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短編(異世界など)

婚約破棄は承知しました。では、八年間の王太子妃教育の卒業証書をください

作者: みき
掲載日:2026/08/21

 婚約を破棄すると言われたとき、エレノア・ヴァレントが最初に考えたのは、これまでの八年間をどうしよう、ということだった。


「エレノア。君との婚約を、本日をもって解消したい」


 王立学院の卒業夜会。大広間の中央でそう告げたのは、この国の王太子アルベルトだった。


 彼の隣には、男爵令嬢のミレーヌ・カールが立っている。淡い金色の髪をした可愛らしい令嬢で、今にも泣きそうな顔をしていた。


「僕はミレーヌを愛している。もちろん君には申し訳ないと思っているが、愛のない結婚を続けることは、僕たち三人にとって不幸だと思う」


 周囲から小さなどよめきが起きる。


 エレノアは黙ってアルベルトを見た。


 十歳で婚約してから八年。


 好きだったかと聞かれれば、好きだったと思う。


 少なくとも、嫌いではなかった。


 幼いころには一緒に庭を歩いたこともあるし、誕生日に本を贈ってもらったこともある。成長するにつれて会う回数は減ったが、それはお互いに王太子と未来の王太子妃として忙しくなったからだと考えていた。


 だから胸は、ちゃんと痛かった。


 それでも不思議なことに、涙は出なかった。


「承知いたしました」


 エレノアが答えると、アルベルトの方が驚いた顔をした。


「……いいのか?」


「殿下がお決めになったのでしょう?」


「あ、ああ」


「でしたら、私から無理に婚約を続けてほしいとお願いするつもりはございません」


 その言葉を聞いて、ミレーヌがますます泣きそうな顔になる。


「エレノア様、あの、私……」


「ミレーヌ様のお話は、また後ほど」


 エレノアは静かにそう言ってから、もう一度アルベルトへ向き直った。


「ただ、一つだけお願いがございます」


 アルベルトの顔が少し強張った。


「慰謝料の話か?」


「いいえ」


「では、公爵家への謝罪について?」


「それも両家でお話しくださいませ」


「なら、何だ?」


 エレノアは少し考えた。


 今日まで当たり前すぎて、一度も疑問に思わなかったことだった。


「卒業証書をいただけますか?」


「……何?」


「八年間受けてまいりました、王太子妃教育の卒業証書です」


 大広間が静まり返った。


 エレノアは自分が何かおかしなことを言ったのかと思い、首を傾げる。


「卒業証書?」


「はい」


「そんなものはないぞ」


 アルベルトは困惑していた。


 今度はエレノアが驚いた。


「ないのですか?」


「聞いたことがない」


「では、修了証でも構いません」


「だから、そういうものは……」


「八年間も学んだのに?」


 思わず聞き返してしまった。


 アルベルトが口を閉じる。


 エレノアは頭の中で、これまでの日々を思い返した。


 十歳の誕生日を迎えた三日後、王宮から最初の教師が来た。


 礼儀作法。


 王国史。


 大陸史。


 外国語。


 十二歳からは法律と財政が加わった。


 十三歳で外交史。


 十四歳から領地経営と税制。


 十五歳からは実際の王宮行事にも同行し、どの貴族とどの程度の距離を取るべきか、どの国の使節にはどの話題を避けるべきかまで覚えた。


 災害が起きた場合に王室がどう対応するか。


 王族が病に倒れたとき、誰へ最初に知らせるか。


 戦争が始まれば、王太子妃としてどの慈善組織を動かすか。


 王室の予算はどこから出ているのか。


 国境沿いの領主の名前。


 主要な港から輸出される品。


 隣国の王族の家系図。


 覚えたことは、数え切れない。


「一日や二日の講習ではありませんよね?」


「それは、もちろん」


「私、かなり勉強したと思うのですが」


「……そうだな」


「試験も何度も受けました」


「ああ」


「落第点を取ったこともございません」


「知っている」


 なら、とエレノアは思った。


「卒業証書くらいいただいても、よろしいのではないでしょうか」


 広間のどこかで、誰かが小さく吹き出した。


 笑うところではない。


 エレノアは真剣だった。


「エレノア。王太子妃教育というのは、学院の授業とは違うんだ」


「承知しております」


「そもそも卒業という考え方がない」


「では、私はいつまで通う予定だったのですか?」


「それは……結婚するまでだ」


「結婚すれば?」


「王太子妃になる」


「つまり、王太子妃になること自体が修了の証明だったのですね」


「まあ、そういうことになる」


 エレノアは納得しかけた。


 そして、すぐに気づく。


「ですが、私は王太子妃にならなくなりました」


「……そうだな」


「では、八年間の勉強を終えたことは、何で証明すればよいのでしょう?」


 アルベルトは答えなかった。


 エレノアはようやく、自分が少し困った立場になっていることに気づいた。


 十歳から十八歳まで。


 同年代の令嬢たちがお茶会へ行ったり、刺繍や音楽を習ったり、家族と領地で夏を過ごしたりしていた時間に、エレノアは王太子妃になるための教育を受けてきた。


 もちろん、それを不幸だと思っていたわけではない。


 自分で努力した。


 知らなかったことを知るのは楽しかった。


 外国語が通じたときは嬉しかったし、複雑な税制を理解できた日は達成感もあった。


 けれど。


「殿下」


「何だ?」


「私の八年間は、どこへ行くのでしょう?」


 誰も答えなかった。


 そのとき、大広間の入口から低い声が響いた。


「その話は、私も聞きたいな」


 人々が振り返る。


 国王と王妃が立っていた。


 アルベルトの顔から血の気が引いた。


「父上……」


「卒業夜会で婚約を破棄するとは、ずいぶん派手なことをしたものだ」


「それは、その」


「事情はあとで聞く」


 国王は短く言い、エレノアへ視線を移した。


「エレノア嬢。今の話だが」


「はい」


「王太子妃教育に修了証があるとは、私も聞いたことがない」


「そうですか」


「だが、言われてみれば妙な話だな」


 国王が王妃を見る。


 王妃は少し難しい顔をしていた。


「わたくしも同じ教育を受けました」


「王妃様も?」


「ええ。十二歳から七年間。ただ、わたくしの場合は予定通り結婚しましたから、修了したかどうかなど考えたこともありませんでした」


 王妃はゆっくりエレノアへ近づいてくる。


「あなたは卒業証書を、何に使うつもりなのですか?」


「まだ決めておりません」


 正直に答えた。


「ただ、何も残らないのは寂しいと思っただけです」


 その言葉を口にすると、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 婚約が終わることよりも、そちらの方が悲しかった。


