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Ep3 爽快な朝と憂鬱な出来事

我が家の朝は、早い。

目覚ましが鳴るよりきっかり五分前に目を覚まし、私は布団から這い出て。

カーテンを開け、うーん…と大きく伸びをする。

「いい…天気だなぁ」

欠伸しながら呟いて。

私はいつも通り、部屋に掛けてあった道着に手を伸ばした。


「おはよっ」

明るい声に振り返ると、これからランニングに行くらしい父さんが、にこにこと手を振って立っていた。

「おはよう」

「こんな早くに稽古?感心感心」

満足気に頷いて、父さんは一緒に行く?と私を誘う…が。

「いや、いい」

「そっかぁ、残念!」

いかにも惜しそうに、パチン、と指を鳴らして、父さんは軽やかな足取りで門を出て行く。

「いってらっしゃい」

「おー!行ってくるー」

肩越しに手を振りながら遠くなる、その後ろ姿を見送って。

私は道場に、足を踏み入れた。

冷たい床の感触が、ひやりと素足の裏に伝わる。

静かな道場で坐禅を組んで、目を閉じ神経を集中させる。

これは…私にとって、とても大切な一時だ。

『一緒に行ってあげればいいのに』

母さんは、いっつも呆れ顔で笑うけど。

そんなこと…分かってるけど。

「ふぅ…」

想像しただけで…面倒くさい。

あの年の割に、うちの父さんは大分若いと思うし、『あんな素敵なお父さん、私も欲しい!』って…学校の友達にもさんざん言われる。

でも。

「騒々しいんだよな…あの人」

そりゃ、あんな風に気の若い親の方が、理解があっていいと思う。麗んとこなんか、父上がすごく厳しくて、門限も早いし色々面倒そうだから。

でも。

うちの父さんの場合、気が若いというより…こう。

「子供のままなんだよな…感覚が」

『うちは、子供が三人もいるから大変』

母さんは、よく笑いながらそんな風に言うけど…あれは多分、半分以上本気で言ってる。

………と、いけない。

「集中集中」

目を閉じて、一つ、深呼吸をする。

坐禅を組んで、精神統一が終わったら、柔軟で体をほぐして、竹刀を握って素振りをする。

そして、シャワーで汗を流したら、制服に着替えて学校だ。

そう、私は忙しいんだし。

あんな自由人に構って、心を乱されている時間はないんだから。


長い髪を丁寧に乾かして、台所に向かう。

「おはよー」

ふわりと鼻をくすぐる、母さんの味噌汁の優しい匂い。

「おはよ。今日も早いのねぇ」

大きな目を更に大きく見開いて、母さんが嬉しそうに振り返る。

手伝う、とエプロンを手にすると、ありがとう、とまた嬉しそうに言って、母さんは目を細めて私をまじまじと見た。

「何?」

「なんだかね…その格好してると、やっぱりなっちゃんは、おばあ様に似てるなって」

思わずむっとして…母さんが味見して、と差し出した小皿を、黙って唇に当てる。

「そんな、怒らなくたっていいじゃない」

「…私、会ったことないし」

「そりゃそうよ。なっちゃんが生まれる、ずーっと前に亡くなったんだもの。だから」

「…そうだろうけど」

だいたい、おばあ様の学生服姿なんて、何で母さんが見てきたように話せるのだ。

『写真を見たことがあるの』

前聞いたときは、すまし顔でそう返された。

『なっちゃんと同じ、士官学校の制服を着て、正門の前に立ってるおばあ様の写真。でも…あれ、どこに行っちゃったのかしらね』

何か…気になるんだ、あの言い草。

それに…やっぱり気に食わない。

「綺麗な方だったのよ、紺青一の美人って評判だったんだから。おじい様は幸せ者だって、結婚が決まった時はもう、街中大騒ぎだったんですって」

「…ふうん」

母さん方のおじい様も、実は内心がっかりしたらしい。そんな話をしてくれたのは、母さん方のおばあ様だっただろうか。そう…そんなおばあ様が、私の名づけ親である。

びっくりする程綺麗で、その上、びっくりする程自由な人だったのだという。

父さんが言うくらいだから…相当だ。

母さんの小気味よい包丁の音を聞きながら、食器棚を開けて…ふと、ため息をつく。

自由って…常識がない…って意味でしょ?

