさせられる。

 大体、幼稚園生の頃から遼ちゃんを好きだったわたしだから、高校のときも恋話でずっと好きでい続けたのを明日美には知られているし、わたしの初めてを遼ちゃんに無理やりもらってもらったことだって知っているし――花咲く女子高生は怖いものなしでなんでも話す――、今だってまだ好きなのを知られている。大人になってからの知り合い、友達だったら、そんな話はしなかっただろう。恋の話は振られても、いろいろと誤魔化すことができただろうけど。

「違う、叔父さん」

「そう、それ、るり子の叔父さん。叔父さん、って響き、年寄りっぽいなあ」

「年寄り言わないでよ」

 遼ちゃんは童顔という訳でもないのに、若く見える。恋の欲目を差し置いても。

「なんか進展でもあった?」

「進展って、なにがどうなると進展?」

「そりゃあ叔父さんと既成事実……って、高校のときあったか。でも、なんともなんなかったんだもんね」

「言わないで……」

「花の女子高生にねえ」

「言わないで、魅力不足だったの……」

「今は魅力ある?」

「聞かないで……っていうか、見て分かって、そして黙ってて……」

 銀色の大きなフォークは見た目のままに重たい。それで太い麺をくるりと巻き取る。口に運ぶ。明日美は大きめのブロッコリーにフォークを刺した。

「るり子ちゃん一途」

「しつこいの、そして諦めが悪いの……」

「処女奪っといて、あとは面倒見られません、ってひどい男なのにね」

「遼ちゃんがひどいんじゃないの、わたしが、あーっ! あーっ、バカやった、あーっ、若いって怖い!」

 叫ばないでよもう、と明日美が笑う。わたしは思い出し憤死しそうになって、だけど確かに遼ちゃんが触れた感触を何度も何度も――今でも――反芻して死にそうになったり幸せになったり切なくなったりしていた自分が今でもここにいる、と確認する。


 高校三年生の。

 秋の。

 十一月が誕生日のわたしはまだ十七歳で、十二月が誕生日の遼ちゃんはまだ二十七歳だった。

 誕生日のプレゼントは何がいいかと聞かれて、遼ちゃん、と答えた。

「遼ちゃんが欲しい」

「はいはい、困ったねえ」

 ずーっとずーっと、血が繋がらないとはいえ同居している姪っ子は、物心ついたときから好き好き言いっ放しだったから、遼ちゃんも本気で取ってくれてなかったかもしれない。いや、本気なのは分かってたとしても、どうしようもなかったかもれしない。

 わたしは遼ちゃんを叔父さんと呼んだことがない。ずっと、遼ちゃんだった。遼ちゃんは叔父さんというよりお兄さんで、わたしが生まれたときからずっとそこにいて、そしてずっと格好良いばかりの男の人だった。

「ルウも高校生なんだから、叔父と姪は結婚しちゃいけないことくらい知ってなさいよ」

「血は繋がってないでしょ」

「あちゃー。バレてるかー」

「そんなの、ずーっと前から知ってる、誰も隠してないもん」

「隠してないねえ。でも、叔父と姪だよ」

「わたしは遼ちゃんが好きだよ!」

「ありがとねえ」

「本気にしてないでしょ!」

「ルウは学校に好きな子いないの?」

 遼ちゃんが言うと、学校、は、ガッコ、に聞こえる。先生、が、センセ、に聞こえるみたいに。単語がちょっぴり短くなるのに、語尾はやわらかく伸び気味の遼ちゃんのしゃべり方が、わたしは大好きだ。

「わたしの好きな人は、学校じゃなくてここにいるよ!」

 キャラメル色のブレザー。深緑のプリーツスカート。臙脂色のリボンタイ。わたしはどこから見てもただの高校生で、子供で、スーツが似合う大人の遼ちゃんを誘惑できるような武器なんてひとつも持っていなかった。胸はかろうじてのBカップ、ウエストのくびれはない子供体型、そしてなにより一番の弱点は、遼ちゃんがわたしをそういう対象に見てくれていないということで。