「八年間、毎日勉強しましたので」


 王妃の表情が変わった。


「……そうね」


「はい」


「本当に、そうね」


 王妃はしばらく考えたあと、国王へ向き直った。


「陛下。この件、わたくしに預けていただけますか?」


「構わない」


「ありがとうございます」


 そしてアルベルトを見る。


「あなたについては、あとでゆっくり話しましょう」


 王太子の顔が、先ほどよりさらに青くなった。


 エレノアは少しだけ気の毒に思った。


 ほんの少しだけだった。




 翌日。


 エレノアは王宮へ呼ばれた。


 いつもの王太子妃教育で使っていた小さな教室へ案内される。


 八年間通った部屋だった。


 黒板。


 大きな大陸地図。


 外国語の辞典が並んだ棚。


 窓際には、何度も居眠りしそうになりながら法律を覚えた机がある。


 もうここへ来ることはないと思うと、少しだけ寂しかった。


「お待たせしました」


 王妃が入ってくる。


 その後ろには、エレノアを教えてきた教師たちがいた。


「先生方」


 思わず立ち上がる。


 外交を教えた老侯爵。


 財政を担当した王室会計院の女性官僚。


 隣国語を教えた元大使。


 法律を担当した王立学院の教授。


 全員、よく知っている顔だった。


「座ってください」


 王妃に言われ、エレノアは椅子へ戻った。


「昨日の卒業証書についてですが、調べさせました」


「はい」


「やはり存在しません」


「そうですか」


 少し残念だった。


 王妃は続ける。


「正確には、存在したことがありません。王太子妃候補が婚約を解消すること自体、非常に珍しいからです」


「なるほど」


「そして、教育を途中で終えた場合についても規定がない」


「では、やはり私は何も――」


「ですから、作ろうと思います」


 エレノアは瞬きをした。


「……何をでしょう?」


「修了証です」


「作っていただけるのですか?」


「ただし」


 王妃は少し笑った。


「あなたが、本当に修了しているのであれば」


 エレノアは教師たちを見る。


 財政担当の女性官僚が、机の上へ分厚い紙の束を置いた。


「試験を行います」


「試験」


「王太子妃教育の全課程についてです」


 エレノアは紙の束を見る。


「全部ですか?」


「全部です」


「八年分?」


「八年分です」


 少しだけ後悔した。


 卒業証書など欲しいと言わなければよかったかもしれない。


 そんなことを考えていると、老侯爵が笑った。


「何を青い顔をしている。お前なら受かるだろう」


「先生、外交史だけでも相当な量なのですが」


「昨日、八年間勉強したと言っていただろう」


「言いました」


「なら証明してみろ」


 エレノアは紙の束をもう一度見た。


 それから、小さく息を吐く。


「分かりました」


 どうせなら、やってやろうと思った。




 試験は五日間にわたって行われた。


 一日目は王国史と法律。


 二日目は財政と税制。


 三日目は外国語と外交。


 四日目は領地経営、災害対策、王室儀礼。


 そして五日目は実技だった。


 朝から晩まで、ひたすら問題を解いた。


『北部三領で長雨により麦が三割不作となり、同時に南部の主要街道が崩落した場合、王室として最初に取るべき対応を述べよ』


『隣国使節が条約締結前の晩餐会で、国境線について非公式な発言を行った。王太子妃としてどのように応じるか』


『王室予算から慈善事業へ臨時支出を行う際、承認を必要とする者をすべて挙げよ』


 簡単ではなかった。


 忘れていることもあった。


 税率を一つ間違え、外交文書では敬称を書き落とした。


 それでも、八年間学んだことは思っていた以上に残っていた。


 五日目の午後。


 最後の試験は模擬外交だった。


 エレノアは小さな会議室へ通される。


 向かい側に座っていたのは、見覚えのある青年だった。


「お久しぶりです、ヴァレント嬢」


「ルーカス様?」


 ルーカス・オルブライト。


 二十四歳。


 侯爵家の三男で、現在は外務院に勤めている若い外交官だった。


