Ep8 なりたいもの、たりないもの
放課後、一番に教室を飛び出し、古泉道場へ飛び込むと。
一馬が一振りの刀を前に、何やらぶつぶつ呟いていた。
「おい、なんとか言ってみろよ」
今日は稽古は休みなのだろうか。いつもにぎやかな道場に、子供達の姿はない。
靴を脱いで上がり、ひやりと冷たく、よく雑巾掛けされたつやつやの床を足の裏に感じる。
「さっきまで、かずまかずまって呼んでたじゃねーか、何だよ、急に黙りやがって」
一馬は…一見すると、刀に向かって話しかけているようだ………が。
「こら『神器』。なんとか言ったらどうなんだよ」
まさか、な。
「一馬?」
一馬は、僕の顔を一瞬、じっと見て。
がばっとのけぞって、叫んだ。
「なっ…何だよ悠斗!?いつのまにっ…ていうか、何で居んだよ!?」
「どこにいようと、僕の勝手だろ。ていうか、お前一体何やってるんだ?」
「………うっ…うるさいなぁ!関係ねーだろ、お前にはっ」
真っ赤な顔で言い返してくる一馬は、想像していたよりずっと、元気そうだ。
学校にも来ないで、部屋でじめじめ泣いてると思ってたのに。
………いや。
今日の目的は…そうじゃないんだ。
「お前に聞きたいことがある」
「…あぁ?」
「お前の…幼馴染だ」
「雪が………どうかしたか?」
苦い顔をして、一馬は首を傾けて見せる。
「いや………なんというか、その」
「惚れたか?あいつに」
「…なっ!?」
まさか…この僕が?
「あいつはなぁ…まあ、可愛いし、スタイルも悪くねえし、けど…悪いことは言わねえ。やめとけ」
「ば…馬鹿なこと言うな!そんな筈ないだろう!?」
あんな…化物みたいな女に?惚れるだと?
「あの馬鹿力は何なんだ!?それに、『神器』の扱いだって一年の中じゃ群を抜いてるって噂だ!一体全体、あいつは何者なんだ!?」
初めて会った時は…背は高いな、と思ったけど…大人しそうで、学科の優等生っていう印象だった。
医術を専攻していて、軍事演習関連は、必修以外ほとんど履修していない。軍の文官を志望する女子生徒は少なくないけど…中でもあいつは、時には奇異に見える程、徹底したスタイルを貫いていた。
だから、思っていたのだ………正直、敵じゃない…と。
が…さっきのあの、素早い身のこなし。
瞬時的確な判断と本能的な動きで、自分より大きな相手をばったばったとなぎ倒す。よほどの鍛錬を積んでいるのか…幾種もの攻撃と防御の型が、体に染みこんでいるようだった。
今まで、全然そんな素振りは見せなかったくせに。
「卑怯じゃないか!?あんなの」
「雪の奴」
爪を噛みながら、一馬が視線を上に向けた。
「何か…やらかしたのか?」
「…何かって」
僕がさっきの顛末を話すと…うーんと唸って、体を後ろに反らせる、一馬。
「それに、父上には内密に、とか…意味不明なことを言ってたぞ。仕掛けてきたのは上級生の方なんだ。教官に言いつけてもいいくらいなのに」
「親父さんかぁ」
「あいつ…学長の姪なんだろ?貴族の名家の御令嬢が、どうして」
「それは、触れてやるな」
一馬は珍しく、冷たい口調で言い放つ。
「あの家族は、好きでやってるんだ」
曰く、父上は平民の出で…一応両親の了承は得たものの、半ば駆け落ち同然に結婚したのだそうだ。親族のうるさがたは、未だに彼女の家族を一族の面汚しのように言っているらしい。
しかし、ご両親は一切意に介さず…もともと志していた、患者に寄り添う病院を作るという理想を追い求め、日々忙しく働いているそうだ。その背中を見て育った彼女が同じ道を歩み始めるのは、至極自然な成り行きのように思われる。
