Ep5 悪い夢のあと
また、変な夢を見た。
巨大な洞窟の奥の奥…視界のほとんどない、暗い空間を、俺は一人で歩いている。
ごつごつした岩肌から蒸気が上がり、そこはサウナみたいに蒸し暑い。
むうっとした苔の生臭さとと土埃の混じった匂いが、鼻孔を満たし、何だか少し、気分が悪い。だが俺は、足を止めちゃいけないと思っていた。
黙々と歩き続け…一体どのくらい、時間が経っただろうか。
やがて、真っ黒な視界の向こう側に、微かな明かりが見えてきた。
近づくにつれ、周囲の温度も上がり…それが、真っ赤に燃え盛る、炎であることに気づく。
何かが焦げるような臭いが、不快に鼻とのどの奥を、強く刺激した。
そんな、気味の悪い場所に近づくなんて、と…思うのだけど。
何故だろう…俺は歩調を緩めず、それどころか、徐々に小走りになって、炎のある空間へ、急いでいるようで。
不意に、視界が開ける。
俺は、何か大声で叫びながら、炎の中心に一直線に向かって駆け。
その中心には………
それが、一体何なのか。
一切確認出来ないまま…目が覚める。
「…ふう」
ため息をついて、汗ばんだ額に手をやる。
シャツも嫌な汗を吸って、重く湿っている。
喉がカラカラで、ヒリヒリする。
何だろ………あれ。
思い出すだけで、ぞくり、と背筋に悪寒が走る。
「………あ」
また、だ。
目を閉じて、神経を研ぎ澄ます。
が。
外は静かで…離れた『花街』の喧騒の一欠片が、耳に届くか届かないか。
「気のせい…か」
でも。
『気のせい』なんて、そうそう続くもんだろうか。
ぼんやり考えていた…その時。
「うぅ………」
苦しそうな呻き声が、襖を隔てた隣の部屋から、漏れ聞こえてきた。
立ち上がり、襖を開けて、布団の中で苦悶の表情を浮かべる直生の体を、そっと、揺さぶってみる。
「直生…大丈夫か?」
「う………ん…だいじょう………」
最後まで答えきらないうちに…直生の荒かった呼吸は、安らかな寝息に変わった。
思わず、安堵と…困惑の混じった、ため息を一つつく。
最初の一週間くらいは、こんな風じゃなかったのに。
直生は最近…毎晩、何か悪い夢にうなされている。
朝、聞いてみても『覚えてない』の一点張りで…こんなに苦しそうな顔しなきゃならないなんて、どんな夢を見てるんだろう。
もしかしたら、俺がさっき見たような夢と、何か関係があるんじゃないか…なんて。
どうせ笑われるだけだろうから、誰にも言う気はないけど。
「あー…喉かわいた」
俺は、誰に言うでもなくつぶやいて、廊下に出た。
台所で、コップ一杯の水を一気飲みして人心地つき、部屋に戻る。
外はまだ暗く…窓から月の光が差し込んで、板張りの廊下をほのかに照らし出していた。
先代の頃は、内弟子を沢山抱えていたこともあるらしい。
無駄に広い家には、何か、訳のわからないものが潜んでいそうに思えて…ガキの頃、夜中は少し心細かった。
「それ…どういう意味?」
どきりとして、振り返る。
「玲央が、私達に隠し事するなんて…ありっこないじゃない」
音量を抑えた、それでもよく通る母さんのとがった声は、寝室から聞こえてきていた。
「何も、玲央が、とは言ってないよ」
父さんの、少し困ったような声が続く。
こんな遅くまで…二人して、何話してんだろ。
「じゃあ…誰のことなの?まさか」
母さんの声は、更に小さくなり、鋭さを増す。
「東伯公のご意向ってこと?」
「その言い方やめない?」
ため息混じりに父さんが言う。
「あいつに限って、俺達に秘密裏に何かするわけないって、言われなくたって分かってるよ。右京にとって、紺青は第二の故郷みたいなもんだろ?でも…あいつは、昔っから正義感の強い、責任感の強い奴だった…直生は本当に、右京そっくりだよ」
直生という言葉に、心臓が一つ、大きく高鳴った。
「何か問題があるとすれば、だけどさ。何も言って来ないってことは、こっちに心配かけまいとしてるんじゃないかな。あっちで何とか出来るうちは、伏せておこうって…剣護もああ見えて忙しいだろ?だから」
「…水臭いなぁ」
母さんが、不満混じりの声で、子供っぽくつぶやく。