 二年前、外交実習の際に何度か相手役を務めてもらったことがある。


「本日の私は、西方エルディア王国の外交官という設定です」


「本物の外交官を使うのですか?」


「王妃陛下から、遠慮なくやれと言われています」


「……そうですか」


「嫌ですか?」


「少し」


「安心しました。僕も嫌です」


 ルーカスが真顔で言ったので、エレノアは思わず笑った。


 試験内容は、架空の通商条約の交渉だった。


 エルディア王国側は、この国で販売する葡萄酒の関税を下げるよう求めている。


 こちらは代わりに、織物の輸入制限を緩和させたい。


 一見単純だったが、資料を読むと細かな条件がいくつも隠されている。


「葡萄酒の関税を三割下げていただきたい」


「三割は難しいですね」


「なぜでしょう?」


「こちらの葡萄農家への影響が大きすぎます」


「では二割」


「一割であれば」


「話になりません」


「では、そちらの織物市場についてお話ししましょう」


 ルーカスの眉が少し動いた。


「なぜ織物を?」


「エルディア王国では昨年、北部で羊毛が不作だったと記憶しております」


「よくご存じですね」


「授業で習いました」


「二年前の話ですよ」


「試験に出るかもしれないと思って」


「出しました」


「先生方は意地悪です」


「同感です」


 交渉は一時間続いた。


 最終的に、葡萄酒の関税を一割五分引き下げる代わりに、こちらの織物への数量制限を二年間だけ緩和するという案でまとまった。


 終了の鐘が鳴る。


 エレノアは椅子にもたれた。


「疲れました」


「僕もです」


「試験官でしょう?」


「本気で交渉させられましたから」


 ルーカスは資料をまとめながら、少し笑った。


「でも、前よりずっと上手くなりましたね」


「本当ですか?」


「二年前は、相手に譲らせることばかり考えていた」


「覚えていらしたのですか」


「もちろん」


 ルーカスは当然のように答えた。


「あなたの交渉でしたから」


 その言葉が、なぜか心に残った。




 試験結果が出たのは、一週間後だった。


 エレノアは両親とともに王宮へ呼ばれた。


 謁見室には国王と王妃、それから試験を担当した教師たちがいる。


 少し離れたところにはアルベルトもいた。


 婚約破棄の夜以来、初めて顔を合わせる。


「エレノア・ヴァレント」


 王妃が名前を呼ぶ。


「はい」


「試験結果をお伝えします」


 緊張した。


 卒業夜会よりも緊張しているかもしれない。


「総合評価、九十二点」


 エレノアは目を見開いた。


「合格です」


「……本当ですか?」


「ええ」


 王妃が笑った。


「あなたは、王太子妃教育の全課程を修了したと認められました」


 侍従が、一枚の大きな紙を運んでくる。


 厚い白紙に王家の紋章。


 国王と王妃の署名。


 そして中央には、


『王室高等教育課程 修了証』


 と書かれていた。


「王太子妃教育ではないのですね」


 思わず尋ねる。


 王妃は頷いた。


「考え直しました」


「何をでしょう?」


「あなたが学んだ法律や財政や外交は、王太子の妻になるためだけの知識ではありません」


 エレノアは黙って聞いた。


「これまで王宮は、王太子妃候補へ極めて高度な教育を行っておきながら、その価値を王太子との結婚にしか結びつけていませんでした」


 王妃の声が少し厳しくなる。


「昨日まで未来の王妃として学んでいた者が、婚約を失った翌日から『何も持たない令嬢』になる。それはおかしいでしょう」


 エレノアは修了証を見る。


「ですから今後、王族の配偶者候補として一定期間以上の教育を受けた者については、試験を受ける権利を与えます。合格すれば、この修了資格を認めます」


「私だけではないのですか?」


「ええ」


「……そうですか」


 胸の奥が温かくなった。


 自分の八年間だけではない。


 これから同じ立場になるかもしれない誰かの努力も、何かの形に残る。


「ありがとうございます」


 エレノアは深く頭を下げた。


「大切にいたします」


「それなのですが」


 王妃が微笑んだ。


「もう一つあります」


「はい?」