けど…だからって。
「それと、あの武術の腕前と、どういう関係があるんだ!?」
「武術だけじゃねえぞ」
ぽりぽり頭を掻きながら、一馬が言う。
「あいつ、ガキの頃からここにも通ってたし…夏月ほどじゃないけど、剣術もそこそこに出来る」
「………何だと?」
「あいつんち、『花街』のすぐ近くでさ…いつ、変な連中に絡まれないとも限らないだろ?だから、護身術みたいなの、色々と教わってるみたいなんだ、親父さんに」
『お父さんには言わないで』
彼女の言葉が、脳裏に蘇ってきた。
「あいつ、気短いんだよ、ああ見えて」
「気…短い………」
僕達に向けられた言葉と裏腹に…悪寒を誘うような、殺気に満ちた表情。
それに………西の国の荒々しい言葉。
「昔っからさ、雪の奴…売られた喧嘩はついつい買っちゃうの。けど、お前もさっき言ってたみたいにさ、学長の面子とかもあるじゃん。『学校では問題起こさない』って、親父さんと約束したんだと」
「…そう………か」
「ファザコンなんだよ、いわゆる」
「ふぁ………???」
「別に、お袋さんに反抗するわけじゃないけど、『お父さんが言ったから』っていうのは、雪にとって絶対なの。だから、悪いけど黙っててやってくれ」
「お前………平気なのか?」
つい…言ってしまった。
「出来の良い両親、出来の良い姉、それに…」
一馬の顔が、みるみる強ばっていくのが分かったが…止められなかった。
「年の近い叔父上は十二神将隊の隊長だぞ?その上、幼馴染まであんなに強くて…お前、どうしてそんなにへらへらしてられるんだ!?」
僕なら…いや、僕には………自分の置かれた現状すら、耐えられない。
人並以上に努力はしてきた。幼い頃から、部屋に篭って必死に勉強したし…倒れない範囲に、騙し騙しではあっても、武術関係の鍛錬も積んできた。
でも………変わらない。
頭でっかちと陰口を叩かれても反論できない、小さくてひ弱な体。
同級の女にすら、勝てないなんて。
「悔しくないのかよ!?」
言い切ってしまって初めて…一馬が、顔面蒼白になっているのに気づいた。
強く強く噛み締められた唇は、白くなっている。
「………一馬」
俯いて、黙ったまま。
一馬は、きっ、と…目の前の刀を睨んだ。
「一…馬?」
鼻を膨らませ、胸に大きく息を吸い込んで、ゆっくりと手を伸ばす。
そして。
さっき、自身が『神器』と呼んでいた…大ぶりの刀を、握りしめた。
すっくと立ち上がった一馬に、慌てて声を掛ける。
「何する気だ!?それ」
「『大通連』」
青い瞳は、うっすら涙ぐんでいるが…初めて見る厳しい表情に、怖気づくような変化はない。
『大通連』って………まさか。
「一馬!?」
「さがれ、悠斗」
「お前、一体」
『何をするつもりだ』と、僕が再び問いかけるより早く。
一馬の唇が動き、謎の言葉を発していた。
『巴』
次の瞬間。
何かが爆発するような音が、耳を劈き。
眩い光と共に、突如起こった強い風に吹き飛ばされ、僕は道場の土壁に思い切り叩きつけられた。
全身を激痛が走り、一瞬呼吸が出来なくなる。
目がちかちかして、気が遠くなりそうになるのを、頭を大きく横に振って必死に堪え…土煙の向こうにいるはずの一馬に向かって、叫ぶ。
「一馬!?大丈夫か、一馬!?」
「何事だ!?」
一夜さんが、どこかで叫んでいる。
「一馬!」
悲鳴のような、藍さんの声が…急激に遠くなる。
あ………
これは…駄目だ。
「大丈夫か!?一馬」
くれはさんの…声………?