会ったこともない、おばあ様。

「夏月?」

ぎょっとして顔を上げると、戸口に風呂上りらしい父さんが立っていて、何やら手招きして私を呼んでいた。

「何?」

「こっちは俺やるから、君はこっち」

廊下に出ると、制服に身を包んで所在なさげに佇む、小柄な少年の姿が目に入った。

「おはようございます、夏月さん」

「ああ…おはよう、直生」

そうだ。

昨日からうちに居候することになった、両親の旧友の息子。

「一馬は?」

「…起こしたんですけど」

「…だろうな」

我が家の朝は、早い。

ただ一人………弟の一馬を除いては。

我が愚弟は…耳が壊れそうな爆音の鳴り響く目覚まし三つをもってしても、びくとも目を覚まさないくらい、朝が弱い。というより…『早起きをしよう』という意志がない。

「悪いな…気を遣わせてしまって」

乾いたばかりの髪に手をやり、謝ると。

いえ、と…直生は礼儀正しく微笑んだ。

まったく…同じ年とは思えんな、一馬と。

「じゃ、夏月」

ぽん、と頭に載せられた手に、ちょっとむっとしながら、何?と尋ねると。

私が嫌がっているのを、まるで面白がるように笑って…父さんはもう一度、ぽん、と大きな掌を私の頭の上でバウンドさせた。

「まだ朝飯まで時間あるから、直生を散歩にでも連れてってやって」

「えー?」

『嫌だ』という言葉が、喉元まで出かかったが。

そんなこと言ったら…生真面目そうな直生は、きっと傷つくに違いない。

私が反抗すべきは父さんであって、この一馬並に小さな少年には、何の罪もないんだし。

「わかった。行こうか、直生」

踵を返すと、はい、と気持ちの良い返事が、私の後ろをついて来た。


まだ眠りから覚めきらないような街は、昨日よりぐっと静かだった。

「………どこか」

「え?」

「行ってみたい所、あるか?」

黙々と歩いていた夏月さんが急に言うので、僕は慌てて首を振る。

「まだ…紺青の街、よく分からないので」

「そうか」

ぽりぽりと頭を掻いて、夏月さんは面倒臭そうな視線を、通りの向こう側に投げた。

「じゃ…『花街』にでも、行ってみるか」

朱色の仰々しい門をくぐると、そこはどこか疲れた空気に包まれていた。

赤い顔で道端にうずくまる男達に、少し化粧の崩れた女達。

気だるい表情で行き交う、見慣れぬ雰囲気の人々に気圧されながら、俯きがちに夏月さんの後をついて歩く。

「ここは…?」

「心配いらん。ここいらの連中は皆、明け方まで騒いで疲れてる。私達みたいなガキには興味ないさ」

「………怖く…ないんですか?こんな」

いかにも…危なそうな所。

僕の問いかけに、今朝初めての上機嫌な顔で振り返り、夏月さんは長い髪を掻き上げた。

「ま、うちの近所だしな。友達もいるし」

『近所だし』…か。

一馬も昨日、そんなこと言ってたな。

「貴族…なんですよね?お父さんもお母さんも」

尋ねてから…しまった、と思った。

「まあ…そうらしいが」

整った眉をぎゅっと寄せ、ちょっと不愉快そうに夏月さんが頷く。

まずいことを聞いてしまったかな、と…思ったものの。

…口に出してしまったからには、引き返せない。

「なんで…こんな繁華街の傍で、道場を開いたんでしょうね」

「それは…仕方がないんじゃないのか」

「え?」

「父さんの師匠があそこで道場をやっていて、そこを継いだんだと。いい場所だろ?街の中でも人通りは多い所だし、貴族のお屋敷からもそれなりに近い。通う人間を選ばない」