 別の書類が出てきた。


「王立外務院から、あなたに採用試験の一部免除を認めたいとの申し出が来ています」


「外務院?」


 今度こそ声が裏返りそうになった。


「王室高等教育課程の外交・外国語分野について、外務院の採用基準を十分に満たしているとのことです。もちろん、働くかどうかはあなたが決めてください」


「私が、外務院で?」


「興味はありませんか?」


「あります」


 即答してしまった。


 両親が驚いたようにこちらを見ている。


 エレノア自身も驚いた。


 けれど考えてみれば、外交は昔から好きだった。


 条約の文章を読むのも、外国語を学ぶのも好きだった。


 ただ、それを仕事にできるとは考えたことがなかった。


 すべて王太子妃になるために学んでいたからだ。


「少し、考えさせていただけますか?」


「もちろん」


 王妃は笑った。


「あなたの人生ですから」


 その言葉が嬉しかった。


 そのとき、アルベルトが一歩前へ出た。


「エレノア」


「殿下」


「少し話してもいいか?」


 エレノアは王と王妃を見る。


 国王が頷いた。


 二人は謁見室の端へ移動した。


「その……すまなかった」


 アルベルトが言う。


「婚約のことでしょうか」


「ああ。それもある」


「ミレーヌ様とは?」


「婚約はまだ認められていない」


「そうなのですか」


「父上から、婚約を終わらせたからといって、次の婚約を勝手に決められると思うなと言われた」


 それはそうだろうと思ったが、口には出さなかった。


「ミレーヌとも話した。彼女は、僕が君ときちんと話を済ませていると思っていたらしい」


「そうでしたか」


「騙すつもりはなかった。僕は……君なら受け入れてくれると思っていた」


 エレノアは少しだけ考えた。


「私は受け入れましたよ」


「え?」


「婚約解消を」


「……確かに」


「ですから、そのことについてはもうよろしいのです」


「でも、八年間のことは」


 アルベルトは視線を落とした。


「昨日まで考えたこともなかった。君はずっと僕の婚約者だったから、君が勉強するのも当然だと思っていた」


「私も当然だと思っておりました」


「卒業証書なんて言われて、最初は変なことを言うと思った」


「そうでしょうね」


「でも試験の話を聞いて……僕よりずっと勉強していたんだな」


 エレノアは思わず笑った。


「それは存じ上げません」


「いや。僕は税制の試験で七十二点だった」


「私は九十六点でした」


「……聞かなければよかった」


 少しだけ昔のアルベルトに戻った気がした。


 エレノアは彼を嫌いになりたかったわけではない。


 ただ、もう婚約者ではない。


「外務院へ行くのか?」


「まだ決めておりません」


「そうか」


「はい」


 アルベルトは何か言いかけて、やめた。


「何でしょう?」


「いや」


 少し寂しそうに笑う。


「今度は、君が決めることだから」


 エレノアは少し驚いたあと、頷いた。


「はい」




 エレノアは外務院へ入った。


 決めるまでに、三日かかった。


 三日しかかからなかったとも言える。


 最初の半年は研修だった。


 外国から届いた文書の整理。


 過去の条約の確認。


 使節団が訪れる際の資料作成。


 華やかな仕事ばかりではない。


 むしろ、ほとんどは地味だった。


「この二十年分の羊毛輸入量を表にしてください」


「二十年分ですか?」


「はい」


「今週中?」


「できれば三日で」


「先生方より厳しいですね」


 思わず呟くと、隣の机から笑い声がした。


「ここでは点数をつけてもらえませんよ」


 顔を上げる。


 ルーカスだった。


 あの模擬外交以来、何度か顔を合わせている。


「ルーカス様」


「ここではオルブライト文官でお願いします」


「では私もヴァレント嬢ではなく、ヴァレント研修官で」


「分かりました、ヴァレント研修官」


 二人で少し笑った。


 ルーカスは教育係の一人だった。


 仕事には厳しかった。


 数字を一つ間違えれば戻される。


 訳し方が曖昧ならやり直し。


