プロローグ
時に貴方は転生というものをご存じだろうか?
転生。
古くは世界に存在する魂がかつては何らかの生き物として生を受けていたものであり、今の我々はその生前の魂がこの世に新しい形で生まれたというまさにそのこと。
宗教や道徳の中には次の人生においてまっとうな人生を送りたければ犯罪などを起こすなと呼ばれるほどの重要性を誇り、記憶にある限りの近年の世界ではこの転生ということにテーマを置いた話も作られ、いかに二度目の人生を生きるのかということを書いたような話も大量に作られていた。それらは俗に「転生物」とか言われ、そこに異世界に転生したとか、自分の居なかった時代に転生したとかそういうファンタジー要素も加味されて、いっそうの好評を博している。大体俺の頭の中に残っている知識ではこんな説明が限界だろうか。
それがいかなる理由で好評を博したとか、実はこの裏側には醜い人間の心情があるとかそう言った問題を話そうというのではない。第一そんなことをすれば、かつてその手の話を嬉々として読んでいた自分にブーメランとなって跳ね返って来ざるを得ないが故に、そんな面倒そうな話題に触れることなんてする気は無い。批評がやりたきゃどうぞ、自分のいないところでご勝手に、だ。
要は問題が転生という用語を知っているかというかどうかということだ。転生という言葉の意味を知っていれば話は早く、知らなければ今の俺の窮状を誰かが理解するのに苦労するだろう。
話を荒くまとめれば、輪廻転生の魂漂白を受けることなく転生した男が一人いると思ってくれると嬉しい。
ただ、その男は現在二度目の人生という生物としては望外の幸運に恵まれながらも、それが霞むほどの苦労している。
一体何が起こっているのか。それを説明するのは語るも涙、聞くも涙でありながら、文章ではたったの三行にしかならない。
語り手「俺」こと前世名「信田創志」
現世で生後十日。身分赤ん坊。職業無職。
現在いる場所は、人が来ないような鬱蒼と茂った森林の奥深くにある崖の下の砂利の上。
現在進行形で、捨てられ中である。
★★★★★
空には分厚すぎて白を通り越して灰色に見える雲が掛かっている。
だがそもそも、空の雲の色というのはその厚さに比例するのかどうかを知らなかったので、この表現が正しいかどうかは分からなかった。
勘だけど、雨は降りそうな雰囲気である。間違いない。赤ん坊の方が視覚などが未発達な分だけ嗅覚や触覚には優れているのだ。故に空気中の湿度が上がっていることなど一嗅ぎで分かる。
それと同時に触覚が鋭敏なせいで、自分が横たえられている砂利がとんでもない刺激を背中に加えてくるのがはっきりと分かって悲しい。特に赤ん坊は泣くのが仕事といわれているが、現状自分が分かっている状況の範囲で、泣いたりしたらすぐに疲れてエネルギーを使い切り、餓死という感じで後がないことは誰に言われずとも分かっていたので素直に黙っておいた。
(泣くのが仕事といわれながら、泣いたら多分一時間で体力が切れて死んでしまうという現実……これは仕事をするな、ニートになれという天の啓示なのか……)
赤ん坊の行動選択肢で「泣く」を取り上げたら後に残るのは「見る」か「寝る」の二択くらいである。そして現在眠気が無いので「寝る」は使えず、結果できることは「見る」位だ。
そして見るという行為は存外に飽きやすい。少なくとも、ここでコテンと捨てられている赤ん坊の体では周囲の景色が変わることなど到底望めないから、ひたすらに同じ光景を見ることになる。
それはつまり「見る」というよりは「ぼーっとする」といった方が正しいくらいで、実に暇だ。何かしないと本格的に詰むというのに、何もできなくて暇という恐ろしい苦痛。どうせなら思考のレベルも精神年齢ではなく肉体に比例して若返っていればいいのに、どうにもこうにも周囲の様子をはっきりくっきり認識できてしまう。
人が生きる上では頭脳の賢さよりも魂とか精神年齢の方が大事だという証左かもしれないが、普通は人間の思考能力なんて脳の発達に比例するんであって、今のように上手く周囲を認識できるわけなどないはずなのだが……とまで考えて、自分が結構余裕を感じていることに気付いた。
(おいおい……いいのか自分? ここでどうにかしなかったらすぐにでも死んでしまうぞ? 赤ん坊の体は免疫力も弱いし、栄養もなければすぐに死ぬのに……)
無意識のうちに自分が余裕を持っていることを自覚して改めて状況を考えてみたが、次の瞬間浮かんだ答えは