「…いてっ!」
「痛むのか?」
「かず大丈夫!?」
「いろはちゃんは、危ないから下がってなさい!…一夜!?」
視界が、外側から次第に暗黒に侵されていく感覚。
………たおれる。
ダイジョウブ、タイシタコトナイトオモウ
ケド
クレハ、ワルイケドチョット、サネセンセイヲヨンデキテクレナイカナ
ジンギガカランデルカラ、ネンノタメチャントミテモラッタホウガイイ
ショウチシタ
ラン、イロハヲタノム
ワカッタ
アレ、ユウチャン
ユウチャン、ダイジョウブ
ユウト
シッカリシテ、ユウト
花街をぶらぶら歩いていると、見知った顔が視界を過ぎった。
「おーい。春ーーー?」
猫背の背中は、俺の声を無視して去って行く。
「聞こえてんだろ?春ーーー???」
後を追う俺を撒こうとするかのように、足早になって、どこかへすたすた歩き出した。
「こらぁ、十二神将隊大陰隊長舐めてんじゃねえぞ、待てっつってんだろーが」
「……………」
「…おーーーい、はーるーーー」
と。
ぐるん、と勢い良く振り返ると、春は。
「うっっっさいボケ!ついてくるな!!!」
道中に響き渡る声で、怒鳴った。
「…うっさいのはお前だろーが。てゆーか聞こえてんじゃねえか。せっかく声掛けてやったのに、その態度はねぇんじゃねえか?」
「…俺は、暇人につきあってる時間ないねん」
「暇人とはなんやねん」
「真似すんな、阿呆」
「阿呆はお前や」
じろり、と…俺を一睨みして。
「…知るか」
春はまた、歩き出す。
「なぁお前、学校どうしたんだ?」
「……………」
「サボりかぁ?ちゃんと講義出ねえと、俺みたいに放学になるぜ?」
「一緒にすんな。士官学校はきちんと出た」
「けどよ、大学校の講義とか演習とかもあんだろ?それ出ねえとお前、医者なれねーぞ?」
「…単位の計算はしてある。お前に心配してもらわんでもええねん」
「………またかよ」
春は、士官学校始まって以来、異例中の異例な奴で…二つも飛び級して、必要な単位だけ揃えて卒業してしまったのだ。どうやら、大学校でも同じことをやるつもりらしい。
医者になれさえすればいい。
それが、こいつのポリシーなのだ…そりゃもう、気持ち良いくらいまっすぐな。
「お前、ガッコウを何だと思ってんだよ?かわいい女の子と知りあったりとか、美人な先生の講義受けたりとか…そういう若者らしい楽しみを棒に振るなんて、勿体ねえぞ」
「…お前、何しにガッコウ行っとったんや?」
「…まあ、色々と?」
頭を掻いてため息をつき、春は呆れ顔で振り返った。
眼鏡の縁に、不機嫌な俺の顔が映っている。
「一応、朔月の跡継ぎやろ?」
「まあ…兄貴がそれに反対して、いろはが婿をとらなきゃな」
「だったら、見放されん程度にちゃんとやれ」
「…んー」
そのへんは色々、複雑なのだ。
姉貴が嫁に行き、親父は従兄を養子にして、うちを継がせた。
だから後継者っていうと、兄貴の娘のいろはか俺か…まあ、無理に継ぎたいとは思わないけど。
「お前は、他にやりたいこととかねえのか?親父さんもお袋さんも立派だと思うけどよ、そんなまっすぐ同じ道に進まなくたって」
緑色の瞳で、じろりと俺を睨む…春。
「お前は、何かやりたくてそんなことやってんのか?」
…失礼な。
「…気に入ってるんだぞ、これでも。あいつら馬鹿だけど、よく働くしな」
眼鏡の縁に手をやって、小首を傾げ。
「そうか」
春は再び、俺に背を向けた。
「用ないんなら、行くで」
「どこへ?」
「花街で怪我人。応急処置くらいなら、俺でも出来る」
なんとも…涙ぐましい話だ。
「今度飲もうぜ!久しぶりにさぁ、清志も玲央も流衣も一緒に!」
「おー、またな」
「あ!そういえばよぉ、妹さん元気か!?」
春の足が、ぴたりと止まる。
「雪ちゃん、一馬と一緒に士官学校入ったって聞いたぞ!長いこと会ってねえけど、きっと別嬪さんになってんだろうな。あの先生達の娘だもんな」
「…お前」
今日一、険しい顔をして…春はじろりと俺を睨んだ。