 家の二階は三部屋だけあって、ひとつは納戸でひとつはわたしの部屋で、もうひとつが遼ちゃんの部屋だった。でも、お母さんだってお父さんだっておばあちゃんだって――おじいちゃんはわたしが小学生のときに亡くなった――、遼ちゃんとわたしは叔父と姪だし年は十も離れているし、そもそも遼ちゃんは夜遅くに帰ってくることが多くて家なんてほぼ寝るだけの場所だったから、誰もなんにも心配なんてしてなかったんだと思う。二階を、わたし達がふたりで使っていることを。

 珍しくわたしが起きてるうちに帰ってきた遼ちゃんはお風呂上りで、お父さんとお母さんはレイトショーの映画を見に行っていて、おばあちゃんはもう自分の部屋に引っ込んでいた。台所で、お茶漬けを食べようとしている遼ちゃんにお茶を入れてあげて、自分もお湯呑みに飲みたくもないお茶を注いで向かいに座っていた。パジャマ代わりのスエットを着ていて、色気もなんもないなあ、と笑われていた。

「で? 誕生日ってなに欲しいの?」

「遼ちゃん」

「俺はモノじゃありませーん。なに、最近の女子高生はなにが欲しいの、言ってみ? おじちゃん、結構お金持ちよ?」

「生活費入れてないの?」

「入れてる。入れてる、って、なんてこと言うんだ、入れてる、ちゃんと」

「遼ちゃんが欲しい」

「だから、」

「最近の女子高生のルウは、遼ちゃんが欲しい」

「バーカ」

「バカだもん」

「自分で言うな、バーカ」

「バカでいいもん、じゃあ、じゃあ遼ちゃんの誕生日にわたしもらって」

「もらってどうすんだよ」

「わたしの処女もらって!」

「……あ?」

 お茶漬けはお茶碗じゃなくて丼茶碗で、でもご飯よりお湯の方がたくさん入ってた。湯気が立ってて、その白いゆらゆらしたものが遼ちゃんの驚いた顔を隠し切れないまま空気に色をつけていた。

「……おい、バカ」

 遼ちゃんのびっくりした顔。遼ちゃんは男の人の割に首が太すぎなくて、喉仏がそこまでがつっと突き出ていない。本当は「処女」なんて言葉を口に出すのが恥ずかしくて恥ずかしくて仕方なかったけど、そんなので照れてる訳にはいかなかったから我慢した。顔が赤くなりませんように、と、キッチンテーブルの下で手をぎゅっと握っていた。

「そういうのを冗談でも口に、」

「冗談じゃない」

「おい、バカ」

「それはさっき聞いたよ、バカでいいけど、遼ちゃん、」

「……できるか、バカ」

「バカしか言ってない」

「それしか言葉ないだろ、ルウ、何考えてんだ」

 立ち上がったのは、意識してじゃなかった。本能みたいな、どうしようもない衝動みたいな、そういう心が勝手にわたしを立たせていた。身体のどこかがテーブルに当たって、ガツッ、と音を立てた。どこかが鈍く痛かった気もするけど、どこをぶつけたのかなんて気にする余裕はなかった。

「……わたしの処女、もらってよ」

「おい……、」

「どうせ遼ちゃんはわたしを好きになってくれないでしょ、恋人とか、そういう意味の好きはくれないでしょ、だったらそれでいいよ、もう、もういいから、だから、じゃあ、せめて一回抱いて」

 そしたらきっぱり諦めるから、って。

 諦める気なんて一ミリもないのに言った。

「お前なあ……そんなもん、一回手に入ったと勘違いして後で苦しくなるだけなんだぞ」

「そんなの、」

「絶対諦めるって言って諦めらんなくなるから、やめとけ」

「あ、諦めらんなくなるかもしんないけど、遼ちゃんに好き好き言うのはやめるから!」

「バカ」

「そんなのもう、ずーっとバカだもん!」

「ルウ、俺はお前の叔父さんなんだよ?」

「知ってるよ、でも血は繋がってないでしょ、知ってる、そんなのちゃんと知ってる、遼ちゃん好きでいたってなんの得も意味もないのは分かってるよ!」

 せめてキスだけでもいい、と、わたしは譲歩した。遼ちゃんにしたら、なにが譲歩だ、って感じだったろうけど。

「好奇心とか、自棄とかで、適当に初体験終わらせるよりいいでしょ、お願い。本当にお願い、誰にも言わない、絶対言わない、遼ちゃんが困るようなことには絶対なんないようにする、お願い、本当にお願い、一回だけでいいの、わたしは遼ちゃんがものすごく好き過ぎて訳分かんなくなってるよ」

