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断罪されるはずの悪役令嬢、治癒魔法で全員救っていたら聖女扱いされました  作者: 九葉(くずは)


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第5話 遺された扇と黄金の檻

王太子の手にある私の薄汚れた手帳が、シャンデリアの光を浴びて、不相応なほど神々しく見えていた。


湧き上がる歓声と拍手が、鼓膜を物理的に叩く。

「聖女様、万歳!」「シェリル様に神のご加護を!」

熱狂の渦の中心で、私は完全に置き去りにされていた。

私の生存戦略は「目立たず生き残る」だったはずだ。

それなのに、どうして国の至宝として祭り上げられているのだろう。

膝が震えるのは、断罪への恐怖から、未来への不安へと質を変えていた。


「連れて行け」


レオン王太子の氷のような声が、熱気を裂いた。

その視線は私ではなく、床に崩れ落ちたアリスに向けられている。


「嘘よ……嫌、離して!」


衛兵二人がアリスの細い腕を掴み、立たせようとする。

彼女は狂ったように首を振り、乱れた髪の隙間から、どこか焦点の合わない瞳を覗かせた。


「わたくしは間違っていない……あの方が、あの方がそう言ったのよ!」

「虚偽告発および、王家への不敬罪だ。地下で頭を冷やすといい」


レオンは冷徹に言い放ち、手で払うような仕草をした。

かつて愛を囁いた相手に向けるとは到底思えない、ゴミを見るような目。

アリスの顔から血の気が失せ、唇がわななく。


「待って、レオン様……地下牢なんて、そんな……『あの方』になんて言い訳すれば……」


すれ違いざま、彼女が漏らした掠れ声が私の耳を掠める。

『あの方』?

背筋がゾクリとした。

彼女は自分の保身ではなく、誰かへの恐怖に怯えている。

アリスの瞳の奥に宿る昏い色は、単なる嫉妬や絶望とは違う、もっと根源的な支配への恐怖に見えた。


衛兵に引きずられていく彼女の姿は、本来なら「ざまぁ」と感じる場面なのかもしれない。

けれど、私の中に湧いたのは、奇妙な共感と寒気だった。

もしあの騎士が証言しなければ。もしレオンが手帳を拾っていなければ。

あそこに引きずられていたのは私だった。

紙一重の運命。

彼女は私の身代わりになっただけなのではないか。


ふと、床に目が留まる。

アリスが落とした扇が、誰にも拾われないまま転がっていた。

桃色の羽飾りがあしらわれた、可憐な扇。

さっきまで彼女が勝ち誇って揺らしていた権威の象徴が、今はただのゴミとして踏まれそうになっている。


私は無意識に手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込めた。

今の私がそれを拾えば、「敗者への慈悲」という名の傲慢なパフォーマンスとして映るだろう。

私は唇を噛み、視線を逸らすことしかできなかった。


「……行くぞ、シェリル」


レオンが私の肩を抱いた。

温かいというより、逃がさないという意志を感じる強い力。

私はビクリと肩を跳ねさせ、彼を見上げる。


「え、あの……どちらへ?」

「決まっている。君の身柄を保護する」


保護。

その甘美な響きに、私は警戒心を最大レベルまで引き上げた。

貴族社会において「保護」とは、しばしば「軟禁」の類義語だ。


「いえ、お気遣いなく! 誤解も解けましたし、わたくしは屋敷へ戻り……」

「戻れると思うか?」


レオンは顎で会場をしゃくった。

興奮冷めやらぬ貴族たちが、目をぎらつかせてこちらを見ている。

あの中には、純粋な感謝を持つ者もいれば、「聖女」という利権に群がろうとするハイエナもいるだろう。


「今の君を野に放てば、明日にはどこかの派閥に拉致されるか、政治の道具として骨までしゃぶられるのがオチだ」

「それは……」


否定できない。

聖女認定されてしまった以上、私はもう「ただの公爵令嬢」ではないのだ。

歩く国家機密。生きた奇跡。

そんなものを無防備に公爵邸へ戻せば、家ごと争いに巻き込まれる。


「私が責任を持って預かる。……拒否権はないと思え」


レオンは私の腰に手を回し、有無を言わせぬ力で歩き出した。

抵抗しようにも、周囲は「おお、王太子殿下が直々にエスコートを!」と感涙している始末だ。

外堀は完全に埋められている。


私たちは大講堂の演壇を降り、中央の通路を進んだ。

まるで海が割れるように、人々が左右に退いて頭を下げる。

絨毯を踏みしめるたび、自由が遠のいていく音が聞こえるようだった。


重厚な大扉を抜け、冷たい夜風が吹き抜ける回廊へ出る。

そこからさらに正門へと続く石畳を、レオンに半ば抱えられるようにして歩いた。

背後から聞こえる大講堂の喧騒が、遠い別の世界の出来事のように感じる。


正門の前には、既に一台の馬車が待機していた。

王家の紋章が入った、漆黒の馬車。

四頭立ての立派なもので、窓には分厚いカーテンが引かれている。

御者が深く帽子を下げて扉を開けた。


「さあ、乗って」


レオンが手を差し出す。

それはエスコートの手であり、檻への誘いでもあった。

私は一瞬、夜の闇に沈む学園の校舎を振り返る。

あそこでなら、まだ「生徒」でいられた。

けれど、この馬車に乗れば、私は「聖女」として王城という伏魔殿に入ることになる。


逃げ道はない。

私は諦めて、レオンの手を取り、ステップに足をかけた。

車内は驚くほど広く、向かい合う座席は最高級のベルベットで覆われている。

私が座ると、クッションが音もなく沈み込んだ。

続いてレオンが乗り込み、扉が重い音を立てて閉められる。


ガチャリ。


外から鍵をかけられたわけではないのに、その音は私の心に「閉鎖」の合図として響いた。


「出せ」


レオンが短く命じる。

鞭の音と共に、馬車が滑るように動き出した。

窓の外の景色が流れていく。

私は膝の上で、空っぽになった両手を握りしめた。

扇も、手帳も、平穏も、すべてあの講堂に置いてきてしまった。


「……それで」


薄暗い車内で、レオンが私に向き直る。

その瞳が、獲物を前にした肉食獣のように妖しく光った。


「改めて聞こうか、シェリル。……いつから私の目を欺いていた?」


詰問ではない。

それは、新しい玩具の秘密を暴こうとする子供のような、無邪気で残酷な好奇心だった。

馬車の車輪が石畳を叩く規則的な振動が、私の動悸と重なる。


断罪は回避できた。

けれど、私はもっと厄介な猛獣の巣穴へ連れて行かれるのだと、ようやく理解した。

窓の隙間から見える王城の尖塔は、私には巨大な墓標のように見えていた。


この豪華な檻の中で、私は一体何をさせられるのだろうか。

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