第1話 目覚めたら美少女だった件
意識が浮上してくる。
どこかふわふわとした感覚。まるで雲の上を漂っているような、それでいて身体のどこかに生暖かい風が当たっているような、妙な浮遊感だった。
――ああ、死んだんだな。
佐藤健二、三十八歳。職業、IT企業のシステムエンジニア。独身。趣味は釣りと料理と銭湯巡り。そんな平凡な男が、過労死という現代人らしい死に方をしたのだ。
最後の記憶は、深夜のオフィスで納期に追われながらコードを打ち込んでいた時のこと。突然、胸に激痛が走って――そこで記憶は途切れている。
ああ、もう少し休暇取っておけばよかったな。
温泉にでも行きたかったな。
あの川の上流、まだ行ったことなかったんだよな。
走馬灯のように、やり残したことばかりが頭をよぎる。でも不思議と後悔はなかった。三十八年、それなりに楽しく生きてきた。まあ、こんなもんだろう。
意識がゆっくりと現実に引き戻される。
肌に感じる感触が、だんだんとリアルになってくる。下は硬い。草? いや、土か。ゴツゴツとした小石が背中に当たっている。
鼻腔をくすぐるのは、土の匂い。青臭い草の匂い。そして――どこか樹木の香り。
耳に届くのは、鳥のさえずり。遠くで水が流れる音。風が木々を揺らす、サラサラという葉擦れの音。
――死後の世界って、こんなに生々しいもんなのか?
重いまぶたをゆっくりと開ける。
視界に飛び込んできたのは、青い空。雲ひとつない、透き通るような青。そしてその合間から差し込む、柔らかな日差し。
身体を起こそうとして――違和感に気づいた。
「……ん?」
声が、違う。
いつもの、三十八年間使い続けてきた自分の声じゃない。高い。澄んでいる。まるで――少女のような。
慌てて身体を起こす。そして、自分の身体を見下ろして――固まった。
「は?」
そこにあったのは、見覚えのない身体だった。
華奢な肩。細い腕。服は――ボロボロの白いワンピースのような布。そして胸元には、確かに膨らみがある。小さめだが、確実に、女性特有の。
「嘘だろ……」
震える手を持ち上げる。白く、小さく、指は細長い。爪は綺麗に整っている。これは、俺の手じゃない。
長い髪が視界の端に入る。金色。サラサラとした、絹のような髪。そんなもの、俺にはなかった。三十八年間、ずっと黒髪の短髪だったのに。
慌てて立ち上がる。足元がふらつく。バランス感覚が、いつもと違う。重心が、低い。そして身体が、軽い。
周囲を見回す。
そこは森だった。
鬱蒼と茂る木々。その合間から差し込む木漏れ日が、地面に複雑な影の模様を描いている。遠くで小川のせせらぎが聞こえる。空気は澄んでいて、深呼吸をすると肺が喜んでいるような感覚がある。
――これは、夢なのか? それとも……。
近くに、水溜りがあった。
昨夜の雨だろうか。岩のくぼみに、透明な水が溜まっている。まるで天然の鏡のように、その表面は静かに揺れている。
恐る恐る、その水面を覗き込む。
――そして、息を呑んだ。
そこに映っていたのは、見知らぬ少女の顔だった。
金髪。碧眼。透き通るような白い肌。整った鼻筋に、小さな唇。大きな瞳は宝石のように輝いている。年齢は――十代半ば、といったところか。
顔立ちは、西洋人形のように整っている。いや、むしろアニメやゲームに出てくるような、現実離れした美少女といった方が正しい。
「マジかよ……」
呆然と、自分の顔を眺める。
試しに、顔を触ってみる。頬を撫でる。プニプニとした柔らかさ。でもその感触は、確かに自分のものだ。痛覚も、触覚も、すべて機能している。
これは――夢じゃない。
「なんだこれ……転生、とかいうやつか?」
ネット小説で見たことがある設定だ。死んだ人間が、異世界に転生する。そういうやつ。
でもまさか、自分がそんな目に遭うとは。
しかも、なぜ女?
いや、確かに美少女には憧れはあった。三十八年間、独身でアニメやゲームを趣味にしてきた男なら、そりゃあ美少女キャラには萌えもする。
でも、自分が美少女になりたかったわけじゃない。
「いや、待てよ……」
冷静になって、状況を整理する。
これが本当に転生なら、前世の記憶はそのままだ。つまり俺は、三十八歳のおじさんの精神を持った、十代の美少女ということになる。
――それって、最悪じゃないか?
