第6話 白亜の離宮と沈み込む羽毛
「いつから欺いていた?」という王太子の問いに、私は言葉を詰まらせたまま、ただ自身の膝の上で握りしめた拳を見つめていた。
答えるべき言葉が見つからなかったのではない。
何を言っても、彼がそれを「肯定」として受け取る予感がしたからだ。
馬車の車輪が刻む規則的な振動だけが、沈黙を埋めるように響き続ける。
レオン様は答えを急かさなかった。
ただ、逃げ場のない小動物を観察するように、頬杖をついて私を見つめているだけだ。
やがて、馬車が砂利を踏む音に変わり、緩やかに速度を落として停止した。
「着いたぞ」
短く告げられ、扉が開かれる。
私は深呼吸を一つして、覚悟を決めた。
牢獄だろうか。それとも尋問室だろうか。
どんな場所であれ、悪役令嬢としての最期をみっともなく晒すわけにはいかない。
エスコートの手を取り、ステップを降りる。
石畳に靴音を響かせて顔を上げた私は、目の前の光景に絶句した。
「……え?」
そこは、鉄格子のある地下牢の入り口ではなかった。
月光を浴びて白く輝く大理石の壁。
手入れの行き届いた庭園には夜咲きの薔薇が香り、いくつもの尖塔が夜空を突いている。
王城の敷地内でも特に警備が厳重とされる、王族専用の居住区画――「白の離宮」だ。
「さあ、こちらへ」
私の困惑など意に介さず、レオン様が背中を押す。
入り口には整列した侍女たちが待ち構えており、私が足を踏み入れた瞬間に一斉に頭を下げた。
「シェリル様、お待ちしておりました」
一糸乱れぬ礼。
その丁寧すぎる所作に、私の背筋が寒くなる。
罪人としての扱いではない。かといって、客人のそれとも違う。
まるで、壊れ物を扱うような慎重さと、決して逃がさないという意思を感じる。
通されたのは、離宮の最上階にある一室だった。
重厚な両開きの扉が開かれると、視界いっぱいに「贅沢」が飛び込んできた。
床には足首まで埋まりそうな深紅の絨毯。
天井にはクリスタルのシャンデリア。
壁際には猫足の家具が並び、中央には天蓋付きの巨大なベッドが鎮座している。
広さは公爵家の私の部屋の倍はあるだろう。
「気に入ったか?」
背後からレオン様の声がした。
私は慌てて振り返る。
「あの、レオン様。これは一体……」
「君の新しい住まいだ。聖女に相応しい環境を用意させた」
「住まい、と言われましても」
「不服か? 地下牢の方がお好みなら、今から手配し直すが」
試すような視線。
私は即座に首を横に振った。
生存確率を計算するなら、カビ臭い牢獄よりはこちらの方がマシだ。
たとえここが、より精巧な鳥籠だとしても。
「……感謝いたします」
「結構。では、ゆっくり休むといい。必要なものは侍女に言いつけてある」
レオン様はそれだけ言うと、踵を返して出て行った。
バタン、と扉が閉まる音が、やけに重く響く。
一人残された私は、部屋の中央で立ち尽くした。
静かすぎる。
外の喧騒が嘘のように遮断されている。
私はドレスの裾を引きずりながら、まず窓辺へと駆け寄った。
厚手のカーテンを開け放つ。
眼下には、見事な庭園と、それを取り囲む高い城壁が見えた。
ここから地面までは優に十メートル以上ある。
飛び降りれば無傷では済まないし、魔法で着地を和らげたとしても、庭を巡回している衛兵に見つかるのは確実だ。
「……逃げ道なし、か」
窓の鍵を確認する手に、冷たい金属の感触が伝わる。
鉄格子こそ嵌まっていないが、この高さと警備体制そのものが、物理的な格子よりも強固な檻として機能している。
私は溜息をついて、部屋の中を見回した。
机の上には、最高級の便箋とインクセット。
クローゼットには、私のサイズに合わせたであろう上質なドレスや寝間着が、既に何着も用意されていた。
準備が良すぎる。
まるで、今日私がここに来ることを、ずっと前から予定していたかのようだ。
「……ただの親切なわけがない」
私は呟きながら、部屋の中央にあるベッドへ近づく。
真っ白なシーツは一点の曇りもなく、ふっくらとした枕が二つ並んでいる。
こんな高級な寝具、前世でも今世でも使ったことがない。
指先でそっと触れてみる。
指が沈み込む感触に、一日中張り詰めていた神経が僅かに緩んだ。
断罪イベント、証人の登場、聖女認定、そして連行。
怒涛の展開に、体は悲鳴を上げている。
「罠かもしれない」
そう思いつつも、私は抗えず、ベッドの端に腰を下ろした。
途端に、雲の上に座ったかのような柔らかさが私を受け止める。
最高級の羽毛布団が、疲弊した私の体を優しく、しかし有無を言わせず包み込んでいく。
「う……」
声が漏れた。
心地よすぎる。
これが罠だと言うなら、なんて甘美で恐ろしい罠なのだろう。
ここで安らぎを覚えさせ、牙を抜くつもりなのかもしれない。
「衣食住を保証する代わりに、一生ここで回復魔法のタンクとして働け」と。
あるいは、「聖女として政略結婚の駒になれ」と。
私は羽毛布団に顔を埋め、その清潔な匂いを吸い込んだ。
悔しいけれど、今の私にはここから逃げ出す力も、この待遇を拒否する権利もない。
公爵令嬢としての地位も、悪役としての汚名も、全て剥ぎ取られた。
今ここにいるのは、聖女というラベルを貼られた、ただの無力な少女だ。
「……代償は、何かしら」
顔を上げ、誰もいない天井に向かって問う。
これだけの特別扱いだ。
明日の朝には、法外な請求書か、あるいは無理難題な命令書が届くに違いない。
それとも、もっと直接的な――身体的な拘束や、魔力の強制抽出だろうか。
想像すればするほど、不安が影のように膨れ上がる。
しかし、肉体の疲労は限界を超えていた。
私はドレスを着たまま、沈み込むようなベッドの上で横になった。
警戒を解いてはいけない。
眠ってはいけない。
そう自分に言い聞かせながらも、意識は泥のように重く沈んでいく。
その時だった。
コンコン。
控えめだが、芯のあるノックの音が静寂を破った。
私は弾かれたように上半身を起こす。
侍女だろうか?
いや、侍女なら声をかけてから入るはずだ。
この、こちらの反応を伺うような、重みのあるノックは。
私は乱れた呼吸を整え、扉を睨み据えた。
この過剰な待遇の裏にある「本当の目的」が、扉の向こうに立っている気がした。