「……お前はバカだ」

「知ってる」

「知ってないよ、あのなあ。どんなエロ本だ、どんなエロゲだ、ルウ、お前自分を大切に、」

「遼ちゃんが好きなの」

「……ルウ、」

「遼ちゃんが好きなの、生まれたときからずっと! 絶対手に入んない人に、十七年もずーっとずーっと片想いしてるわたしの気持ちなんて分かんないでしょ、一回でいいって言ってんじゃん、一回だけ、そしたらわたし、遼ちゃんのこと諦める、もう好きって言わない、困らせない、だからお願い、一回だけ、一回だけ!」

 でっかい声出すな、と遼ちゃんが長い長い息を吐いた。吐き切る最後の最後で、静かに表情を崩して。小さく、笑った、みたいに見えた。

「ばあちゃん起きるだろ」

 遼ちゃんが身を乗り出して、腕を伸ばした。わたしの、テーブルの上で力を入れすぎて白っぽくなってる手に触れて、手首を取った。

 あったかい手だった。てのひらは。でも、指先は冷たかった。

「……分かった」

「……え、」

「分かった、って言ったの。でもお前、絶対後悔するなよ。苦しくなっても俺は助けらんないからな。俺は、お前をそういう意味では好きにならないからな、一生。永遠にだ。俺に抱かれたら、お前は本当に本当に俺がルウのことを姪以上に思ってないってことを思い知らされるだけだからな、それでもいいんだな」

「いい」

 即答すんなよ、と遼ちゃんが困った顔のまま笑った。

 女子高生考えなしで無鉄砲すぎんだろ、と。

 わたしはほっぺたがものすごく熱くて、頭が熱のあるときみたいに気持ち悪くぼわっとして白っぽくなっていくのを感じていた。そこに熱がものすごく集まっているのに、その自分を意識だけは遠くから見ているみたいな。

「誕生日の日な」

 十二時過ぎたら俺の部屋来い。遼ちゃんはわたしの目を見て言った。

 わたしは声が出せなくて、ぎこちなく、大きく、頷いた。遼ちゃんは笑って、バカな奴、とため息に苦笑の色を混じらせた。


 あの日の遼ちゃんの温度を、声を、わたしは忘れない。

 それだけで後の人生を生きていけると、思った。


*****


 三回忌をごくごく身内だけでやり、大変だろうからと当方の親戚には事後報告でやったことだけを告げたら、非難轟々だったらしい。

 遠くからだと交通費も大変じゃないのよねえ、こっちだってホテル取ったりしなきゃなんないし、全員泊めるスペースなんかさすがにないわよ、とお母さんがこぼしていたけど、そのせいでおばあちゃんの七回忌は嫌味みたいにありとあらゆる血の繋がりに連絡をしたらしい。

「姉ちゃんってもんだ」

 遼ちゃんは笑い転げてる。

 十一月の最初の土曜日だった。今年は随分と残暑が厳しくなると言われていたのに、九月に入るとびっくりするほど雨ばかりが降って、台風は立て続けに日本へ五つもやってきて、しかも全部が沖縄から北海道まで、まるで全国ツアーでもするビックアーティストみたいに丁寧になぞって行った。

 十月半ばまでずっと雨は降り続いて、あちこちでお米や野菜が駄目になったらしい、エサにも影響が出たのか天候不順で健康を害したのか、牛乳や卵まで値上がりして、肉もだけれど魚もまず漁に出られないとのことで値段が上がって、家計が大ピンチだと、天気の話の次くらいにみんなはそれを口にした。

