第9話 夜霧の追跡と薔薇の棘
レオン様の左手から吸い取った呪いの冷たさが、数日経った今も指先に幽霊のようにこびりついていた。
離宮での生活は、恐ろしいほど快適で、残酷なほど退屈だった。
朝は最高級の紅茶の香りで目覚め、昼は専属の侍女たちが運んでくる宝石のような菓子をつまみ、夜はふかふかの羽毛布団に沈む。
誰も私を責めないし、誰も私に仕事を押し付けない。
ただ「そこにいて呼吸をしてさえいればいい」という、究極の愛玩動物としての生活。
けれど、私の神経は休まるどころか、日に日に張り詰めていた。
窓の外には常に監視の騎士が立ち、私の安全という名の自由を奪っている。
このままでは、私は本当にただの「聖女という置物」になってしまう。
深夜二時。
月明かりだけが頼りの寝室で、私は突然跳ね起きた。
「……何、今の」
心臓が早鐘を打つ。
肌が粟立つような、粘度のある不快感。
それは窓の外、庭園の向こうから漂ってきていた。
普通の人間にはただの風の音にしか聞こえないだろう。
けれど、あの日レオン様の腕に触れてしまった私には分かる。
あの「呪い」と同じ波長だ。
ドス黒く、湿った悪意の塊が、城の敷地内を移動している。
「……まさか」
私はベッドから滑り降り、窓辺へ駆け寄った。
カーテンの隙間から目を凝らす。
離宮の庭園には篝火が焚かれているが、その光が届かない闇の奥。
黒い靄のような何かが、地面を這うように動いていた。
その進行方向は、離宮ではなく――もっと北。
王城の地下牢がある区画だ。
『あの方になんて言い訳すれば……』
アリスの去り際の言葉が脳裏をよぎる。
もし、彼女が単なる悪役ではなく、あの黒い何かに操られていたとしたら?
そして今、用済みになった彼女を「消し」に向かっているとしたら?
「行かなきゃ」
考えるより先に、私は動いていた。
シルクの寝間着の上に、目立たない濃紺のショールを羽織る。
靴を履く時間も惜しい。
私は室内履きのまま、バルコニーへの窓を開けた。
幸い、ここは二階だ。
私は手すりを乗り越え、壁面の装飾に足をかける。
公爵令嬢にあるまじき挙動だが、前世のゲーム知識と、路地裏での隠密治療で鍛えた体幹が役に立つ。
音もなく芝生に着地した私は、監視騎士の巡回ルートを予測し、庭木の影へと滑り込んだ。
夜風が冷たい。
けれど、それ以上に頬を撫でる空気が澱んでいる。
黒い気配は、確実に地下牢へと向かっていた。
「待って……」
私はドレスの裾をからげ、庭園の茂みを掻き分けて進む。
見つかれば「脱走」とみなされ、今度こそ本当の牢獄行きか、さらに厳重な監視下に置かれるだろう。
それでも、足は止まらなかった。
ここで見過ごせば、アリスは死ぬ。
かつて私を陥れようとした敵だけれど、操られていた被害者を見殺しにするのは、私の――いいえ、ヒーラーとしての矜持が許さない。
ガサリ。
焦るあまり、足元の確認が疎かになった。
鋭い痛みが走る。
「っ……!」
声を押し殺し、私は自分のふくらはぎを見た。
薔薇の植え込みだ。
手入れの行き届いた王家の薔薇には、凶悪な棘がある。
ショール越しに二の腕を、そして素足のふくらはぎを、鋭い棘が引き裂いていた。
赤い血が滲み、白い肌を汚していく。
「邪魔しないで」
私は痛みに顔を顰めながら、無造作に傷口へ手をかざした。
詠唱はいらない。
イメージするのは、細胞の高速再生。
瞬きする間に傷口が塞がり、痛みは熱だけを残して消え去る。
滴り落ちた血の跡も、土ごと浄化して消滅させた。
これこそが私の生存スキル。
誰にも怪我を悟らせず、何事もなかったかのように振る舞うための技術。
立ち上がろうとした、その時だった。
「――そこまでだ!」
鋭い声と共に、複数の松明の光が私を照らし出した。
周囲の茂みから、抜刀した騎士たちが一斉に姿を現す。
完全に包囲されていた。
「動くな! ……む、シェリル様!?」
先頭にいた騎士が、私の顔を見て素っ頓狂な声を上げる。
私の姿は、深夜の庭園で泥にまみれ、寝間着にショールという無防備なもの。
誰がどう見ても「夜逃げを企てた令嬢」の図だ。
「聖女様が脱走しようとしているぞ!」
「確保しろ! お怪我をさせないように!」
騎士たちがざわめき、包囲網を縮めてくる。
違う。逃げたいわけじゃない。
「待ってください! 私は逃げるつもりじゃ……!」
弁明しようと手を伸ばすが、彼らの耳には届かない。
聖女という重要人物を逃がせば、彼らの首が飛ぶのだ。
必死になるのも無理はない。
その時、騎士たちの壁が割れた。
「……何事だ、騒々しい」
重厚な足音と共に現れたのは、あのガレス副団長だった。
白銀の甲冑が松明の光を反射し、夜闇に浮かび上がる。
彼は私を見ると、その厳しい表情を一瞬だけ緩め、すぐにまた険しい顔に戻った。
「シェリル様。……このような時間に、いかがなさいましたか」
責めるような口調ではない。
けれど、納得のいく説明ができなければ、力ずくでも部屋へ戻すという意思を感じる。
私はショールを握りしめ、彼を見上げた。
彼なら、私の言葉を信じてくれるかもしれない。
あの断罪の場で、唯一私を信じてくれた彼なら。
「ガレス様、お願いです。私の話を聞いてください」
私は震える指で、北の方角――地下牢のある闇を指差した。
「あっちに……地下牢の方に、『何か』が行ったんです」
「何か、とは?」
「分かりません。でも、とても嫌な気配が……レオン様の腕にあった傷と、同じにおいがするんです!」
その言葉が出た瞬間、ガレス副団長の目が鋭く細められた。
彼は自分の左腕を無意識に庇うような仕草を見せる。
彼もまた、あの毒に侵された経験者だ。
私の言わんとすることが、肌感覚で伝わったのかもしれない。
「……気のせい、では済まされませんな」
彼は短く呟くと、部下たちに向き直った。
「総員、抜刀! 第一小隊はシェリル様の護衛を固めろ! 第二小隊は私についても来い!」
「はっ! しかし副団長、どちらへ!?」
「地下牢だ! 鼠が入り込んだ可能性がある!」
ガレス様は私に背を向けず、その場に片膝をついて視線を合わせた。
巨大な体が、私を守る壁になる。
「シェリル様。……貴女様の勘は、私の命を救った実績がございます。今回も信じましょう」
「ありがとうございます……!」
「ですが、ここでお待ちを。危険です」
「いいえ」
私は首を横に振った。
今度ばかりは、安全地帯で待っているわけにはいかない。
もしアリスが既に「何か」に憑かれていたら、騎士たちの物理攻撃では対処できない可能性がある。
「私も行きます。……浄化できるのは、私だけかもしれません」
私の瞳に迷いがないことを見て取ったのか、ガレス様は深く息を吐き、そして力強く頷いた。
「承知した。……私の背中から離れないでください」
彼は立ち上がり、私を導くように歩き出した。
私はその広い背中を追いかける。
薔薇の棘で切った傷はもうないけれど、その痛みは「責任」という形で私の胸に深く刻まれていた。
もう、見て見ぬふりはできない。
私は夜の庭園を、聖女としてではなく、一人の回復術師として走り出した。




