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断罪されるはずの悪役令嬢、治癒魔法で全員救っていたら聖女扱いされました  作者: 九葉(くずは)


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第8話 革の手袋と解かれた呪縛

呼び止めてしまった自分の声に、私は内心で頭を抱えていた。


「……何か用か?」


扉の前で足を止めたレオン様が、怪訝そうに振り返る。

その左手は、依然として右手で強く握りしめられたままだ。

「なんでもありません、おやすみなさい」と言って下がれば、私はこの夜を無事に越えられる。

「古傷」という嘘を信じたふりをして、温かいベッドで眠ればいい。


けれど、私の目は見てしまっていた。

彼が隠そうとしている左手の袖口から、ドス黒い靄のような魔力が漏れ出しているのを。

それは傷の痛みなどではない。

生命力を直接削り取る、悪質な「呪い」の反応だ。


私はドレスの裾を握りしめ、一歩を踏み出す。

その一歩が、安全地帯からの逸脱であることを理解しながら。


「……殿下。失礼をお許しください」


私は彼の前まで歩み寄り、許可も取らずにその左手へと手を伸ばした。


「なっ、シェリル?」


レオン様が驚いて身を引こうとする。

だが、その動きは鈍い。痛みに耐えている体は、反射神経すら奪われているようだ。

私は彼の右手を押しのけ、震える左手首を両手で包み込んだ。


「触れるな! これは……!」


彼は拒絶しようとしたが、私の掌から伝わる熱を感じたのか、言葉を途切れさせた。

革の手袋越しでも伝わる、異常な冷たさ。

まるで氷塊を握っているようだ。

そしてその奥で、血管の中を這い回るように暴れる「何か」の脈動を感じる。


「……やはり、ただの古傷ではありませんね」


私は顔を上げず、診断に集中する。

呪詛の種類は「浸食型」。

放置すれば心臓まで届き、宿主を衰弱死させるタイプだ。

こんなものを抱えながら、彼は平然と学園に通い、断罪劇を演じ、私をここまで連れてきたのか。


「放せ。君に害が及ぶ」


レオン様が低い声で警告する。

私の身を案じているのか、それとも秘密を見られたくないのか。

どちらにせよ、ここで手を放すという選択肢は、私の辞書――少なくとも「ヒーラー」としての私の辞書には載っていなかった。


「動かないでください。少し、痛みます」


私は彼の警告を無視し、意識を集中させた。

指先に魔力を集める。

イメージするのは「中和」と「隔離」。

暴れる黒い靄を光の檻で囲い込み、その毒性を薄めていく作業だ。


「っ……ぐ、う……」


レオン様が苦悶の声を漏らす。

彼の腕がビクリと跳ねるが、私はそれを逃がさないよう強く抑え込んだ。

革の手袋が軋む音が、静かな部屋に生々しく響く。


手袋を外して直接肌に触れれば、もっと効率よく治せるだろう。

けれど、そこまで踏み込めば、私は彼の「全て」を見てしまうことになる。

それは、公爵令嬢として超えてはいけない一線だという理性が、ギリギリのところで私を止めていた。

だから、これはあくまで応急処置。

手袋という一枚の隔壁を残したままの、妥協の施術だ。


数分、あるいはもっと長く感じられた時間の後。

手首の脈動が落ち着き、あの不快な冷たさが引いていくのを感じた。


「……ふぅ」


私は大きく息を吐き、ゆっくりと手を離した。

額にはうっすらと汗が滲んでいる。

魔力消費はそれほどでもないが、精神的な疲労が重い。


「いかがですか?」


顔を上げると、レオン様は自分の左手を呆然と見つめていた。

まるで、自分の体の一部が別のものにすり替わったかのような表情だ。

彼は何度か手を握ったり開いたりして、痛みが消えたことを確認している。


「……消えた」


呟きは、ほとんど独り言だった。


「長年、どんな高名な魔術師に見せても治らなかった痛みが……たった数分で」

「完治はしていません」


私は即座に訂正を入れる。

過大評価は生存率を下げる要因になる。


「一時的に活動を抑え込んだだけです。根本的な原因――呪いの発信源を断たない限り、また再発します」


淡々と説明する私を、レオン様が見下ろした。

その視線に、私は背筋が粟立つのを感じた。

先ほどまでの「興味」や「好意」といった生易しいものではない。

もっと重く、粘度のある感情。

砂漠で水を求めていた遭難者が、オアシスを見つけた時のような「渇望」だ。


「シェリル」


彼が私の名を呼ぶ。

その声色が、甘く、深く沈み込む。


「君は、何者だ?」


彼はゆっくりと右手を伸ばし、私の頬に触れた。

逃げようとしたが、足が竦んで動かない。

彼の指先が私の輪郭をなぞり、耳にかけられた髪を梳く。


「断罪を回避し、民衆を味方につけ、そして……不治とされた私の呪いさえも鎮めてみせた」


彼の顔が近づく。

その瞳の奥で、青い炎が揺らめいているのが見えた。

それは感謝ではない。

「絶対に手放さない」という、王族特有の独占欲の炎だ。


「私は君を『聖女』という便利な道具として扱うつもりだった。……だが、訂正しよう」


彼の指が、私の顎をくい、と持ち上げる。


「君は、私の運命そのものだ」


至近距離で見つめられ、私は息を呑んだ。

違う。

私はそんな大層なものじゃない。

ただ、痛がっている人を見過ごせなかっただけの、お人好しな元日本人だ。

それなのに、どうして事態はこうも斜め上に転がっていくのだろう。


「殿下、わたくしは……」

「何も言わなくていい」


レオン様は微笑んだ。

それは、獲物を完全に捕らえた捕食者の笑みであり、同時に、救いを求めていた子供のような安らかな笑みでもあった。


「君が何を望もうと、私は叶える。君が平穏を望むなら、この城を世界で一番静かな場所にしよう。……だから、私のそばにいろ」


命令ではなく、懇願に近い契約の言葉。

私は彼の手袋に覆われた左手を見つめた。

あの下に隠された傷跡を、私はまだ見ていない。

けれど、触れてしまった。

その冷たさと痛みを共有してしまった。


もう、後戻りはできない。

私は「無関係な他人」には戻れないのだ。


「……善処、いたします」


精一杯の距離を保った言葉で返すのがやっとだった。

レオン様は満足げに目を細め、名残惜しそうに私の頬から手を離した。


「ゆっくり休め。……良い夢を」


彼は今度こそ、軽やかな足取りで部屋を出て行った。

扉が閉まる音が、先ほどよりも軽快に聞こえるのは気のせいだろうか。


私はその場にへたり込んだ。

深紅の絨毯に座り込み、自分の両手を見つめる。

微かに残る、革の手袋の感触と、彼から吸い取った呪いの余韻。


「……逃げられない理由を、自分で作ってどうするのよ」


誰もいない部屋で、私の呟きだけが虚しく響いた。

生存確率は上がったかもしれない。

彼に守られることで、物理的な危険からは遠ざかっただろう。

けれど、その代わりに。

私は「王太子の執着」という、もっと厄介な鎖に繋がれてしまったのではないだろうか。


窓の外では、夜風が庭園の木々を揺らしている。

そのざわめきが、これから始まる私の籠の鳥生活への喝采のように聞こえて、私は深く溜息をついた。

この手は、人を救うたびに、自分の自由を失っていく運命にあるのかもしれない。

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