 それでこのまま冬になるのかと思ったら、十月の終わりくらいから暑さがぶり返していた。まったくもって意味が分からない。十月半ばに気温が二十五度を超える日がそこそこあるなんて、衣替えに支障が出て仕方ない。

「ルウ、スーツ似合ってるじゃん」

 七回忌は親戚が集まり過ぎたから、お寺でお願いしてあった。だから、まさか黒っぽい服ならなんでもいいだろう、というわけにもいかず、一応黒いスーツを着ていた。

 そういう遼ちゃんも黒いスーツに黒いネクタイを締めていて、細身で背が高くて爽やかに笑うから、なんだかシャツの白さが目立つなあ、と思った。来年四十歳になるのに、この人はどこか少年のようだ。

「ありがと」

「どういたしまして、ってどんなやり取りだよ」

 変なの、と遼ちゃんが笑う。

 お母さんの兄弟は遼ちゃんだけだけど、おばあちゃんの兄弟というのが十人――女八人の男ふたり――もいて、長女だったのがおばあちゃんなので、やたらと親戚は多い。近くない親戚。でもみんなおばあちゃんのことが好きだったみたいで、生きてるときは誰かしらが遊びにきたり、おばあちゃんは筆まめにせっせと手紙やハガキのやり取りをしていた。冬になると漬物をいっぱいつけて、あちこちに散らばっている兄弟達に送ってあげていた。わたしも、毎年大根を洗ったり、白菜を切ったりするのを手伝った覚えがある。

「みんなは? もうお寺?」

「うん、歩きで。どうせ裏の光明寺さんだから、車出すほうが時間かかるし」

 まだ埼玉の大叔父さんと神奈川の八重大叔母さんのところが着てないから、とわたしは付け足す。

「わたしはここで、留守番なの。あ、行くよ? 後でお寺には行くけど、家に誰もいなかったら困るから」

「俺も、いようか」

「えー、いいよ、お寺行ってなよ。おじさん達のおもちゃになってきたら?」

「結婚結婚うるさいからなあ」

「わたしもだ」

「ルウのが切実だよなあ」

「なんで?」

「女の人はさ、まあ、個人的な意見としては、早めに子供産んどいた方がいいじゃない?」

 遼ちゃんが視線を斜めに落としながら、言った。

 自分の経験からの、助言なのか。愚痴を含んだ、進言なのか。

 後からひょっこり現れて、玄関からではなく勝手口から入ってきた遼ちゃんだったから、わたしはそのままキッチンのテーブルにお茶を出した。早くお寺に行け、と言いながらも。この家に遼ちゃんがいたときの、彼のお湯呑みを出した。深い青灰色をした、厚手の湯呑み。

 革靴を脱いで、上がり込んできた遼ちゃんは懐かしいと言いながら、腹減った、と続けた。

「お寺さん終わったらご飯でしょ」

「どこ?」

「どこって……緑明館ホテル。あの、温泉街の」

「あ、結構いいとこ」

「あそこでみんな泊まるっていうから。温泉もあるし、ほら、内湯もあるでしょ。大叔父さんとか大叔母さんとか、膝悪いし」

「大浴場で転ばれて頭でも打たれたらなあ」

「不吉なこと言わないでよ」

「年寄りバカにすんなよ?」

「遼ちゃん、なんか日本語の使い方間違ってない?」

 さっきまであちこちのお土産がお持たせで開けられていた。カステラだのドラ焼きだの、お饅頭だのえびせんべいだのとが混在している菓子鉢を、遼ちゃんに差し出す。お饅頭が取られて、透明の包み紙が剥かれた。半分に割って、遼ちゃんはわたしに片方を差し出す。