「花街で遊ぶのはお前の勝手や。けどなぁ…雪に手出したら殺すぞ、覚えとけよ!」
「………お…おぅ」
まったく…不真面目なんだか、真面目なんだか。
こんだけ花街をうろついてるのに、ガキの頃古泉道場で見かけて以来、顔を合わさないなんて…こいつの悪意以外の何物でもないような気がするんだが。
去っていく背中に向かって、べー、と舌を出した…瞬間。
何を勘づいたのか再び振り返り、春はぐい、と俺のローブの両襟を掴んだ。
「何やねん、何か文句あるなら言ってみぃ」
「…っとぉ…もぉ春くんてば、すーぐ熱くなっちゃうんだからぁ」
「そんなに殺されたいか、ああ!?メスで腹かっさばいて鉗子とピンセットで内蔵ぐっちゃぐちゃに掻き回してハサミでギッタギタに…」
「春!!!」
滅多でもないことを喚いている春の背後から、必死な声が響いた。
「くれは姉?」
ぜえぜえ息を切らせつつ、彼女は俺達に駆け寄ってくる。
「どうしたんだよ?そんな慌てて」
「おっ…お前こそ…何をしている?こんなところで」
「見廻りだよ、一応。でな、そこで幼馴染の春くんに会ったから、嬉しくなっちゃって♪」
「…嘘つけ」
「そうだ、春!」
俺達の間に割って入ると、くれは姉は春の肩を掴んだ。
「実先生見なかったか!?診療所に誰もいなくて」
「ああ…先生なら、城です」
自分の親父のことを、律儀に『先生』と呼ぶ春にちょっとうんざりしつつ、何事だろう?と思う。
「姫が熱出したとかで、呼ばれたらしいですわ」
「…茜姫が?」
「王立病院の医師じゃ、対応出来ないのか?」
「いや…ただの風邪やと思うけど」
呆れ顔で笑う春は、ちょっと誇らしげに見える。
「くれはさんかて、いろはが急に熱出したら、うちに来はるやないですか」
「まあ…そうだな」
だったら、と…くれは姉は、春の腕をぎゅうっと掴む。
「お前、『神器』の絡んだ怪我とかって、分かりそうか!?」
『神器』?
「んー…まあ、一応習いはしてますけど」
「じゃあ、とりあえずお前でいい!来てくれないか!?」
「…何かあったのか?」
「一馬が…ちょっとな」
曰く。
『大通連』が暴発して、一馬が怪我をしたらしい。
「暴発…って、あいつ…『大通連』を遣ったのか?」
あの…超癖の強い『神器』を?
一回握ってみたことはあるが、全身の力を吸い取られたみたいにぐったりして…もう、二度と御免だ、と思ったことがある。
「やるなぁ、あいつも。さすが師匠の息子ですね」
ひゅう、と軽い口笛を吹いた春だったが。
「いや、あいつ…」
こないだの演習の経緯を話すと、眉を顰めて困った顔になる。
「そんなら、何で『大通連』なんやろな」
「…だよなぁ。普通、そんな奴なら…触るどころか、近寄っただけで弾き飛ばされてもおかしくない」
「いや」
くれは姉は顔を曇らせて、首を振る。
「あいつは…違うと思う。おそらく………いろはと同じだ」
「…『神力』が強すぎる…って…ことか?」
そんなこと。
何で…入学試験の段階で、分からなかったんだ?
「とにかく…春。頼む」
「了解です」
妙に大人びた顔で頷いて、春はくれは姉の後を追いかけた。
「おーい」
「また、そのうちな!蓮」
ありがと、と…背中を向けたまま、春は妙に柔らかい声を出す。
「声掛けてくれて、ちょっと…嬉しかったわ」
「………おう」
道の真ん中に突立っていると、近くの店から可愛らしい声が呼びかけてきた。
「蓮様!どうなさったんですか!?そんなところで」
「少し、店でお休みになりません?」
「…ああ…そうだな」
きゃあきゃあと嬉しそうな花姫達から視線を逸らし、陽の光に照らされた瓦屋根に目を細める。
あいつも………なぁ。
命短しなんとやら、と…いうことだし。
俺は、使命感に燃える後ろ姿に向かって…思わず、呟いた。
「あんまり、生き急ぐなよ…春」
トントン、とノックの音が部屋に響く。
「坊ちゃま?」
使用人の声。
無視していると、遠慮がちに、彼女は再び僕を呼ぶ。
「あの…悠斗坊ちゃま。表に、ご学友の方がお見えなんですが…」
学友?