「…なるほど」

そういうのが好きなんだ、と…意外に嬉しそうな顔で、夏月さんは頷く。

「剣術に貴賎はない。厳しい稽古に耐えた人間なら誰だって、強くなれる」

早朝の道場から聞こえていた、彼女の威勢の良い声を思い出す。

きっと…相当、剣術が好きなんだろうな。

「直生も、剣術が得意なんだってな」

「え………あ…まあ」

「父さんが言ってたぞ。お前の父上は、父さんを上回るくらいの剣士だったんだって」

「そんな…誉めすぎです」

一馬は全くだからなぁ、と…彼女は諦めたような口調で呟く。

「『お前は道場の跡取りなんだぞ』って言うとな…顔真っ赤にして怒るんだ。『そんなこと、姉ちゃんが決めることじゃねーだろ!?やりたきゃ姉ちゃんがやれ』って」

………へえ。

「一馬…運動神経良さそうなのに」

「そう思うだろ?けど、あいつはとにかくドン臭くてな…けど、それだけじゃなくて」

彼女が苛立つようにダン、と地面を蹴ると。

プリーツスカートがふわりと揺れ、しなやかな足が露になり…白い肌にどきりとして、僕は慌てて視線をそらす。

「あいつは、とにっかく根性がない!」

「…はぁ」

「剣術は基本が肝要、一にも二にも稽古だ。なのにあいつは『面倒臭い』だの『やったって上手くなんねーよ』だの、うだうだ言って逃げてばかりで…そんなの、上手くなるものも上手くなる訳がない!直生だってそう思うだろ!?」

「え…ええ。そうです…ね」

「あいつには、いつかガツンと言ってやらねば、と思ってるんだが…まあ、それはいいとして、直生も稽古しないと、体が鈍ってしまうだろ?道場は好きに使うといい」

「本当ですか?」

「ああ、父さんもそう言ってた。ただ、昼間は門下生がいるから、自由に使いたいんなら、私みたいに朝か、子供達が帰った後がいいだろうな」

昼間に、門下生の面倒を看てくれてもいいんだけど、と笑う夏月さん。

稽古が出来るのもありがたいけど、それよりも…そんな僕の気持ちを察して、お父さんに話してくれた夏月さんの心遣いが、もっと嬉しかった。

「じゃ、そろそろ帰るか」

「はい」

その時。


「夏月ちゃん!」

聞いたことのある声がして。

振り返ると、艶やかな着物の少女が立っていた。

「あ…れ?」

「あなたは」 

きょとんとした目で、僕と少女を交互に見つめ、夏月さんが尋ねる。

「なんだ…知り合いか?」

「あの…」

少女は顔を真っ赤にして、深々と頭を下げ。

「昨日は…本当にありがとうございました!」

彼女の動作と同時に、昨日と同じ花の香りが漂った。

「えっと…大丈夫だった?その…あの後」

「ああ」

合点がいったとばかりに手を叩き、夏月さんが言う。

「あれか。昨日一馬と直生が、妙な連中に絡まれたとかっていう」

「私のせいなの。私があんな厄介な人達にぶつかったりしたから」

大きな瞳に涙が滲んで、僕は慌てて首を振る。

「そんな…君のせいじゃないよ!それに、僕も一馬も何ともなかったんだし」

焦る僕と深刻な表情の少女を交互に見ながら、にやにやしている夏月さんに、お知り合いですか?と尋ねると。

「さっき言ったろ?こいつが私の友達。槐っていうんだ」

「槐…さん」

「はい、そこのお店で」

長い髪をゆっくりと掻き上げ、槐さんは緑色の目を、傍らの料亭風の店に向ける。

「『花姫』として、働いてます」

『花姫』?