「いいよ、遼ちゃん食べなよ」

「うん、でもこしあんだったから」

「……いいよ、わたしさっき二個食べたから」

「二個も!」

「二個も」

「デブるぞ」

「そうなの、今日の晩ご飯、絶対大宴会なのに」

「太るな」

「だよねえ」

「まあ、ルウは別に太ってないから」

 小さなお饅頭のそのまた半分は、ぱくりとひと口で遼ちゃんに食べられてしまった。

 こしあん。

 遼ちゃんは覚えてるんだ。わたしが、こしあんを好きなことを。つぶあんも嫌いではないけれど、あんこは絶対こしあん派で誰かがこしあんのものを食べていると必ず「ひと口ちょうだい!」と言うことを、遼ちゃんは覚えているんだ。

 そういうところが、彼のそういうところが、わたしはすごく好きだと思う。

 ささやかなことを、丁寧に忘れないでいるところが。

「あ、美味い」

 口をもごもごさせて。遼ちゃんの口は大きい、赤頭巾ちゃんに出てくる狼みたいだ。でも狼みたいに悪い奴じゃない。

 遼ちゃんが悪い奴だったら。

 良かったのに。

 そうしたらわたしは、どこかで見限って好きじゃなくなることができたのに。と。

 そうやって、人のせいにしてみてしまう。

「……彼女さん、来ない?」

「あ?」

「今日」

「なんで来るの」

 遼ちゃんが残りのお饅頭を口に入れて笑った。ドラ焼きにも手を伸ばす。

「初音ちゃん、まだ旦那さんになる前の彼氏、おばあちゃんのお葬式のとき連れてきてたよ……?」

 わたしはお母さんのはとこの娘の名前を出す。

「結婚しますよ、って紹介するんなら、まあ葬式ってのは親戚中集まるしな。いい機会っていえばいい機会だし」

「遼ちゃんは?」

「俺は、」

「彼女さん、みんなに会わせちゃえば?」

 そしたら結婚結婚は言われても、見合いしろとかそういう話は出なくなるでしょう? わたしは言う。

 家の中は、さっきみんなが着替えた喪服のせいでどこか樟脳くさい。三回忌のときよりも人数が多いせいかにおいは強くて、日常から切り離されている空気があった。

「……見世物じゃないし」

 わたしは、遼ちゃんを怒らせたいのかもしれない。

「初音ちゃんみたいに、結婚しますよ、ってのならまだしも、」

「結婚しないの?」

「……向こうがね」

「こんなに遼ちゃんから好かれてるのに、なんでぐだぐだしてるの? どうせ遼ちゃんのことだからうんと素敵にプロポーズしたりしてんでしょ? なんで断っときながら遼ちゃんを手放さないの?」

「手放すとか手放さないとか、そういうんじゃないでしょ。男女の関係って」

「遼ちゃんと結婚したい人いっぱいいっぱいいるだろうから、結婚してくんない人が遼ちゃんを捕まえ続けてるのって間違ってる」

 ルウはお子様か、と遼ちゃんが笑う。ドラ焼きの包みは、白っぽくて山と月の絵が描いてある。それを、びりびりと破いて。

「俺なんかもうおっさんですよ、モテませんよ」

「遼ちゃんがおっさんなら、遼ちゃんより年上の彼女さんなんて――、」

「ルウ。人の悪口はそこでおしまい」

 遼ちゃんが静かな声で言った。怒ってはいない声。でも、怒ってくれた方かよっぽど良かった。

 ドラ焼きは半分に割られる。残念でしたつぶあん、と遼ちゃんは言う。

 子ども扱いなのか。

 それとも、愛なのか。親、の字がついてしまう愛だけれど。親愛。甘やかしの、わたしを可愛がる遼ちゃんの心。

「……遼ちゃん、スマホ貸して」

「ん? なに、どうすんの」

「調べもの」

 ドラ焼きを持っていた指先を軽く舐めてから、ほい、とスーツの内ポケットからスマートフォンを出して渡してくれる。カバーなんかはつけていなくて、むき出しのままで。それが、とても遼ちゃんぽくて。

 遼ちゃんは、やさしくすればするほどわたしがつらくなるのを知らない。知っていてやっている人なら良かったのに。無自覚でわたしは遼ちゃんに傷つけられる。やさしくしておいて、自分のものにはしてくれない。