(そもそも動けないじゃん。野生動物じゃあるまいし、人間なんだから生まれて二時間とかで動けるわけでもない……というわけで自分で生き抜く選択肢はここで潰れ、誰かが助けてくれるフラグもこんな崖の下に誰かがいるわけがない。いても犯罪者か頭のオカシイ奴位ということで助けてくれる可能性は無し。何かの魔物に見つかっても、食料になりはすれ、拾われることもないからその時点でエンド。転生させてくれた神様は確か転生の時に「上手い具合に心が折れたらアンタも転生できるから楽だ」とか言ってたことを考えると、ここで何らかの助けの手が来る可能性は限りなく低い……上手い具合に詰んでいる……)
運命とか考えた奴をいっそ天晴と褒めたいほどだ。人間に転生させてそのまま赤ん坊のままで人気のない危険地帯に捨てるだけでも詰む。実に見事であり、運命神とかがいたらいい仕事をしていると思う。勿論皮肉だが。
考えている間に必死さが垣間見えないのは、今の人生が二度目ということで現実感がないのも大きいが、そもそも赤ん坊というのは頭を酷使して考えるのが苦手な生き物であり、そういうことをくよくよ考えるのを無意識のうちに忌避しているのも大きい。前世でも必死になって生きるのではなく、ある程度自分と思い通りにならない現実の間で折り合いをつけて生きていた時の諦めと納得も理由としては十分かもしれないが、どちらにしろ結果はあまり変わらない。
助かるんだったらどうにか助かるだろうし、終わるのならそれはそれで意識を失ううちになるようになるだろう。所詮、肉体的な生に閉じ込められている自分の望外の二度目の人生などその程度だ。これが物語性を重視した話であれば主人公を美女が拾ってでも助けるのだろうが、自分は前世でも勇者などではなくただの剣士だった男だ。そんな奇跡はうさん臭くて手を伸ばす気にもならない。
人生って意外と面倒だなあ、と雨が降りそうな空を眼球のみをうごかして再び見上げる創志。傍目から見ればそれはただの無邪気な赤ん坊なのに、内面は随分と俗っぽくて達観していた。
そしてそんな妙に嫌な赤ん坊も十分も経てば睡魔に負け、安らかに眠りにつくのだった。
★★★★★
そもそも何で自分がこんなどことも知れない崖の下にいるのかという疑問から始めよう。
始まりは、前世の終わりからだった。
始まりが人生の終わりからというのは実に日本語としてオカシイのだが、実際に今の創志が崖の下で赤ん坊として捨てられているということを過不足なく説明するには、最低でも彼の前世の終了時から話さなくてはいけない。
前世はこことは違う異世界である日本から召喚された勇者―――と一緒に召喚された全く平凡な一般学生だった。
この世界にいた異分子である魔王を討伐するために女神の手により創られた聖剣。それを扱える存在を召喚する魔法陣の対象先が何の因果か異世界へと足を伸ばし、不慮の事故に近い形で創志や勇者を含めた異世界人五人は召喚された。
その後、色々と対話したり拉致を受けたような状態で混乱したりしながらも何となく勇者の旅に剣士としてついていくことになり、その旅路の果てで創志は魔王と一緒に勇者に消し炭にされた。
無論のこと、長い旅の間に剣士として強くなっていた創志であっても肉体的には普通の人間であったので、勇者の最高の一撃にあっさりと昇天し、魂だけの存在となって輪廻転生の輪の中に戻ることになる。
ここで普通に転生できれば話は簡単だったのだが、残念ながらそうはならなかった。
あらゆる生物の転生を司る転生神こと幼女神リンネ曰く「輪廻転生の中に入れて再び魂を漂白して転生させようとすると、漂白する機構にエラーがでる」
なんちゃらこうちゃらどうたらこうたらという長い説明の果てに、創志の魂がどうやら変質したせいでまともに漂白が効かないとのことを詳しく説明され、創志も自分なりに要点だけを理解した。つまりは大事なのは創志が生前の記憶を漂白し再び純粋に一から人生をおくる生き物として生きるというまともな方法の転生ができなかったということだ。
恐らくは生前に、自分でも「あ、これやりすぎた」というようなレベルで自分の素体を改造したのが原因と考えられる。が、反省も後悔もしない。何故なら物事はやりすぎなくらい極端な方が楽しいからである。
そんなわけで創志が転生をするには、魂魄の中にある創志という自我が久遠の時に等しいほどの長い時間をかけた自然風化くらいしかないだろうとなった時、幼女神はもう一つの可能性を創志に提示した。
それが「記憶とか意識とかを魂に刻んである今の状態でそのまま転生させること」である。
「それいいのか? 特に技術面とか問題出るんじゃないの?」という疑問を持ったが、幼女神はどうやら創志がかつていた異世界デラスフィアに創志がいた時代よりもちょこっと時間が進んだところに落とすから特に問題は無いと楽観視。創志も創志で「神様がいいなら別にいいか」とあまり気にしなかった。そもそも世界の技術面の発達とか興味がなく、そういうことにならないと断言できるような人格でもあったので、深く考えなかったのもある。