夏月さんが、少し慌てた様子で、僕と槐さんの間に割って入る。

「『花姫』と言ってもな、直生、槐は歌とか舞とかを客に見せているだけで、別にいかがわしいことをしているわけでは」

「夏月ちゃん、いいのよ」

そんなに庇ってくれなくても…と、槐さんは少し淋しそうに微笑む。

「私、この仕事してて…本当に良かったって思ってるの」

「………槐」

「店のお母さんね、孤児の私に、本当に良くしてくださって…それに、夏月ちゃんが心配するようなお店、『花街』ではかなり少なくなってるのよ」

普通の家の生まれでも、華やかな歌や踊りの世界に憧れて、『花姫』を志す娘が沢山いるのだと言って、槐さんは胸をそらす。

「『槐の舞が見たくて来た』ってお客様が言ってくださるとね、私…本当に誇らしくて」

「そうか」

ちょっと複雑な顔で呟いて、夏月さんはにっこり微笑んだ。

「悪い、私もこんなに近くにいて、槐のこと…全然分かってなかったのかもしれない」

嬉しそうに首を振る、槐さんの髪留めが、朝日に照らされてきらりと光る。

すがすがしい空気を胸にいっぱい吸い込んで、道の向こう側に目をやった。

その時。


「きゃあああーーー!!!」

甲高い女性の悲鳴と共に、視線の先、軒を連ねる店の一つから飛び出してきたのは、一人の痩せた男。手にした何かが、陽の光を反射して、ぎらりと光った。

「誰か!誰か捕まえて!!!人殺しーーー!!!」

「…殺し?」

眉間に皺を寄せる夏月さんの傍で、怯えた槐さんが着物の袖で口を押さえる。

咄嗟に腰に手をやる………が。

そうだ。

ここは燕支じゃない…丸腰だったの、すっかり忘れてた。

「くっ………」

どうしよう。

夏月さんも同じ気持ちらしく、周囲を見回し、何か武器になるものを探している様子。

遅れて店から出てきた中年の女性は、華奢な若い娘を抱き抱えている。娘は鶯色のきらきら光る着物を纏っているが、腹部が血で染まり…顔は真っ青だった。

「誰か…誰か助けて!!!」

泣き叫ぶ、店の主人らしい女性。

近づいてくる男は、どうやら返り血を浴びているらしい。浅葱色の着物に、真っ赤な染みが広がっており、必死の形相の中に、たった今人をその手に掛けてきた、異常な興奮の色が見える。

