第3話 連鎖する証言と使い古しのハンカチ
床に額を擦り付けるガレス副団長の背中は、岩のように動かなかった。
その異常な光景がもたらした静寂は、私の鼓膜を痛いほど圧迫していた。
たった一人の騎士の叛逆。
本来なら不敬で取り押さえられるはずのその行動を、誰も咎めようとしない。
それどころか、大講堂の空気は熱を帯び、さざ波のように揺らぎ始めていた。
「嘘……嘘ですわ!」
アリスの叫び声が、金切り音となって空気を裂く。
彼女はドレスの裾を乱暴に翻し、周囲の貴族たちに同意を求めるように視線を走らせた。
「ガレス様は騙されているのです! 魔女の幻惑に違いありません! 誰か、この女の化けの皮を剥いでくださる方はいらっしゃいませんか!?」
必死の形相で叫ぶ彼女の視線が、給仕として控えていた一人のメイドに留まる。
怯えたように盆を抱える少女だ。
アリスは彼女を指差した。
「貴女! 以前、厨房で火傷をしたと言っていましたわね? その時、この女が近くをうろついていたはずです。何かされたのでしょう!?」
名指しされたメイドが、ビクリと肩を震わせる。
私は扇を持つ手を強張らせた。
あの子は確か、二ヶ月前の園遊会で、熱湯を被って泣いていた新入りだ。
人の目が届かない裏庭で、私は彼女の爛れた腕をこっそりと治した。
(まさか、あれもバレていたの?)
アリスの告発は、私の隠密行動をすべて「悪事」として暴くつもりなのだ。
メイドがおずおずと一歩前へ出る。
その視線が、私とアリスの間を行き来し、そして――私の方で止まった。
彼女は震える唇を開く。
「……はい。あの日、私は酷い火傷を負いました」
「そうでしょう! さあ、この悪女に何をされたか言いなさい!」
アリスが勝ち誇ったように胸を張る。
しかし、メイドは盆を脇に抱え直すと、ガレス副団長に続くように深く頭を下げた。
「痛みで泣いていた私に、シェリル様は何も言わず、氷のような冷たい魔法をかけてくださいました。……おかげで、跡形もなく綺麗に治ったのです」
メイドは袖を捲り上げ、白魚のような腕を衆目に晒した。
そこには火傷の痕など微塵もない。
「なっ……?」
アリスが絶句する間もなく、今度は会場の反対側から野太い声が上がった。
「俺もだ! 演習中に折った足首を、通りすがりのフードの御仁に治してもらったことがある。あの魔力の色、間違いなくシェリル様だ!」
声の主は、近衛騎士の一人だった。
それを皮切りに、まるで堰を切ったように声が上がり始める。
「私もです! 街で倒れた時、背中を擦ってくださったのは……」
「我が家の御者が馬に蹴られた際も、すぐに駆けつけて……」
一人、また一人。
給仕が、衛兵が、そして中立を保っていたはずの下級貴族たちが、次々と声を上げ始めた。
彼らは皆、何かしらの形で私が「実験台」……いいえ、「練習」として治癒魔法をかけた人々だった。
私は顔から火が出る思いで、扇を顔の半分まで引き上げた。
視界の端々で、かつての患者たちが私に熱い視線を送っている。
(やめて、そんなに見ないで)
私はただ、前世のゲーム知識で「回復魔法の熟練度」を上げたかっただけなのだ。
死にたくない一心で、こっそりとスキルレベルを磨いていただけ。
それなのに、彼らの口から語られる私は、まるで慈愛に満ちた聖女そのものではないか。
事実と解釈の乖離に、目眩がする。
「お静かに! 静粛になさい!」
アリスがヒステリックに叫ぶが、もう誰の耳にも届かない。
会場のどよめきは、疑惑から驚嘆へ、そして称賛へと色を変えつつあった。
その時、騒ぎを割って一人の老紳士が進み出た。
口髭を蓄えた厳格な顔立ち。王国の財務を担う、バーンズ伯爵だ。
彼はアリスの前で足を止めると、懐から何かを取り出し、高々と掲げた。
それは、泥と血のシミが落ちきっていない、一枚のハンカチだった。
端には私のイニシャル『S.V』が刺繍されている。
「……三ヶ月前、私が視察中に落馬し、意識を失った時のことです」
バーンズ伯爵の低い声が、喧騒を制圧する。
「薄れゆく意識の中で、誰かが私の頭をこの布で包み、止血してくださったのを覚えています。……目が覚めた時、傷は塞がり、手元にはこれだけが残されておりました」
彼はそのボロボロのハンカチを、まるで聖遺物のように両手で捧げ持った。
「ずっと探しておりました、命の恩人を。……まさか、悪評高き公爵令嬢であったとは」
伯爵の目が潤んでいる。
私は扇の裏で、思わず「あっ」と声を漏らした。
あのハンカチ、お気に入りのレースだったのに見当たらないと思ったら、あそこで包帯代わりに使ってそのまま忘れてきていたのか。
(返して欲しいなんて、今さら言えない)
使い古され、茶色いシミのついた布切れ。
それが今、何よりも雄弁な「証拠」として、アリスの突きつけた羊皮紙を無力化していく。
伯爵は私に向き直り、胸に手を当てて一礼した。
「シェリル様。貴女は悪女の仮面を被り、人知れず国を支えておられた。……その高潔な魂に、敬意を表します」
その言葉が決定打だった。
会場中の空気が、完全にひっくり返る。
私を見る目は、もはや「断罪されるべき罪人」ではなく、「誤解された悲劇の聖女」を見るそれだ。
違う。
私はそんな立派な人間じゃない。
ただ、処刑エンドが怖くて、生存確率を上げるために必死だっただけなのに。
けれど、数百の瞳に映る「聖女シェリル」の虚像は、もう私の否定の言葉など受け付けないほど強固になっていた。
私は逃げ場を失い、赤くなった顔を隠すように俯くことしかできなかった。
周囲はそれを「謙虚さゆえの羞恥」と受け取ったらしい。
感嘆のため息が、さざ波のように広がる。
「……ありえない」
呆然と立ち尽くすアリスが、震える声で呟いた。
彼女の顔色は蒼白で、唇だけが赤く引き攣っている。
「みんな、騙されているのよ……! こんなの、おかしいわ!」
彼女は狂乱したように髪を振り乱し、レオン王太子にすがりついた。
「レオン様! 信じてください! この女は魔女です! みんなを洗脳しているのです!」
レオン王太子は、縋りつくアリスの腕を冷ややかな目で見下ろしたまま、動かない。
その沈黙が、アリスをさらに追い詰める。
「……そうですわ。まだ、あれがあります」
アリスの瞳に、昏い光が宿った。
彼女は震える手で、懐の奥からもう一つの証拠を取り出そうとする。
それは、さっきの羊皮紙とは違う、黒い革表紙の手帳だった。
私は息を呑む。
あれは、見覚えがない。
けれど、アリスのあの表情は、確実に私を殺すための切り札を握った人間の顔だ。
これだけ証言が出揃っても、まだ足りないというのか。
聖女として崇められるという予想外の「鎖」に繋がれつつある今、その鎖すら断ち切るほどの断罪が、まだ残されているというの?