 わたしのものとは機種が違うけれど、履歴の呼び出しなんて似たような操作でできる。ずらりと並んだ名前の中から、重複していて、これだろう、と思える番号を探し出して、つないだ。

 耳に当てる。

 ちょっと、廊下へ出たりして。

「なんだよお前、電話すんなら家の電話でしろよ」

 遼ちゃんが笑ってる。きっと、おかあさんに電話をかけたとか思っているんだろう。電話代ケチりやがって、みたいな感じで。

 つながれ。

 つながるな。

 つながれ。 

 出るな。

 出て。

 出るな。

 つながれ。

 呼び出し音はやがて、ぷつりと小さな音を立てて空間がつながったことを知らせた。

 わたしは大きく息を吸う。

『……遼平くん?』

 静かにおっとりとした、やわらかな声。甘い。

 どうしたの、と聞かれる。遼ちゃんの、恋人の声。

「あ、あの、わたし、るり子って言います」

 本当は、ずっと考えていた。遼ちゃんの恋人に、ひとこと言ってやりたい、と。わたしに勝ち目なんて爪のカケラほどもなくたって、言ってやりたかった。遼ちゃんを宙ぶらりんに縛ったままにしないで、と。

 結婚したい、って遼ちゃんが言って、なのに結婚してくれない年上の恋人。結婚して欲しい遼ちゃんは、彼女が好きだからずっと一緒にいるけれど、そんなのはひどい。好き、のたどり着くところが結婚なんじゃないのか。人それぞれ愛の形は違うとか、そんなのはそうかもしないけれど。

 結婚してあげないなら手放してあげて、と。

 言いたかった、だって遼ちゃんは子供がうんと好きだから。

 他の誰かだったら、遼ちゃんの子供を産んであげられるかもしれない。産んであげられる。他の誰かだったら。わたし、だったら。

『るり子、さん、』

「あの、あの、遼ちゃんの血の繋がらない姪っ子で、」

『ああ……はじめまして、遼平くんからお話は、』

 聞いてるの? わたしの話を? 遼ちゃんは、わたしをなんて言って彼女に話しているんだろう。

「結婚!」

『……はい?』

 お時間よろしいですか、とか聞くのを忘れていた。でも、そんな余裕はなかった。

「結婚、してあげないんですか!」

『……あの、』

「子供産んであげられないからって言いながら、遼ちゃんと結婚してあげないのに遼ちゃん縛っとくの、ずるいです!」

『……はい、』

「おいっ、なにしてんだ、どこ電話してんだ、ルウ!」

 遼ちゃんの声が背中にぶつけられたと思ったら、手が伸びときた。わたしは廊下を逃げ出す。

「待て、ちょっと待て、お前こらっ、どこにっ!」

「これから会えますか!」

 わたしはトイレに飛び込んで、中から鍵をかけた。遼ちゃんがバンバンとドアを叩く。出て来い出て来いなにしてんだ、と大きな声を出して。

「すみません、これからお会いできますか?」

 わたしはスマホを持たない手で口元を覆いながら、遼ちゃんの声ができるだけ入らないようにする。耳に意識を集中させて。

『これから?』

 遼ちゃんの恋人は、静かに聞いた。

 これからです、とわたしは答える。法事があったけど、もうそんなことより頭に血が上っていた。だけど、心のどこかは凍っているように冷えていて、自分の身体と心がバラバラに動いているような、夢でも見ているような感覚があった。

『あなたと、会うの?』

「はい」

『……どうして?』

「ど……どうして、って、あの、会いたいからです」

『遼平くんを弄んでいる女を見てみたい?』

「弄んでるんですか!」

『……真剣に、大好きよ』

 真剣に。大好き。静かでありながらきっぱりとした口調だった。それで、わたしは言葉に詰まる。

 向こうが、駅の名前を口にした。

 あなたも住んでいるのはこの町でいいのよね、と聞かれる。遼ちゃんが話していたんだろうか。そうです、と答えると、三十分後には駅前のコーヒーショップまで出られる、と彼女は告げた。