「すらりとした女性の方で、坊ちゃまのクラスメイトとかおっしゃって…いかが致しましょう?」
…まさか。
ため息をついて、ベッドから起き上がり、髪を軽く整えて、眼鏡を掛ける。
「今、行く」
門の前には…予想通り。
「急にごめんなさい」
宇治原雪が、にこにこ笑って立っていた。
「道場で倒れたって聞いて…大丈夫かなって思ったの。明日は学校、来れそう?」
大きなお世話だ。
「何の用?…わざわざ見舞いに来て貰うほど、僕達親しかったかな?」
あら、と彼女は、わざとらしく目を丸くする。
「おうちの人、心配してた?」
「………まさか」
「そうよね。それに…実は、私の方もついでなの」
ちろりと舌を出して、彼女は言う。
「ここ何日か、おばあさまの具合が良くなくてね…お母さんがおばあさまの所に泊まるって言うから、着替えとか持って来た帰りなの。一馬のことも心配してるかなって思ったし」
「ああ…ありがとう」
一馬は、ただの脱臼だったらしい。
一体…あの光は何だったんだろう?
あれが………『神器』の力?
…まさか、あの一馬が?
……………まさか…一馬まで。
「私、一つ…涼風くんに言っておきたいことがあって」
「…何?」
不意に発した声のあまりの不機嫌さに、自分自身驚いた。
が。
宇治原に怯む気配はなく、逆に、じっ…と緑色の瞳で睨まれた。
ぎょっとして、黙ってしまった僕に。
「知ってる?私の兄…春っていうんだけど」
「…二学年飛び級の人だろ?噂だけなら」
「私、多分…お兄ちゃんと同じことすると思う」
「………同じこと?」
それって。
「必要な単位揃えたら、出来るだけ早く卒業する。出来るだけ早くお医者さんになりたいの。そして、お父さんやお母さんや、お兄ちゃんを手伝いたい」
「…どうして…そんなこと…僕に?」
「飛び級したら、あなたや一馬や橘くんの、先輩になるの」
「………だろうね」
「だから、私…あなたのライバルにはなりえないわ」
どきり、と心臓が高鳴った。
「『恩賜の短剣』、狙ってるんでしょ?」
額を、冷たい汗が流れる。
「私は関係ないから…頑張って。このところ、『恩賜』って言っても、たいしたことない人が多いでしょ?だから、いいことだと思う。涼風くんとか、夏月みたいな人にこそ、相応しいと思うわ」
「………け…ど」
「お父様もお喜びになるでしょう?ご自分が授与した名誉を、あなたも授かれるんなら」
気持ちを落ち着けようと、やっとのことで深呼吸して、僕は彼女に訊ねる。
「君んとこだって…そうだろ?母上は確か」
「私はいいの。お母さんもお父さんも、そんなこと望んでないと思うし」
彼女が首を振ると、栗色の長い髪が、ふわりと夜風にたなびいた。
「二つも飛び級するとね、いくら優秀でも、さすがに『恩賜』は難しいみたいよ。お兄ちゃんは実際そう、言われたらしいし…必要ないもの。国の機関で偉くなるわけじゃないから」
安心した?と微笑んで、彼女は僕に手を振り、踵を返した。
「私も、言えてすっきりしたわ。じゃあまたね」
彼女の姿が、宵闇に溶けてしまうまで、見送り。
僕は、近所の丘に足を向けた。
腰を下ろすと、芝は水分を含んでいて…ひやりとして、思わず身震いする。
うちの屋敷のある辺り…城の裏手にあたる…は、城下町から少し離れていて。
花街を中心に、この時間でも人々が活動している灯りが、ちらちらと瞬いて光っている。
送って行った方が…良かっただろうか。
夜道を女性一人で帰すなんて、紳士にはあるまじき行為だと…は…思うが。
「あいつなら…大丈夫か」
手の内を見透かされていたのか、と思うと…悔しかった。
しかも、あんなにまっすぐに理想を語られてしまっては…まるで、権威を追い求めようとしている僕は愚かだ、と…言われているようで、腹立たしくもある。
ぎゅっと、膝を抱え…うずくまる。
どうして僕は…こんなに小さいんだろう。
どうしてあいつみたいに…強くなれないんだろう。
そんなことを…思った。
