第7話 深夜の訪問者と冷めない紅茶
沈み込むようなベッドの柔らかさを背に、私は扉を凝視したまま呼吸を止めていた。
コン、コン。
二度目のノックは、最初よりも僅かに強く響いた。
拒絶は許さないという、静かだが絶対的な響き。
私はドレスの皺を伸ばし、強張る足に力を入れて立ち上がる。
ここで居留守を使うことは、心証を悪くするだけでなく、無理やり扉をこじ開けられる未来を招くだけだ。
「……どうぞ」
声を絞り出すと同時に、重厚な扉が開かれた。
現れたのは、予想通りというべきか、レオン・アークライト王太子その人だった。
ただ、その姿は先ほどまでとは少し違っていた。
堅苦しい式典用の軍服は脱ぎ捨てられ、ラフな白シャツにスラックスという、王城の主にしては無防備な格好だ。
首元のボタンが二つほど外され、鎖骨が覗いている。
「まだ起きていたか。……いや、眠れるはずもないか」
彼は苦笑し、許可も求めずに部屋の中へと入ってきた。
その手には護衛も連れず、腰に剣すら帯びていない。
丸腰。
それが私への信頼の証なのか、それとも「お前ごとき素手でどうとでもなる」という侮りなのか、私には判断がつかなかった。
「夜分に申し訳ありません、殿下」
私は慌ててカーテシーの姿勢を取る。
深く膝を曲げるその動作に、染み付いた従順さが滲むのが悔しい。
レオン様は部屋の中央にある応接セットへ歩み寄り、当然のように上座のソファへ腰を下ろした。
「座れ。尋問ではない、ただの話だ」
「は、はい……」
対面のソファに浅く腰掛ける。
テーブルの上には、侍女たちが用意しておいた白磁のティーセットが置かれていた。
沈黙が痛い。
何か話さなければ、この空気に押しつぶされてしまう。
私は逃げるようにティーポットへ手を伸ばした。
まだ温かい。
保温魔法がかけられているのだろう。
「お茶を、淹れますわ」
カップに注ぐ液体の音だけが、部屋に響く。
揺れる琥珀色の水面を見つめながら、私は必死に思考を巡らせる。
彼は何をしに来たの?
断罪の続き?
それとも、あの汚れた手帳の返却条件の提示?
カチャリ、とソーサーを彼の前に置く。
震えないように気をつけた指先が、カップの縁に触れて微かに熱を帯びる。
「……ずっと、探していた」
レオン様がカップに口もつけず、唐突に切り出した。
私は手を引っ込め、膝の上で固く握り合わせる。
「何を、でしょうか」
「雨の日も風の日も、顔を隠して街を回る治癒師のことだ。騎士団や街の噂で持ちきりだった。『聖女のような魔力を持つが、決して名乗らない幽霊』だと」
彼は私の目を真っ直ぐに射抜く。
そこには、昼間の大講堂で見せたような冷徹な計算高さはなく、純粋な探究心のような色が揺れていた。
「まさか、それが悪名高きシェリル嬢だとはな。灯台下暗しとはこのことだ」
レオン様の言葉に、私の心臓が嫌な音を立てる。
「悪名高き」。
その言葉が、私の本来の立ち位置を容赦なく思い出させる。
「……あれは、ただの自己満足です。殿下が評価されるような高尚なものではありません」
私は視線を逸らし、自分のカップを見つめる。
これは謙遜ではない。
生存スキルの熟練度上げ。それだけが動機だったのだから。
もし彼が「聖女としての清らかな動機」を期待しているなら、それは大きな誤解だ。
「動機などどうでもいい。結果として、君は私の部下を救い、民の命を繋いだ。それが全てだ」
断定するような強い口調。
私は驚いて顔を上げた。
レオン様はカップを手に取り、香りを楽しむように目を細めている。
「私は君を誤解していたようだ。アリスの言葉を鵜呑みにしていたわけではないが……君の沈黙を、傲慢さゆえのものだと思っていた」