いや、待て。冷静に考えよう。
まず、生きている。死んだと思ったのに、生き返った。これは、とりあえず良いことだ。
次に、身体が若い。十代の身体だ。関節も痛くない。肩も凝ってない。目もよく見える。これも、悪くない。
そして――美少女。
「……使えるかもしれん」
不謹慎だが、そう思った。
三十八年間、おじさんとして生きてきた。世の中の厳しさも、人の汚さも、そして――美少女が持つ特権も、よく知っている。
若くて可愛い女の子は、それだけで得をする。これは、紛れもない事実だ。
まずは、状況確認だ。
身体の感覚を確かめる。
両手を動かす。問題なし。
両足を動かす。問題なし。
ジャンプしてみる――軽い。驚くほど軽い。これまでの人生で感じたことのない身体の軽さだ。
そして――胸。
「……うん」
恐る恐る、自分の胸に手を当てる。
布越しに、柔らかな感触。確かに、ある。
思わず軽く揉んでみる――
「っ!」
背筋にゾクッとした感覚が走った。
これは――感度、高すぎないか?
いや、女性の身体ってこういうものなのか? 三十八年間、男だった俺には分からない。
頭を振って、邪念を払う。
今はそんなことを考えている場合じゃない。
「とりあえず、人を探さないと」
森の中をぐるりと見回す。
どの方向に行けばいいのか、まったく分からない。
でも、小川の音が聞こえる。川があるということは、下流に行けば村や町があるかもしれない。
――そうだ。まず、生き延びることだ。
三十八年間、それなりに苦労して生きてきた。サバイバル知識はないが、最低限の常識はある。
水を確保する。食べ物を探す。そして、人のいる場所を見つける。
「よし」
とりあえず、小川の方向に歩き出す。
足元が覚束ない。バランスを取りながら、慎重に一歩ずつ進む。
木々の合間を縫うように歩く。枝が顔に当たりそうになって、咄嗟に手で払う。
そのとき――
「っ!」
足を滑らせた。
咄嗟に木の幹に手をついて、なんとか体勢を立て直す。心臓がバクバクと鳴っている。
下を見ると、苔むした岩があった。滑りやすい。気をつけないと。
――この身体、思ったより非力だな。
当たり前だ。十代の、それも華奢な女の子の身体なんだから。
三十八歳のおじさんの感覚で動いてたら、すぐに怪我をする。
「慎重に、慎重に……」
ゆっくりと、森の中を進む。
小川の音が、だんだんと大きくなってくる。近づいている。
木々の隙間から、キラキラと光るものが見える。水面だ。
そして――小川に辿り着いた。
「おお……」
透明な水が、岩の間を縫うように流れている。水深は浅い。足首くらいだろうか。底には小石が見える。魚の姿はない。
水面に映る自分の姿が、また目に入る。
やっぱり、美少女だ。金髪碧眼の、現実離れした美少女。
「……まあ、いいか」
諦めにも似た感情が湧き上がる。
どうせ元の世界には戻れないんだろう。だったら、この身体で、この世界で生きていくしかない。
喉が渇いている。
水を飲もうか――いや、待て。生水は危険だ。寄生虫や細菌がいるかもしれない。
でも、この透明度。そして上流から流れてきている様子。
「……まあ、死にはしないだろ」
両手で水を掬って、口に含む。
冷たい。そして、美味い。都会の水道水とは比べ物にならないくらい、澄んでいて美味しい。
ゴクゴクと、何度も水を飲む。喉の渇きが癒されていく。
「ふう……」
ひと息ついて、周囲を見回す。
小川沿いに下流に向かえば、きっと人里に辿り着ける。そう信じて、歩き出そうとしたとき――
――遠くで、人の声が聞こえた。
「!」
咄嗟に、木の陰に隠れる。
心臓が早鐘を打つ。
どんな人間がいるのか、分からない。もしかしたら、危険な人物かもしれない。
声は、だんだんと近づいてくる。
どうやら複数人いるようだ。男の声。それも、若い。
「――この辺りで見たって話だぞ」
「魔物か?」
「いや、人間らしい。女の子だって」
――女の子? 俺のことか?