『それでいい?』

「大丈夫です」

 なにしてんだ、なに話てるんだ、ルウ、ルウ出て来い、と遼ちゃんがトイレのドアを叩く。蹴破ればいいのに、それはしない。

『じゃあ、それで』

「はい、よろしくお願いします」

 遼ちゃんの大声を残して、電話は切れた。

 わたしはトイレの水を意味もなく流して、鍵を解除する。もう通話の切れた電話を差し出す。

「……なにを、」

 遼ちゃんは頬を少し赤くしていた。怒っているというより、困っている顔だった。

「ちょっと出かけてくるね」

「なに、え、法事は、」

「遼ちゃんの彼女さんに会ってくるの」

「どうして!」

「会いたいって言ったら、会ってくれるって」

「どうして、」

「会いたいの」

「会って何を、」

「別に、いきなり引っ叩くとかしないし、危害とか加えないよ」

「当たり前だ……」

 法事どうするんだ、と遼ちゃんが気の抜けた声で言う。

 他の人があんなにいっぱい集まってるんだからいいよ、とわたしはちっとも答えになっていない返事をする。


 指定された駅前のコーヒーショップは茶色とオレンジを基調にしたチェーン店で、ガラス張りになっているけれどロゴと英字が大きく描かれているので、通りから中を覗いてもそこまでよく見えるわけじゃなかった。

 喪服のまま遼ちゃんとふたりで――車を出すと言って聞かなかった、わたしは自転車で行くつもりだったのに――、店の中に入ると、奥のテーブルから声がかかった。そちらに向かいかけると、申し訳なさそうな顔をした店員が「お待ち合わせだけのご利用はご遠慮しておりまして、」と声をかけてくる。

 遼ちゃんに、あったかいコーヒー、と言うと、彼は一瞬きょとんとしてから口をへの字に結んで、困らせるなよ、とだけ残してカウンターに向かった。

 自分を、じゃなくて、彼女を、だろう。困らせるな、と。

 その彼女さんは、写真で見たよりもずっとずっと綺麗な人だった。

 観葉植物が置かれた奥の席で、やわらかなサーモンピンクのカーディガンを着て、肩のラインを少し越す明るい色の髪は天使の輪が光っていて。座っていた。

 わたしよりも二十才も年上の人なのに、お姉さんという感じしかなかった。くっきりとした二重の大きな目をしていて、やわらかく垂れさがった目尻がやさしそうな雰囲気だけを醸し出していて。遼ちゃんに、どこか似ている気がした。

「……原村るり子です」

 わたしはぺこりと頭を下げる。勢い込んでいたけれど、顔を見ただけで毒気を抜かれてしまっていた。

「園島優子です」

 彼女はそう言うと、向かいの席を促した。読んでいた文庫本を閉じて、ふたのついたコーヒーの白いプラスチック容器を横にずらす。

 細い手首に、華奢な金色のブレスレットがあるのが見えた。遼ちゃんが贈ったのかな、と、思った。

「遼平くんの、姪っ子さん」

「血はつながらないんですけど」

「……遼平くんのことが、好きなのね?」

 頬が熱くなったのが、自分でも分かった。わたしは頷く。彼女は静かに微笑むと、こんなおばさんが恋人で腹を立てているのね、と言った。

「……正直、こんな綺麗な人だとは思わなかったです、」

「お世辞でも嬉しい」

「遼ちゃんの目は、間違えないから」

 遼ちゃんはまだ来ない。ふたり分のコーヒーを注文して待たされてままなんだろうか。

「遼平くんの恋人がどんな人か、見てみたかったの?」

「どうして結婚してあげないんですか」

「……そんな話をしたのね」

「遼ちゃんは結婚したいって、あなたのことが大好きすぎて、いっつも酔っぱらうとわたしに愚痴の電話をかけてきます……」

「知らなかった」

「遼ちゃんはそういうの、言わない人だもん」

 つるりと、秘密をばらしてしまったな、と思った。遼ちゃんの愚痴。わたしだけが持っていた、ふたりだけの秘密だったのに。

「結婚しないで、って言われるのかと思ってた」

「……してあげてください、遼ちゃんあなたのこと大好きすぎるから、」

「あなたも遼平くんのこと、好きなんでしょう?」

 好き。

 好きだ。

 遼ちゃんのことが。でも、遼ちゃんはわたしを好きにならない。それは、肌で知っていた。遼ちゃんが一度だけ、わたしを抱いてくれた時に。それは知ってしまった、この先どんなことがあっても、この人はわたしのことを好きにならないのだと。十年も前から。知っていた。

