第2話 証人の跪礼と癒えた古傷
「……証人、入廷なさい!」
アリスの甲高い呼び声が、耳の奥で不快な反響を続けていた。
私は扇を持つ指に力を込め直し、強張る表情筋を必死に抑え込む。
重厚なオーク材の大扉が、低い唸りを上げて開かれた。
その隙間から流れ込んでくる冷たい風が、背中の汗を冷やす。
ああ、いよいよだ。
この扉の向こうから現れる誰かが、私の破滅を決定づける嘘を並べ立てるのだろう。
アリス派に買収された商人か、あるいは脅された下級貴族か。
どちらにせよ、私の首にかかる縄を締める役目を持つ死刑執行人だ。
カツン、カツン、と硬質な足音が響く。
現れたのは、予想していたような貧相な男ではなかった。
王家直属を示す、白銀の甲冑。
左腰に帯びた長剣と、揺れる紺碧のマント。
近衛騎士団の制服を隙なく着こなした大柄な男が、鋭い眼光を放ちながら演壇へと歩み寄ってくる。
会場がざわめいた。
「あれは、副団長のガレス様ではないか?」
「まさか、公爵令嬢の悪行は騎士団にまで及んでいたのか……」
囁き声が波のように広がる中、私は呼吸を忘れてその姿を見つめた。
ガレス副団長。
堅物で知られ、王太子への忠誠も厚い、まさに騎士の鑑とされる人物だ。
そんな彼が証人として立ったのなら、私の有罪は確定したも同然だ。
嘘の証言をするような人ではない。
つまり、アリスは何か巧妙な手口で、「私が騎士団に害をなした」と彼に信じ込ませたのだ。
(逃げ場なんて、最初からなかったのね)
扇の影で、私は乾いた唇を噛む。
ガレス副団長はアリスの隣で足を止め、カチリと踵を合わせた。
その顔には深い皺が刻まれ、歴戦の戦士特有の威圧感が漂っている。
「ガレス様、証言をお願いしますわ!」
アリスが勝ち誇ったように私を指差す。
「この女……シェリル・バーミリオンが、学園の裏で怪しげな魔術を行使しているところを目撃されたのでしょう? 騎士団の巡回中に!」
アリスの声に熱がこもる。
ガレス副団長が、ゆっくりと首を巡らせて私を見た。
その眼光とぶつかった瞬間、私の背筋に悪寒が走る。
……いいえ、違う。
私の目は、彼の瞳ではなく、その「左腕」に吸い寄せられていた。
甲冑の隙間、肘の関節部分。
彼が腕を動かすたびに、微かな違和感がある。
普通の人間なら気づかない程度の、ほんの僅かな可動域の遅れ。
けれど、人体構造と負傷の相関を叩き込んできた私の目をごまかすことはできない。
(あの動き……どこかで)
記憶の引き出しが、勝手に開く。
雨の音。
路地裏の湿ったカビの臭い。
泥にまみれて呻く大男。
『……すまない、誰にも言えない怪我なんだ。頼む』
一ヶ月前の、激しい雷雨の夜だ。
私はいつものように顔を隠す深いフードを被り、こっそりと市井の怪我人を治療していた。
そこに転がり込んできたのが、深手を負った騎士だった。
魔獣の毒爪による裂傷。
放置すれば腕の切断どころか、命に関わる重症だった。
私は必死だった。
公爵令嬢だとバレれば終わりだが、目の前の命を見捨てることもできなかった。
震える手で患部を押さえ、ありったけの魔力を注ぎ込んだ。
毒を中和し、引き裂かれた筋繊維を一本一本繋ぎ合わせるイメージで。
『アンタ、命の恩人だ……顔を見せてくれ』
『いいえ、忘れてください。ただの通りすがりです』
そう言って、私は逃げるように立ち去ったのだ。
あの時の男。
泥と血にまみれていたから分からなかったけれど、あれはこのガレス副団長だったのか。
思考が追いつくと同時に、血の気が引いた。
もし彼が、あの時の「フードの女」が私だと気づいていたら?