「右京様らしいといえば、そうよね………直生も、もっと打ち解けて、色々東のことを話してくれるといいんだけど」
直生………か。
「一馬とも夏月とも仲良くやってるみたいだし、いいんじゃない?子供のことは子供同士、俺達はもう少し、黙って見守っててやろうぜ」
案外…親父らしいこと、言えるんじゃん…父さん。
でも………
子供同士って言ったって…直生の本音とか、全然聞いたことない気がするな。
それに…あの、辛そうな寝顔。
なんだか…ずしりと気が重くなった。
「それはいいとしてさ、藍」
「えっ………ちょっと…一夜?」
………なんだか、不穏な空気を察知して。
両耳に人差し指をぎゅうっと突っ込んで…足早に退散する。
何か聞こえるような気もするが…気のせいだ。
聞こえない聞こえない…なーんにも、聞こえない。
うちの、新婚気分がいつまでたっても抜けない、両親の部屋から漏れる、微かな物音も。
どこの誰だかわからない少女の…俺を呼ぶ声も。
うららかな午後。
どうも眠り足りない気がして、机に突っ伏していると、コツン、と…何かが俺の頭を小突いた。
「………う」
大きく一つ、息を吐いて、起き上がると。
コツコツと軽やかな靴音を立てて去っていく、栗色のロングヘアの後姿が、視界に入った。
「雪?」
「そろそろ起きて移動しないと、あなたの次の講義、『天球儀』なんでしょ?」
周囲を見ると…柔らかな春の光の照らす教室は、人もまばらになっていた。
そっか…『天球儀』。
足を踏み入れるのは、実は今日が初めてだった。
それは、半球状の大きな建造物で、『ジェイド』とかいう…何やら、奇妙な素材で出来ていて。
内部には、外見から想像するよりも、ずっとずっと巨大な空間が広がっているらしい。
その壁に、どんな衝撃を与えようが、外部には、音も振動も一切漏れない。それどころか…内部でどんな重傷を負っても、死ぬことはなく…外に出ると、無傷の状態に戻っているのだという。
原理は全く分からないが…仮想の敵とか、町並みとか…そういうのも、拵えることが出来るらしい。すべて、士官学校の生徒達の、様々な訓練のためだ。
…もちろん、しょっぱなから実戦とか、そういうことをやらされるわけではなくて。
今日は…言わば、『神器』の扱い方の演習だ。
士官学校に入学するまで、ほとんどの生徒に、その『神器』なる、人の内なる力を引き出して、摩訶不思議な威力を発揮する道具に、触れた経験はない筈だ。『神器』は、紺青の軍によって厳重に管理されており、ごく少数の限られた人間しか、携帯出来ない決まりになっているから。
『機会があるのに生かさんのは、愚か者の所業だ!』
夏月の怒鳴り声が、脳裏に不快に蘇る。
…さぼろっかな。
そんな考えが、ちらと脳裏をよぎった。
雪は、複雑な表情を浮かべた俺を、怪訝そうに見つめている。
「どうしたの?『どうやってすっぽかそうかな』みたいな顔しちゃって」
………鋭い。
「ばーか、そんなんじゃねーよ」
重い腰を上げて、閑散とした教室を出る。
灰白色の大理石の敷かれた廊下は、ひんやりと冷たい。
残り香のような睡魔が飛んで…意識がはっきりした分、余計に気分が重くなる。
『神器』は、初めて触れる一年生にとって、相当危険なものらしい。
だから、演習の補助者として、他の十二神将隊天一隊の隊士も大勢動員され…それは、普段士官学校で教鞭を執るもの、執らないものを問わない。
俺の、『神器』の扱いがイマイチだったとして…口の軽い隊士から漏れ聞こえた噂が、蓮兄の耳に届いたとしても、何ら不思議ではない…その場合、俺はしばらく、蓮兄に馬鹿にされ続けることになるだろう。
が………今問題なのは、そこではない。
「遅刻して、古泉先生に恥かかせるようなこと、しちゃ駄目よ」
…絶句。
雪の馬鹿、鋭いにも程がある。
そう。
士官学校で、『神器』に関する講義の一部を任されている、臨時教官の『古泉先生』…うちの母さんも、演習に加わることになっているのだ。
「………うるせえなぁ」
母さん…きっと、がっかりするだろうな。
夏月は、四年生一の優等生だ。