そんなわけで再び異世界デラスフィアに、どこかの町のどこかの家のどこかの夫婦の赤ん坊として生を受けた創志であったが……体感で誕生後約十日目。崖の下に捨てられていた。
理由は知らない。何回目かの覚醒の時に機械か何かで魔力の有無を測定された(ような気がする)ことを考えると、恐らくは創志に魔力が無かった事を考えて捨てたんじゃないかという推測は立つが、赤ん坊ゆえの認識能力の低下状態でよく周囲の現状を理解できなかった。
そんなわけで十日目に眠りから覚醒した後に、周囲の状況をしばらく見ていたらなんとなく捨てられたんじゃないかなあというような状態だったというわけである。
崖の上から落としたのか、わざわざ崖の下まで運んだのかすらも知らないが、ここがどこであったとしても自分が捨てられているという状況は変わりそうにない。
そんなわけで創志はいきなりのハードな人生に、諦め半分達観半分の気持ちで構えていたわけである。
★★★★★
眠りから覚醒したのは、赤ん坊特有の夜泣きという定期的な食事を求めての生理現象では無かった。
それ以上に今は夜泣きに使う体力自体が勿体なく、例え死ぬしかない状況だったとしても進んで死ぬことを良しとするような性格ではなかった創志はできる限り体力の損耗を抑え延命を図ろうと、時折くる生理的な泣くという発作を強靭な精神力を発揮してどうにかこうにか意識の中に抑えていた。
生死に関わることでは人間は妙に力を発揮する。自分であれば特に。そのことを知っていた創志は自分に簡易的な自己暗示、所謂「思い込み」という方法で、今泣けば自分は死んでしまうということを強烈に意識させて、言うことを聞かない体を自分の意思の下に屈服させていた。
だから今顔に当たり、頬を伝って地面へと吸い込まれていく生暖かい粘性を持った液体は自分の涙によるものではない。雨というには温度が高く、自分の体から発せられた体液という線もなさそう。となれば答えは必然的に一つであり、外敵の襲来に他ならない。
案の定、眼を開けるとそこにはささやかな月の光のある夜の暗がりの中で、大きく口を開けてこちらを齧ろうとする犬型の生物の姿がある。
口の中は真っ赤であり、夜の薄暗がりの中でもそれを目視できるほどには目が闇に慣れてしまっている。吐く息は荒く、いつの間にか下りていた夜の冷気の中で、それは白く小さな靄を形成する。
間近に見えるのは視界いっぱいに移った何かの口であり、首も満足に動かせない今の状況ではそれくらいしか視覚に訴えてくる情報は無い。赤ん坊は視力が低いというのに、間近すぎるせいで細部までははっきりせずとも目の前のこれが自分の命を刈り取ることが十二分に理解できるほどには臨場感もたっぷりだ。
先ほど創志が感じたのはどうやらその口から垂れてきた涎らしい。実に汚い。
意識あるものであれば誰であっても辞世の句を残し、はたまた次の瞬間に奇跡を祈る以外にない状況で、しかし赤子となっていた創志がとったのは、生を諦めるようなどの生き物がとる行動からもかけ離れていた。
(……あ? ざけんな犬っころ。顔は見えねえが口を見ればわかる。手前は犬だ。犬は黙って寝ぼけてろ。人の睡眠の邪魔をすんじゃねえよ)
かつて魔王退治の道中について行ったときに似たような感じで暗殺者、盗賊、強盗各種に襲われていたので、つい前世の感覚で殺気と剣気を全力で振りまいた。
ついでに起き抜けの不機嫌も足し算し、我ながら赤ん坊が出す気じゃねえよなあとか引く勢いで、だ。
これは肉体が幼くとも精神が大人だからできた異形の所業であり、本来ならば例えこんなイレギュラーが起ころうとその尋常ならざる気迫に相手がひるむことはあっても、ここで捕食を完全に停止するほどには野生の世界は優しくは無かった。
どんなに足掻いても、見た目無力な赤子など直ぐに食べられてしまっただろう。
ただ、二つの確固たる事実がここで創志の味方をする。
一つ、かつて世界で勇者でないのに国中の強者相手に戦って渡り歩き「魔王よりも魔王」「むしろ大魔王」と畏れられ、ただの剣士として魔王とすら渡り合ったほどの経験により得た創志の強靭な精神が強い威圧となって現れたこと。
そしてもう一つ、この世界がかつて彼のいた日本ではなく、魔法という技術体系の存在する異世界デラスフィアであったこと。
その結果、創志の創った剣気に触れた何か犬らしき生き物は頭部を破裂させて夜の空気に赤い花を咲かせ、
その攻撃を無意識で放った創志は、赤ん坊という貧弱な脳みそで剣気を放った反動で情報処理のオーバーフローを起こし、再び夢の世界に旅立った。