無許可での医療行為は重罪だ。
しかも相手は近衛騎士。
「悪役令嬢が怪しげな術で騎士を誑かした」というアリスの筋書きに、これ以上ない真実味を与えてしまう。
(終わった)
私は観念して、目を閉じた。
断罪を受け入れよう。
せめて、公爵家の娘として無様に泣き叫ぶことだけはすまい。
「……シェリル嬢」
低く、腹に響く声が私の名を呼んだ。
私は覚悟を決めて、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
目の前には、ガレス副団長がいた。
彼は私との距離を詰め、その巨大な体躯で私を見下ろしている。
アリスが期待に満ちた顔で「さあ、言ってやってください!」と煽る。
ガレス副団長は無言のまま、腰の剣に手をかけた。
会場の空気が凍りつく。
まさか、ここで私を斬り捨てるつもりなのか。
周囲の騎士たちが慌てて動き出そうとする気配がする。
けれど、彼は剣を抜かなかった。
鞘ごと帯革から外し、それを静かに床へと置いたのだ。
カラン、と乾いた金属音が、静寂な大講堂に響き渡る。
それは、騎士が相手に対して敵意がないことを示す、最大級の服従の作法。
「え……?」
アリスの間の抜けた声が漏れる。
次の瞬間、ガレス副団長はその巨体を折り曲げ、床に膝をついた。
石畳に額がつくほどの、深い深い最敬礼。
「……あの夜の御恩、片時も忘れたことはございません」
重々しい声が、床から響いてくる。
「我が命、そして我が右腕。すべては貴女様が救ってくださったもの。このガレス、生涯をかけて貴女様の盾となりましょう」
会場の時が止まったようだった。
アリスの笑顔が引きつり、彫像のように固まっている。
レオン王太子もまた、組んでいた腕を解き、目を丸くして跪く騎士を見下ろしていた。
私は扇を取り落としそうになるのを、必死で堪えた。
心臓が早鐘を打つどころか、口から飛び出しそうだ。
(どうして?)
私の正体に気づいていたの?
それとも、今の私の立ち姿だけで見抜いたの?
いいえ、そんなことよりも。
彼は今、私を「告発」するのではなく、「感謝」している。
「あ、あの、ガレス様? 人違いでは……?」
アリスが震える声で尋ねるが、ガレス副団長は顔を上げない。
彼は跪いたまま、微動だにせずに続ける。
「この傷跡が、何よりの証拠。……貴女様の神聖な魔力が、毒に侵された私の肉体を繋ぎ止めてくださった。その温かさを、見間違えるはずもございません」
彼は左腕の甲冑を僅かにずらし、その下に残る薄い傷跡を示した。
遠目に見ても分かる。
それは、完治した証としての綺麗なピンク色の皮膚だ。
私の視線がその傷跡に吸い寄せられ、職業病のような安堵が胸をかすめる。
化膿もしていない。後遺症もなさそうだ。よかった。
……ハッとして、私は思考を現実に戻す。
今、私は患者の予後を心配している場合ではない。
会場の空気が、劇的に変質し始めていた。
「悪女」を見る侮蔑の視線が、困惑と、得体の知れない期待へと混ざり合っていく。
騎士団の重鎮が跪くほどの恩義。
それを、この悪役令嬢が施したというのか?
「どうして……」
乾いた喉から、小さな疑問が漏れた。
彼は私を断罪しに来たのではなかったのか。
私が被っていた「悪女」の皮を剥ぎ取りに来たはずなのに、彼が剥ぎ取ったのは「私には味方がいない」という絶望の方だった。
床に額をつけたままの騎士の背中が、震える私を守る岩のように見えた。
けれど、この想定外の展開は、私を更なる混乱の渦へと引きずり込んでいく。
「こ、これは何かの間違いですわ! レオン様!」
アリスが悲鳴のような声を上げた。
その叫びが、凍りついた時間を再び動かす合図となる。
私は足元の石畳を見つめながら、目眩にも似た感覚に襲われていた。
たった一人の騎士の行動が、私の破滅のシナリオに、あり得ないひび割れを入れたのだ。