何でも、最優秀卒業生が王から賜る『恩賜の短剣』の、最有力候補というもっぱらの評判。日頃からせっせと腕を磨いている剣術だけでなく、武道全般に長けていて、『神器』の扱いも抜群だと聞くし、その上頭も良い。
おまけに…ルックスも、抜群ときている。
『これが、あの古泉夏月の弟か?』って顔をする、上級生や同期達を…俺は、入学当初から、うんざりするほど見てきた。けど…それは、今に始まったことじゃなく、ガキの頃からずーっとそんな風に扱われてきたので、別に気にしてない…気にしないようにしている。
うちの両親は、そんな周囲の見方に、あまり関心がないらしい。
たぶん…俺が端から、剣術にさほど興味を抱かなかったことや、両親の『神器』を触ってみたことがなかったことが、大きな理由…だと思う。おかげで、夏月と俺の能力の違いが決定的になることは、今まで一度もなかったのだから。
けど………これ以上、逃げ隠れすることは出来ない。
ため息をついた俺の背中を、身長の高い雪がぽん、と上から叩く。
「どうしちゃったのよ?本当に…」
「なあ、雪」
女にしては背が高いことを除くと華奢で可憐な風貌ながら、『馬鹿と弱い奴は男じゃない』と言って憚らない、手厳しいこと極まりない雪だが…幼馴染のよしみか、俺にとっては何でも話せる、貴重な存在だ。
「俺が、『神器』…からっきし駄目だったとして…母さん、何て言うかな?」
俺の弱音に、不思議そうに目を丸くして、首を傾げ。
「『練習あるのみね』って…言うんじゃない?」
こともなげに言う雪に、俺はがっくり肩を落とす。
………そうだな。
「剣術の時だって、そうだったでしょ?古泉先生…お父様の方だけど…に、こてんぱんにのされちゃったこと、あったじゃない?あの時だって」
「………嫌なこと、思い出させんなよ」
『最初は誰だってそうよ』
縁側でぐずぐず泣いている俺の頭を撫でながら、母さんはにっこり微笑んだ。
『練習あるのみ。そうすれば一馬…あなたも、父さんみたいに強くなれるわ』
「俺…まだ、七つとかだったんだぜ?あん時」
まだ、竹刀を握って間もない…そんなチビ相手に、吐くほどの稽古を課すような大人は…うちの親父以外にいないだろう。今思うと、あれは、虐待の域に入るのではないだろうか。
そんな親父をちょっと睨んだだけで、後はお咎めなしとした、うちの母さんも…やっぱり、ちょっと変わってるんだと思う。
「古泉先生、優しいけど、決して甘い方ではないもんね」
母さんの後をついてきて、俺が泣き止むまで、隣にいてくれた雪は(夏月は、最初こそ心配顔で様子を見に来たが、『ぐずぐず泣いてばっかりいる弱虫なんて、私の弟じゃない!』と怒って、さっさとどこかへ行ってしまった)、当時を思い出してか、懐かしそうにくすくす笑う。気恥ずかしさに、顔から火が出るようだった。
「その…古泉先生っての…やめろよ」
話題を逸らしたくて、そんな風に言うと。
案の上、雪は目を丸くして、どうして?と聞き返す。
「だって…ややこしいだろ?親父のことか、お袋のことか」
「士官学校では」
ぴっ、と人差し指を立て、優等生口調で雪は言う。
「藍さんはれっきとした先生だもの。それに、ごくごくプライベートな場所を除いて、私みたいな子供が大人を『藍さん』『一夜さん』って呼ぶの、あんまり良いことじゃないでしょ?」
「そうかぁ?」
「お父さんがそう言うだもの、間違いないわよ」
「………そう…か」
…でたでた。
「お前のお母さんは…そう、言わないのか?」
「勿論言うわよ?でも、お父さんもそう言ってた」
「…お前さぁ」
「こういうことだって、一馬の前だから言うのよ?16にもなって、こんなこと言ってたら、ちょっと恥ずかしいでしょ?」
思ってんだから一緒じゃねーか、と…俺は思う。
そうするうちに突き当たった、階段の踊り場で、雪はじゃあねと手を振って、階段を上り始めた。
「おーい、雪!?お前講義は…」
「私、この時間は別の講義とってるの!後で色々聞かせてね!」
別の講義。
………そっか、そうだった。
「雪!」
階段を軽やかに駆けていく後姿は、夢に向かって一段一段登っていくように見えて…なんだか羨ましくて、かっこよかった。
「なあに?」
「あの………なんつーか…頑張れよ!」