「王太子妃教育では九十二点だったそうですが、ここでは九十九点でも一つ間違っています」


「厳しすぎませんか?」


「外交文書の数字を一桁間違えるよりはましです」


「それはそうですけれど」


 悔しい。


 でも楽しかった。


 間違えれば、次は直せる。


 分からなければ聞けばいい。


 何より、自分が勉強してきたことが、誰かの妻になるためではなく、自分の仕事として役に立っている。


 半年後。


 エレノアは正式な外務官になった。


 任命書を受け取った夜、自室の机へ二枚の紙を並べた。


 一枚は、


『王室高等教育課程 修了証』


 もう一枚は、


『王立外務院 外務官任命書』


 どちらも自分の名前が書いてある。


 エレノアはしばらく眺めてから、二枚とも大切に箱へしまった。


 八年間は、なくならなかった。




 三年が過ぎた。


 エレノアは二十一歳になっていた。


 そのころには国外の使節と直接交渉する機会も増え、短期間ではあるが隣国へ派遣されたこともある。


 そして、ルーカスとはよく夕食を取るようになっていた。


 きっかけが何だったのかは、よく覚えていない。


 仕事が遅くなった日に食堂へ一緒に行き、その次の週にも行き、気づけば休日にも会うようになった。


 ある春の日。


 二人で王都の市場を歩いていたとき、ルーカスが言った。


「以前から聞こうと思っていたことがあります」


「何ですか?」


「卒業証書、今も持っています?」


「もちろん」


「やっぱり」


「なぜ笑うのです?」


「最初に聞いたときは、随分変わったことを言う令嬢だと思ったので」


「ルーカス様まで?」


「王宮中が思っていましたよ」


「失礼ですね」


「でも、あなたが言わなければ誰も気づかなかった」


 ルーカスは露店に並んだ果物を眺めながら続ける。


「今では王室高等教育課程の資格を持って外務院や財務院へ入る人も出ているでしょう?」


「二人だけですけれど」


「二人も、でしょう」


 昨年、一人の王族婚約者が病を理由に婚約を解消した。


 彼女も修了試験を受け、現在は王室会計院で働いている。


 もう一人は、王子の急逝によって結婚できなくなった令嬢だった。


 その女性は教育資格を使い、領地経営を学ぶ道を選んだ。


「よかったと思っています」


 エレノアは言った。


「何が?」


「私だけではなかったので」


 努力をしたのに、その努力に名前がない。


 あの夜、自分が感じた寂しさを、少しでも感じずに済む人がいるなら嬉しい。


「エレノア」


 ルーカスが突然名前を呼んだ。


 仕事以外で会うようになってから、そう呼ばれることは増えている。


「はい」


「もう一つ聞いても?」


「どうぞ」


「僕と結婚する気はありますか?」


 エレノアは足を止めた。


 市場の真ん中だった。


 隣では野菜が売られ、向こうでは子どもが焼き菓子をねだっている。


「ここで聞くのですか?」


「まずかった?」


「もう少し雰囲気のある場所を想像していました」


「すみません。緊張して、思いついた瞬間に聞いてしまいました」


 顔を見ると、本当に緊張している。


 エレノアは笑った。


「少し考えてもよろしいですか?」


「もちろん」


「三日ほど」


「三日?」


「外務院へ入ると決めたときも三日でした」


「それと僕が同じ扱いなのは喜んでいいんでしょうか」


「かなり重要な判断という意味です」


「なら光栄です」


 ルーカスは、それ以上何も言わなかった。


 帰り道も、答えを急かさなかった。


 三日後。


 エレノアは仕事を終えると、ルーカスの机へ向かった。


「オルブライト文官」


「はい」


「先日の件ですが」


 ルーカスの背筋が伸びる。


「はい」


「お受けいたします」


 一瞬、彼は動かなかった。


「……本当に?」


「はい」


「理由を聞いても?」


「私のことを、王太子妃になれなかった令嬢ではなく、一人の外務官として見てくださったからです」


「それだけ?」


「それだけではありません」


 エレノアは少し笑った。


「でも残りは、結婚してから少しずつお伝えします」