木の陰から、そっと様子を窺う。
三人の男が、川沿いを歩いてくる。年齢は二十代前半くらいか。服装は――中世ヨーロッパ風の、質素な服。一人は剣を腰に下げている。
「おい、あそこ!」
一人が、こちらを指差した。
見つかった。
「あ、ああ……」
木の陰から出る。
三人の男が、こちらに駆け寄ってくる。
「大丈夫か!? 怪我は!?」
「こんな森の中で、一体何が……」
男たちの顔は、心配そうだ。敵意は感じられない。
というか――俺を見る目が、明らかに『保護すべき少女』として見ている。
「あ、あの……」
声を出す。やっぱり、高い。少女の声だ。
「私……記憶が……」
咄嗟に、そう言った。
記憶喪失のフリをするのが、一番無難だと判断したのだ。
事実、この世界のことは何も知らない。前世の記憶しかない。ある意味、記憶喪失みたいなものだ。
「記憶が?」
「ああ、それは大変だ!」
「とりあえず、村に連れて行こう。長老なら何か分かるかもしれない」
男たちは、優しく俺の肩を支えてくれた。
――なるほど。美少女の特権、早速発動か。
こうして俺は、この異世界での第一歩を踏み出した。
三十八歳のおじさんの精神を持った、美少女エリナとして。
◇ ◇ ◇
村に着いたのは、それから一時間ほど後のことだった。
森を抜けると、開けた平原が広がっていた。
緑の草原。遠くに見える山々。そして、小さな集落。
木造の家々が、ぽつぽつと並んでいる。煙突からは煙が立ち上り、どこか牧歌的な雰囲気を醸し出している。
「あそこが俺たちの村だ」
「小さいけど、みんな優しいから安心してくれ」
男たちの案内で、村の入口に到着する。
すると、村人たちが集まってきた。
「おや、その子は?」
「森で見つけたんだ。記憶を失っているらしい」
「まあ、可哀想に!」
村人たちの視線が、一斉に俺に集まる。
――うわ、めっちゃ見られてる。
三十八年間、おじさんとして生きてきた俺は、こんなに注目を浴びることに慣れていない。
しかも今は、美少女の姿だ。視線が、明らかに違う。
特に、若い男たちの目。
好奇心と、それから――少し、下心が混じったような視線。
――ああ、これが美少女が受ける視線か。
複雑な気分になる。
嬉しくはない。むしろ、居心地が悪い。
「とりあえず、長老のところに連れて行こう」
一人の中年女性が、俺の手を取った。
優しい笑顔だ。母性を感じる。
「大丈夫よ。ゆっくり休んで、記憶が戻るまで私たちが面倒を見るわ」
「あ、ありがとうございます……」
素直に感謝を述べる。
この世界で生き延びるためには、まず村人の信頼を得ることが重要だ。
長老の家は、村の中心にあった。
他の家よりも少し大きく、立派な造りだ。
中に入ると、白髪の老人が座っていた。
「ほう、森で見つかった子か」
老人は、優しい目で俺を見る。
「名前は?」
「……エリナ、です」
咄嗾に、名前を作った。
金髪碧眼だから、西洋風の名前がいいだろう。エリナ。悪くない。
「エリナか。良い名だ」
長老は頷く。
「記憶がないとのことだが、身体に怪我は?」
「いえ、大丈夫です」
「そうか。ならば良い。しばらくこの村で休むといい。記憶が戻るまで、私たちが面倒を見よう」
――優しい人たちだ。
素直に、そう思った。
都会の人間関係に疲れていた俺にとって、この村の素朴な優しさは、心に染みる。
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。
長老は、満足そうに笑った。
「うむ。それでは、エリナ。お前は当分、マリアの家に厄介になるといい」
マリアというのは、先ほど俺の手を取った中年女性のことらしい。
「はい」
こうして、俺――エリナは、この村で暮らすことになった。
異世界での、新しい生活の始まりだ。
夜。
マリアの家で、簡素なベッドに横になりながら、俺は天井を見つめていた。
――何が起きたんだ、本当に。
今日一日で起きたことを、頭の中で整理する。
死んだはずの俺が、異世界に転生。しかも美少女の身体で。
森で目覚めて、村人に保護されて、今はこうしてベッドで休んでいる。
身体の感覚は、まだ慣れない。
寝返りを打つと、胸が揺れる感覚がある。太ももの肉付きが、いつもと違う。髪が長くて、寝る時に邪魔だ。
そして――下着。
村の女性たちが、俺に服や下着を用意してくれた。
着替える時、初めて自分の裸を見た。
――あれは、衝撃的だった。
鏡に映る、少女の裸体。
白い肌。小ぶりだが形の良い胸。くびれたウエスト。丸みを帯びた腰。そして――股間には、男性器がない。
当たり前だが、それでも衝撃だった。
三十八年間、ずっとあったものが、ない。
――触ってみた。
恐る恐る、指先で。
その瞬間、全身に電流が走ったような感覚があって、慌てて手を離した。
感度、高すぎる。
これ、本当に大丈夫なのか。日常生活、送れるのか。
「はぁ……」
深いため息をつく。
とりあえず、今日は寝よう。
明日から、この世界で生きていく方法を考えないと。
目を閉じる。
すぐに、眠気が襲ってきた。
今日は、色々とあった。疲れているんだろう。
――そして、俺は深い眠りに落ちた