彼の言葉が、胸の奥の澱んだ部分を少しだけ溶かす。
ずっと敵だと思っていた。
処刑の命令書にサインをする冷血漢だと。
けれど、今目の前にいる彼は、ただの一人の疲れた青年のような顔をしている。
「……わたくしも、殿下を誤解しておりました」
思わず口をついて出た言葉に、彼は片眉を上げて面白そうに笑った。
「ほう? どう誤解していた?」
「もっと……話の通じない、恐ろしい方かと」
「ははっ、それは手厳しいな」
レオン様が声を上げて笑う。
その無防備な笑顔に、私は毒気を抜かれたような気分になった。
もしかして、この人は本当に私を害するつもりはないのかもしれない。
「聖女」として利用するつもりはあるだろうけれど、少なくとも命の危険はない。
そう思えた瞬間、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れたような気がした。
安堵のため息を漏らし、私も自分のお茶に口をつける。
ハーブの香りが鼻腔をくすぐり、温かい液体が食道を通って胃に落ちていく。
美味しい。
王城の茶葉は、やはり一級品だ。
「……っ」
その時、カチャ、と小さな音がした。
レオン様がカップをソーサーに戻そうとした音だ。
けれど、それは普段の優雅な彼からは想像できないほど、乱暴で不安定な音だった。
私はカップから顔を上げ、彼の手元を見る。
白磁のカップが、ソーサーの上で微かに踊っている。
彼の左手が、小刻みに震えているのだ。
「殿下?」
「……ああ、すまない。少し冷えたかな」
レオン様は何でもないことのように、右手で左手首を掴み、その震えを強引に抑え込んだ。
笑顔は崩していない。
けれど、その額には玉のような脂汗が滲んでいるのが見て取れた。
冷えた?
そんなはずはない。
部屋は適温に保たれているし、彼が着ているシャツも上質な生地だ。
何より、あの震え方は寒さによるものではない。
もっと内側から、神経や魔力の回路が悲鳴を上げているような、病的な痙攣。
「失礼ですが、お加減が……」
「問題ない。ただの古傷が痛むだけだ」
彼はぴしゃりと私の言葉を遮った。
踏み込ませない壁。
そこには、先ほどまでの穏やかさとは違う、為政者としての強固な拒絶があった。
私は口をつぐむ。
けれど、私の目は医師のように、勝手に情報を収集してしまっていた。
左手の震え。額の汗。
そして、シャツの襟元から僅かに覗く肌の色が、不自然なほど土気色をしていること。
(古傷なんかじゃない)
あれは、現在進行形で彼の体を蝕んでいる何かの症状だ。
毒? 呪い?
私が騎士団のガレス様に見つけた毒の傷よりも、もっと根深く、もっとどす黒い気配。
レオン様は震えが収まるのを待って、立ち上がった。
その動作の端々に、痛みを堪えるような硬さがある。
「今日はもう休め。明日、正式な話をしよう」
彼は背を向け、逃げるように扉へと向かう。
その背中が、先ほどよりも一回り小さく見えた。
完璧な王太子。
誰もが羨む地位と力を持つ彼が、夜の離宮で一人、震えを隠している。
「……殿下」
呼び止めてはいけないと分かっていた。
ここで踏み込めば、私は「知りすぎてしまった者」になる。
生存戦略としては、見なかったことにして眠るのが正解だ。
けれど、私の体は思考よりも先に動いていた。
テーブルに置かれたままの、彼が一口も飲めなかった冷めない紅茶。
それが象徴する「飲み込めない痛み」を、私は無視することができなかったのだ。
私の声に、扉に手をかけたレオン様が足を止める。
振り返った彼の瞳には、明らかに動揺の色が浮かんでいた。
私はその揺れる瞳を見つめながら、自分がまた一つ、引き返せない一線を越えようとしていることを自覚した。