「それはずるいな」


「婚約期間中でも構いません」


「では、なるべく長く婚約しておきましょう」


「それは困ります」


 二人で笑った。




 結婚式は、その翌年の秋に行われた。


 大きすぎない式だった。


 国王と王妃も出席してくれた。


 アルベルトも来た。


 彼はその後、地方行政を学び直し、以前より少し落ち着いた王太子になっていた。


 ミレーヌとの婚約は結局成立しなかったらしい。


 ただし二人がどう話し合ったのか、エレノアは詳しく知らない。


 もう、自分には関係のないことだった。


 式を終えたあと。


 控え室へ戻ると、机の上に細長い箱が置かれていた。


「何でしょう?」


 開ける。


 中には額縁が入っていた。


 王室高等教育課程の修了証を飾るためのものだった。


 添えられたカードには、王妃の字で一言だけ書かれている。


『卒業おめでとう。少し遅くなりましたね』


 エレノアは笑った。


「何です?」


 ルーカスが横から覗き込む。


「卒業祝いだそうです」


「四年遅れですね」


「ええ」


「でも、もらえてよかった?」


 エレノアは額縁に入れられた修了証を見る。


 十歳から十八歳まで。


 八年間。


 あのころは、それが自分の人生のすべてだと思っていた。


 王太子妃になる。


 そのために勉強する。


 そのために努力する。


 婚約を失えば、全部なくなると思っていた。


 でも違った。


 覚えた外国語は残った。


 学んだ法律も残った。


 交渉の仕方も、財政の知識も、努力した時間も、自分の中に残っていた。


 そして今では、それを自分のために使っている。


「はい」


 エレノアは答えた。


「もらえてよかったです」


「一番大切な証書?」


「いいえ」


「違うの?」


「今は、外務官の任命書も大切ですし」


「では一番は?」


 エレノアは少し考える。


 それから、隣にいる夫を見た。


「一番は決められません」


「そうですか」


「でも、一つだけ分かったことがあります」


「何でしょう」


「卒業証書がなくても、八年間はなくならなかったということです」


 ルーカスは頷いた。


「そうでしょうね」


「それでも」


 エレノアは修了証を抱える。


「頑張ったのですから、やっぱり証書くらい欲しいです」


 ルーカスが吹き出した。


「そこは変わらないんですね」


「もちろんです」


 エレノアも笑った。


 婚約を破棄された夜。


 涙より先に、卒業証書のことを考えた。


 今思えば、少し変わっていたかもしれない。


 でも、あの一言を口にしてよかった。


 自分が積み重ねてきたものを、自分で大切にしてもいいのだと気づくきっかけになったから。


 誰かの妻になるために学んだ八年間だった。


 けれど、その八年間をどう使うかまで、誰かに決めてもらう必要はない。


 エレノアは額縁を箱へ戻し、ルーカスの隣へ並んだ。


「行きましょうか」


「どこへ?」


「皆様がお待ちです。披露宴が始まってしまいます」


「ああ。そうでした」


「忘れていたのですか?」


「卒業証書の話が面白すぎて」


「結婚式より?」


「それは答えを間違えると大変なことになる質問ですね」


「では、よく考えてお答えください」


「結婚式です」


「早いですね」


「外交官なので」


「関係ありません」


 そんな話をしながら、二人で控え室を出る。


 扉の向こうから、祝いの声が聞こえていた。


 八年前に決められた未来とは、まったく違う場所にいる。


 それでもエレノアは、今の方が好きだった。


 王太子妃にはならなかった。


 けれど八年間は無駄ではなかった。


 婚約も、勉強も、別れも、その先で選んだ仕事も。


 全部が今の自分につながっている。


 そしてこれから何を学び、どこへ行き、誰と生きていくのかは、自分で決めていい。


 卒業証書は、そのことを証明するものではない。


 ただ、八年間頑張ったことを証明してくれる。


 それで十分だった。

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