 未来のことなんて分かるはずがない、と、わたしだって人にだったら言ったと思う。でも、分かってしまうこともある。どうしようもなく。どうすることもできず。

「遼ちゃんが結婚したいのは、あなたですから」

「……私ね、子供が産めないの」

 昼下がりのコーヒーショップで。なんだか現実味のないふわふわな声に響いた。明るく日の差し込む店内で。わたしは喪服で、異様に場違いな気もした。

「歳のせいももちろんあるけど、若い頃に子宮の病気をしたの。妊娠できる可能性は今後ゼロに限りなく近くなります、って言われて、治療をしたの。だから、わたしは遼平くんの子供を産めないの」

「……遼ちゃん、それ、」

「知ってるよ? でもいいって言ってくれるの。あんなに子供が好きな人なのにね。知ってる? 公園だとか、植物園に行くでしょう? そこにいる子供のほとんどと、仲良くなっちゃうの。あの人。子供、大好きなの」

 彼女が微笑んだまま、深いため息を吐いた。目に見えないはずなのに、水色の淋しい色をしていると、思った。

「……わたしが、代わりに産むから」

 ずっと。

 本当は、思っていたことを。わたしは口にした、さすがに彼女さんが笑顔を消して、わたしを見る。

「……わたしが、遼ちゃんの子供を産んだら、みんなで、家族になれば、」

「……そんなに、好きなの?」

 言われて、視界がぼやけた。涙腺が一気に緩む。

 好き。 

 そう、好きなのだ。遼ちゃんが。絶対に手に入らない男が、絶対に自分を姪以外の何者にも見てくれない男が。刷り込みのように、もうずっと一緒にいたのだ。ずっと、視界の中にいた、いつだって側にいた、遼ちゃんを失くすのはわたしが影を失くすのと同じだと思った。離れてはいけないと。思っていたのは、わたしだけだったとしても。

「……そんなに、好きなの」

 同じ言葉は繰り返されて、だけど二度目は自分に言い聞かせているようだった。

 何話してるの、と向こうから声がかかる。トレーにコーヒーを乗せた遼ちゃんが、待たされました、という顔でやってくる。

「遼平くん達、これからお葬式?」

 彼女さんが聞いた。法事に行かなきゃいけないのをサボったの! と笑いながら、遼ちゃんがわたしの隣に座る。椅子を引いて。わたしは顔を見られたくなくて、俯いた。涙が、スカートに、ぱた、ぱた、とふた粒落ちた。

「……ルウ?」

「ねえ、遼平くん」

 彼女の声が甘く響く。すっきりとした甘さで。わたしと話していたときより、もう少しだけ親密な色で。

「るり子さんがね――」

 遼ちゃんの恋人が、ゆっくりと声をこぼした。

 今の提案を彼に話してくれるのか、それとも笑うのか、まったく違う話をするのか、分からなかったけれど。

 わたしは顔を上げる。遼ちゃんが、どうした、と驚いた声を出す。

 彼女さんはわたしの目をまっすぐに見て、そしてゆっくり微笑んだ。

 口には出されなかったけれど。

 私はそれでもいいわよ、と、彼女の目が言っているように見えた。実際、小さく頷かれたのだから。

 遼ちゃん。

 遼ちゃん。

 わたしの、血のつながらない叔父さん。

 好きなの、とこんな明るい店内で叫びたかった。喪服なんて着ていながら、好きだと再び告げたかった。バカバカしくも子供じみた提案を、わたしは卵のようにずっと、ずっと、ずうっとあたため続けていたのだった、それを遼ちゃんに知って欲しかった。

 ずっと、ずっと。

 ずっと、好きだった。

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