とにかく。

「止めなきゃ」

一歩踏み出した僕に、直生、と夏月さんの鋭い声が飛び。

次の瞬間。


僕達の目の前の店から、すっ…と現れたのは、一人の男。

長身の細身で、紫紺の髪は後ろで一つに結い上げられている。

静かな動作で、ふっ…と、右足に重心を掛けた。

と。

「………!?」

血走った目を見開く男に向かい、腰の刀を抜き、一閃。

「きゃ………」

小さく鋭い、槐さんの悲鳴。

朝の澄んだ空気の中に、鮮やかな血しぶきが飛ぶ。

「ふ………」

バランスを失って、男は、ゆっくりと地面に崩れ落ち。

さっきと違う、自分の血で…その掠れた着物は…赤く染まっていく。

それは………

ほんの、一瞬の出来事だった。


騒ぎを聞いた大人達が、あちこちからぞろぞろと現れる。

倒れた男をじっと見下ろしている、若い男に。

夏月さんが、そっと…声を掛ける。

「あの………流衣…さん」

「怪我」

「………え?」

「怪我、なかった?」

ぎょっとした表情で、硬直する夏月さん。

流衣と呼ばれた青年は、返り血を浴びて…涼やかに微笑んでいたのだ。

答えを促すように、黙って微笑んでいる青年に、気まずそうに夏月さんが頷くと。

「そう…良かった。槐は?」

「…は…はい!あの」

「お…おい!お前…わかるか!?」

倒れた男を揺さぶる、知り合いらしき男性に。

「心配すんなー、そいつは間違っても殺したりなんかしねーよ」

呑気な声が、どこからともなく聞こえてきて。

見上げると、通りに向かって開かれた窓から、蓮さんが顔を出していた。

「…何であんな所に」

僕の言葉に、夏月さんが顔を赤くする。

そして、蓮さんに向かって、大声で怒鳴った。

「蓮!お前は引っ込んでろ!!!」

「おー、夏月。何やってんだ?こんな所で」

「それはこっちの台詞だ!」

「そんなの、決まってんじゃねーか」

にやりとする蓮さんの傍らには…美しく着飾った少女が二人、寄り添うようにしてこちらを見つめている。

………つまり。

「お前、立場というものを考えろと、何度言ったら分かるんだ!?」

頭の中を整理しようと首を傾げていた僕の耳を、夏月さんの甲高い怒鳴り声が突き刺す。

拳を握った両手をブンブン振り回し怒りを露わにする彼女を見つめ、流衣と呼ばれた青年は楽しそうに微笑む。

そして、蓮さんを仰ぎ見て、慣れた口調で声を掛けた。

「丁度良かった。蓮、頼める?」

「あ?」

「あいつ」

彼が指差す先には、血まみれで倒れる男…ヒュウヒュウと、異様な音をたてて呼吸している。

「僕、行かなきゃいけないから」

「あーそういうことな!分かった、任せろ」

「おい、待て!!!」

野太い男の声に、立ち去ろうとしていた流衣の足が止まり。

その間に…知人を傷つけられ、頭に血が上った様子の男達が、彼をぐるりと取り囲んだ。

「てめえ…一体」

「十二神将隊です」

物騒な気配に一切動じることなく…流衣は穏やかな笑みを浮かべ、男達の問いに応える。

「十二神将隊勾陣隊伍長、朝生流衣」

…勾陣隊って。

あの………

僕以上に、『彼ら』の恐ろしさをよく知っているらしい男達は、瞬時に顔色を青くして…ゆっくりと後退りし、彼との間に距離をとった。

あの程度の間では…彼がその気になれば、一瞬で切り伏せられてしまうだろう。それでも…流衣青年は、自身の言葉の効果に満足そうに頷いて、くるりと振り返り…男に傷つけられた、正真正銘の『被害者』が担架に載せられて運ばれていく姿に、ほっと安堵の溜息をついた。

