第4話 泥だらけの手帳と羞恥の記録
アリスが懐から取り出そうとした黒い革の手帳に、私は死の予感を見ていた。
会場のどよめきが、再び水を打ったように静まる。
あれが何なのかは分からない。
けれど、追い詰められた彼女が出すのだ。確実に私を処刑台へ送るための、精巧に捏造された「黒魔術の契約書」か何かなのだろう。
「ご覧ください! これこそが、彼女が悪魔と交わした契約の証拠です!」
アリスが高々と掲げたのは、禍々しい装飾が施された黒い手帳だった。
表紙には見たこともない魔法陣が刻印されている。
……あんなもの、私の部屋にあっただろうか。
いや、ない。断じてない。
だが、この場において「証拠」として提出されれば、中身が白紙だろうと関係ない。
「悪役令嬢の部屋から出てきた」という事実さえ捏造されれば、それでチェックメイトだ。
「この中には、国を滅ぼす呪いの術式が記されています! レオン様、どうかご決断を!」
アリスがレオン王太子に詰め寄る。
彼女の目は血走り、必死の形相で同意を求めていた。
周囲の貴族たちが、恐怖に顔を引きつらせて後ずさる気配がする。
せっかく騎士たちが作ってくれた「聖女」の流れが、この一点で覆されようとしていた。
私は扇を強く握りしめ、冷たい汗が背中を伝うのを感じる。
否定しなければ。
でも、どうやって?
「それは私のものではありません」と言ったところで、誰が信じてくれる?
その時だった。
「……確かに、証拠は必要だな」
それまで沈黙を守っていたレオン王太子が、低く、よく通る声で呟いた。
アリスの顔がぱっと輝く。
「はい! そうですわよね、レオン様!」
「だが、アリス。君が持っているそれは、いささか新品すぎると思わないか?」
レオンの声には、温度がなかった。
彼はアリスが差し出した黒い手帳に見向きもせず、自分の懐へと手を伸ばした。
取り出されたのは、アリスのものとは似ても似つかない、一冊の薄汚れた手帳だった。
表紙は擦り切れ、泥と、洗っても落ちなかった血のシミがこびりついている。
背表紙の糸はほつれかけ、何度もページをめくられた痕跡が生々しく残る、小さなノート。
私の心臓が、ドクリと大きく跳ねた。
(あれは……!)
見間違いようがない。
私がここ三年間、肌身離さず持ち歩いていた「診療記録」だ。
回復魔法の効果範囲、魔力消費量の推移、薬草の配合データ。
それらを書き留めていた、私だけの研究ノート。
一週間前、街での治療の帰りにどこかで落としてしまい、必死に探していたものだ。
どうして、それを彼が持っているの?
「本当の『証拠』とは、こういうものを言うのではないか」
レオンは汚れた手帳を掲げ、会場の全員に見えるように示した。
煌びやかな大講堂に、その薄汚さは異質だった。
けれど、だからこそ圧倒的な「現実」としての重みを持っていた。
「私はこれを、下町の路地裏で拾った。……中には、びっしりと書き込みがある」
やめて。
私は思わず手を伸ばしかけた。
中身を見ないで。
そこには医学的なデータだけでなく、日々の不安や、「処刑されたくない」という愚痴、果てはストレス発散の下手なポエムまで走り書きしてあるのだ。
断罪されるより、そっちを見られる方が社会的に死んでしまう。
「……『三月五日。騎士の腕の裂傷。深さ三センチ。神経の接続に魔力を集中。後遺症が残らないよう、三回に分けて施術すること』」
レオンが淡々とした声で、ページの一節を読み上げる。
私は顔から火が出る思いで、扇で顔を覆った。
それはガレス副団長を治した時のメモだ。
必死すぎて字も汚いし、自分にしか読めないような略語だらけのはずなのに、彼はスラスラと読み上げていく。
「『四月二日。裏庭のメイド。火傷の範囲が広い。痛覚遮断を優先。……彼女が笑顔に戻れますように』」
待って、そんなこと書いたっけ?
最後の一文は、ただの願望というか、独り言だ。
それを王太子の美声で読み上げられると、なんだかすごく高尚な祈りのように聞こえてしまう。
会場から、すすり泣くような音が漏れ始めた。
読み上げられる記録の一つ一つが、先ほどの証言者たちの言葉と符合していく。
それが何を意味するか、誰の目にも明らかだった。
「この手帳には、自身の利益など一行も書かれていない。あるのは、ただひたすらに、他者の痛みをどう取り除くかという苦悩と工夫だけだ」
レオンが手帳を閉じ、私の方へと歩み寄ってくる。
その瞳から、先ほどまでの氷のような冷たさが消えていた。
代わりに宿っていたのは、私を焼き尽くすような熱っぽい光。
「シェリル嬢。君はこれを探していたのだろう?」
目の前に差し出された手帳。
泥と血で汚れたその表紙は、私の泥臭い生存戦略の象徴だ。
私は震える手でそれを受け取ろうとしたが、レオンの手がそれを許さなかった。
彼は手帳を高く掲げたまま、私を見下ろして微笑んだのだ。
「返して欲しければ、認めることだ」
意地悪な響きを含んだ声が、私の耳元だけに落ちる。
「君こそが、この国を陰から支えていた『名もなき聖女』であることを」
アリスが持っていた黒い手帳が、彼女の手から滑り落ちた。
バサリ、と虚しい音を立てて床に転がる。
誰もそれを拾おうとはしない。
全員の視線は、レオンの手にあるボロボロの手帳と、それを呆然と見上げる私に釘付けだった。
「……違います」
私は蚊の鳴くような声で抵抗を試みた。
「それは、ただの……私の、拙い記録で……」
「そう、君の記録だ。君が生きた証であり、君が救った命の記録だ」
レオンは私の言葉を遮り、決定的な事実として宣告した。
彼は私の手を取り、強引に引き寄せる。
そして、高らかに宣言した。
「断罪などありえない! 彼女こそが、我が国の至宝。……真の聖女である!」
ワァッ、と歓声が爆発した。
拍手が波のように押し寄せ、大講堂を揺らす。
アリスが床に崩れ落ち、何かを喚いているが、その声は熱狂の渦にかき消されて聞こえない。
私はレオンに手首を掴まれたまま、遠くなる意識の中で思った。
断罪イベントは回避できた。首は繋がった。
けれど。
(これって、逃げ場が完全になくなっただけでは?)
聖女なんて崇められたら、もう田舎へ逃げてスローライフなんて夢のまた夢だ。
私は汚れた手帳を見つめる。
あの手帳が、私を王家に縛り付ける鎖の鍵になってしまったのだ。
「……顔色が悪いぞ、聖女殿」
レオンが勝ち誇ったように囁く。
私は彼を睨み返そうとして、膝から力が抜けるのを感じた。
これから私は、どこへ連れて行かれるのだろうか。




