第9話
ルヌーの自宅に自由に出入り出来るようになると同時に、ジュンと親しく交流を持てることはとても嬉しいのだが、しょっちゅう呼びつけられては、「資料を探せ」だの「舞台衣装の手入れや整理をしろ」などと、ほとんどルヌーの使用人扱いを受けていた。
『文句があるなら、来なくていい』と、ジュンとの接触禁止も含めた出入り禁止をちらつかされるので逆らう事ができない。
ルヌーはフリーの音楽家としての地位を確立しており、1年に2・3回舞台に立てばしばらくは生活に困らないだけの額を稼ぎ出している。
かといって遊んで暮らしているわけではなく、その間は研究活動や後進に道を開くための公開講座などを受け持っている。
ある日、フユキが弾くピアノの音色を耳にしたルヌーから
「パイロットなんて辞めて、ピアニストを目指すべきだ!」
とフユキを説得にかかってきたのには心底驚いた。
最初は冗談かと思っていたのだが、話を重ねていくうちに、本気で言っているらしいということに気付いた。
確かに、フユキは一時期本気でピアニストになろうと思っていたことがある。
中学までは本格的なレッスンを受けていたし、コンクール入賞経験もあった。
しかし、幼いころから夢見ていた航空宇宙パイロットへの道も諦めきれず、しばらく悩んでいた。
葛藤の日々を過ごしていたある日、妹が口にした
「お兄ちゃんの操縦する飛行機に乗りたいな」
と、いう一言で全ての迷いがふっきれたのだ。
周囲に惜しまれつつもピアニストへの道を退いて、パイロットへの道を真っすぐに進もう。
決意を新たに月都市への進学を決めた時も、妹をはじめとした家族の皆が喜んで送り出してくれたのだ。
そのはずなのに、何故か今はルヌー・グレーシャムの荷物持ちをさせられて
「音楽家になれ」
などと説得される羽目になるとは、想像だにしない展開だった。
楽団長にひき合わされた上に、子供の塾通いみたいに、ルヌーに引っ張られてピアノのレッスンを再開することになったのだ。
そうはいっても、フユキは航空宇宙局附属学校に通う学生でパイロットを目指していることを公言しているので、逃げ腰になりながらレッスンに引っ張られるフユキに対して周囲は強く言ってこない。
むしろ、熱心に説得にかかるルヌーと戸惑うフユキの姿を微笑ましく見守りながら
「フユキにはピアニスト才能があるよ。だから、ルヌーはしつこいのさ」
と言うだけだった。
ここ1カ月の共同生活はフユキにとっては災難としか表現のしようがなかった。
2人をかくまっているというプレッシャーに加えて、ルヌーからのピアノのレッスンがきつかった。
彼はピアニストではないので技術的な指導は行えないが、曲の雰囲気や完成度についてはあれこれと口を出してくる。
音楽界で名を馳せているだけあって耳が抜群に良い。指摘してくる内容が的確だからやっかいだった。
フユキのピアノを指導している人が
「テクニックは僕が教えてあげるけど、曲としての最後の仕上げ部分はルヌーの意見をきくといいよ」
と言ったものだから、あれやこれやとうるさくてかなわない。
レッスンというよりも特訓に近い状態になっていたのだ。
それを『進級試験が近い』というのを盾にして、ピアノから離れることができていた。
しかし、今回のこの通知で逃げ道を失ってしまった。
ルヌーのレッスンと進級試験を天秤にかけること自体が誤っていると理解はしていても、どっちにしろ苦労することには変わりがない自分の身の上が、とんでもない不運な気分だった。