「どうやら、あの子も息はあるようだね」

「そう…みたいですね」

硬い表情で相槌を打つ夏月さんに、彼は優しく微笑み掛ける。

「あれならきっと大丈夫。この街の名医が…あの子のこと、助けてくれるさ」

「………じゃあ、あの男は?」

夏月さんの顔は…一層強ばって見えた。

が。

流衣は、そんな彼女に気づいてか気づかずか…依然、楽しそうに笑っている。

「先生は、患者をわけ隔てする人じゃないからね。治療はしてくれるだろうけど…ま、あいつは罪人だし、うちの天后隊の病院にでも、ぶち込んどくことになるんだろうね」

「……………」

「じゃあ、蓮!お願いね」

蓮さんを仰ぎ見て、彼はそう声を掛けると。

くるりと踵を返し、現場から離れようとした。

「流衣さん!」

夏月さんの鋭い声に、彼の足が止まる。

「…何?」

「あれ…やりすぎじゃないですか?」

「………どうして?」

ぐっと言葉を飲み込み…だって、と呟いて夏月さんは俯く。

「師匠に言いつける?」

「………それは」

「あいつは武器を持ってた。気も動転してるようだったし、あのままにしておいたら、他にも犠牲者が出たかもしれない」

「……………」

「それでも…夏月ちゃんだったら、何もせずに見てた?」

心配して覗きみると、夏月さんは悔しそうに唇を噛んで、大きな瞳を潤ませていた。

流衣は微笑んだまま、彼女に近づいて…そっと、頭に手を乗せる。

「そういう、誰にでも別け隔てなく優しいところ…本当に、母上そっくりだね」

「……………」

「いいんだ…君はそのままでいて。こういうのは、僕が引き受けるから」

彼は、優しい声で言い…僕の方に視線を移した。

感情の読み取れない、紫紺の瞳に…ぞくり、と鳥肌が立つ。

「君が噂の…古泉道場の新しい住人かな?」

「…はい。橘直生と申します」

名乗る僕に手を差し伸べ、彼はゆっくりと微笑んだ。

「知ってるよ。君の母上には…小さい頃、随分と可愛がっていただいた」

ずきり、と心臓が痛む。

彼の言葉に、一瞬…何もかもを見透かされているような錯覚を覚えた。

そう………例えば。

僕に、母上と過ごした記憶が…あまりないこと。

何しろ母上は多忙な人だった。

困っている東邑の人々に献身的に尽くすことを、生き甲斐にしているような人だったのだから。

それでも………

『直生』

優しい声と、笑顔。

ほんの僅かな時間でも、僕にとって母上と過ごす時間は…かけがえのないものだった。

………それなのに。

「どうかした?」

穏やかながらも…どこか冷たく響く流衣の声に、僕ははっと我に返り。

「いえ…そうでしたか」

胸の奥の思いを悟られないように笑って、その手をしっかりと握った。

「よろしくお願いします。紺青のこと、僕…全くわかりませんので」

「こちらこそ、何か力になれることがあるといいんだけど」

さわやかな笑顔で言って、踵を返し。

彼は…朝の陽射しの中に、消えて行った。


しばし、無言で立ちすくんだ後。

夏月さんは………

「蓮!!!」

無線に向かって何か話していた蓮さんに、怒りに満ちた瞳を向けた。

「お前、一体どういうつもりなんだ!?『任せろ』なんて…何で止めなかったんだ!?」

真っ赤な顔で怒鳴る彼女に、蓮さんはちょっと不機嫌そうな顔をした。

「んだてめぇ、文句あんのか?」

「大ありだ!!!」

「あのなぁ、それが年長者に対する口のきき方か?お前の両親はなんつー教育してんだ」

「うるさい!ほんの一歳しか変わらんお前に、そんなこと言われる筋合いはない!!!」

……………あれ?

二人の会話にちょっと違和感を覚えて、僕は、怒りに肩を震わせている夏月さんに尋ねた。

「あの、夏月さん…蓮さんて、その」

「ああ…初めてか?あいつ見るの」

「いえ、昨日お会いしました…けど、お二人は…ご兄妹ではないんですか?たしか昨日…一馬、蓮さんのこと『蓮兄』って」

一瞬、顔を強ばらせ…夏月さんは、不愉快そうな顔を、ぐいっと僕に近づけ。

低い声で…吐き捨てるように言った。

「あんなのが、兄貴なものか」

「え?………じゃあ」

「こらぁ夏月!!!」

焦った蓮さんの声が、頭上から降ってくる。

「余計なこと言ってんじゃねーぞ!いいじゃねぇか、そんなことどーでも」

「あいつは」

「夏月!!!」

夏月さんは、動揺する蓮さんの方を不思議そうに見て。

また僕に向き直り、ぴっ、と人差し指を立てて…言った。

「私と一馬の…叔父さんだ」

「お………」

叔父さん???

見上げると、心配そうな少女達の間で、蓮さんは欄干に持たれるようにしてうな垂れていた。

かたや夏月さんは、怪訝そうな顔付きで、僕と蓮さんを交互に見る。

「なんだ…どうした?二人とも」

「叔父さんって…ことは…その」

「母さんの弟なんだ、あいつ」

恨めしそうな目をした蓮さんを指さしながら、夏月さんはこともなげに言い放つ。

「親子って言っても通じるくらい、年は離れてるがな。うちのおばあ様、母さん産んだの十代の頃だったらしいから…とは言っても、蓮は高齢出産だったんだと思うが、あの人元気だからな」

「んな、懇切丁寧に説明してやんなくていーだろーがよ!夏月!!!」

焦って身を乗り出した蓮さんは、バランスを崩して落っこちそうになったらしい。

きゃあ、と少女達の短い悲鳴が通りに響いた。

「あいつ、言わなかったのか?」

「ええ………」

ふうん…と、バタバタしている蓮さんを見上げ、感心したようなため息をつく、夏月さん。

「なんだ…蓮の奴、気にしてたのか」

紺青の街には知らない人間なんていないからな、知らなかった…と呟いて。

夏月さんは、ポケットから懐中時計を取り出し…叫んだ。

「いけない、もうこんな時間!直生、行くぞ!!!」

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