「あれ?」
背後から聞こえてきた声に…ぎょっとして、振り返ると。
「こんなとこで何やってんだ?悠斗」
「…蓮」
お前は?と聞き返すと、家帰る前の酔い覚まし、と、けろりと返され…言葉を失ってしまった。
宇治原のことは伏せつつも、蓮と少し、話をする。
「大変だなぁ、お前も」
三日月の輝く夜空を仰ぎ、蓮はぽつりと呟く。
「三公の嫡男ってのは、やっぱ重いもんか」
「蓮だって…そうだろ?」
「それ」
頭を掻きつつ、困った顔をする蓮。
「今日、春にも言われたんだよなぁ」
「春…って」
「知らないか?実先生と咲良先生んとこの春ってやつ。あーそっか、お前城下町のことあんま知らねえもんな。実先生の診療所のことも知らねえか」
「宇治原雪の…兄上?」
「あ、そうそうそれだよ!なぁんだ知ってんじゃん。いやぁ俺、雪ちゃんにはもう長いこと会ってなくてさ…美人か?」
「………わかんない」
たく…いっつもこうなんだから。
名家の跡取りっていうのは、もっとこう…清志みたいに、背筋がぴんと伸びた優等生であるべきなんじゃないかと思うんだけど。一夜さんの影響を受け過ぎてるんだろうな、蓮は。
「僕も、もう何年か早く生まれてたら良かったな」
呟く僕の頭を、こつん、と蓮が小突く。
「馬ー鹿、関係ねえだろそんなこと」
「…だって、蓮も清志も、僕よりずっと年上だし」
「『ずっと』とか言うな!人をおっさん呼ばわりしやがって、失礼なやつだなぁ」
「そうじゃない…ただ、僕も」
「早く大きくなりたいか?」
「………え?」
蓮は、空を見上げて、懐かしそうに笑った。
「俺も、そうだったよ…沢山飯食って、沢山寝て、沢山稽古したら…藍姉や一兄に追いつけるんだと思ってた」
「………それ、どういう」
「忘れてないか?俺は、家系図書くとお前らより一段上の世代なの。みそっかす扱いでさ、結構苦痛だった時期もあるんだぜ」
「…そうだったんだ」
「そ。だからお前は、まだ良い方だって」
けどな、と…蓮は目を細める。
「清志も玲央も流衣もいたし…士官学校も同期だったしな。お前にだって一馬や直生がいるんだ。それに、雪ちゃんだってさ」
「………あいつは」
「やっぱ、春とおんなじようなこと、言ってんだ?」
「おんなじ…って」
「『早く医者になりたい』って。他には興味ないって、そんな感じだろ?」
さっきの厳しい表情が、脳裏に浮かんだ。
「………分かるんだ」
「あの家はなぁ………親が立派過ぎんだよ。一兄みたく、抜けてるくらいが丁度いいと思うぜ」
「お前のご両親や兄上だって…」
「お袋はのんびりしてるしなぁ、くれは姉も味方してくれるし。親父も愁兄もうるせぇけど、まあ何とか息継ぎは出来てるよ」
「…だろうね」
あんだけ…花街に入り浸ってれば。
「好きにやりゃいいんだよ、お前も、一馬も」
「…好きに………ねぇ」
好きなことって…なんだろう。
あんまり…考えたことないけど。
そんな思いが、顔に滲み出ていたのだろう。
蓮は、あっけらかんと笑って、立ち上がった。
「ま、春にしても雪ちゃんにしてもさ、目標があるっていうのは、羨ましいよな」
帰ろうぜ、と言われ…来た時より幾分すっきりしたのに気づいて、僕は素直に頷いた。
よしよし、と…僕の頭をぐりぐり撫でると、蓮はご機嫌な様子で、濃紺のローブのポケットに手を突っ込んだ。
「もし、いろはがさ」
「…え?」
「おんなじようなこと、ウジウジ言ったら…慰めてやってくれよ。あいつも可能性あるだろ」
悩みなんか、欠片もないような、無邪気ないろはの笑顔を思い出す。
それに…『アンスラックス』なる赤いピアスと、『玉兎』なる白い指輪…彼女自身の『神力』が暴発しない為に、常に身につけている『神器』。
「…そうだな」
夜空を見上げ、少し冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
明日はちゃんと、宇治原にも…挨拶を返そう。