第12話 喝采のバルコニーと白木の杖
契約書に走らせたペン先の震えは、数日経った今も指先に幽霊のように残っていた。
鏡の中に映るのは、見知らぬ少女だった。
純白のシルクに金糸の刺繍が施されたドレス。
髪は丁寧に編み上げられ、王家の紋章が入った髪飾りが煌めいている。
かつて「悪役令嬢」として身に纏っていた派手な深紅のドレスとは対照的な、清廉潔白を具現化したような装い。
これが、新生シェリル・バーミリオン。
王太子レオン様がプロデュースした、国の救世主「聖女」の完成形だ。
「……息が詰まりそう」
私は胸元を抑え、小さく漏らした。
コルセットの締め付けのせいだけではない。
窓の外から聞こえてくる、地響きのような音が私の肺を圧迫していたのだ。
王城前広場を埋め尽くす、数万の民衆のざわめき。
彼らは皆、新しい聖女の顔を一目見ようと集まっている。
(逃げたい)
本音が喉まで出かかる。
断罪の場から逃げ延びたと思ったら、今度はもっと巨大な「期待」という断頭台に立たされるなんて。
「準備はいいか」
ノックと共に現れたレオン様が、私の思考を遮断した。
今日の彼は、正装の軍服に身を包み、眩しいほどのオーラを放っている。
その左手には、まだあの黒い革手袋がはめられていた。
呪いは抑え込んでいるものの、完治には至っていない証だ。
「……正直、足が震えて動きません」
「正直でよろしい」
レオン様は苦笑し、私の前まで歩み寄ると、その左手を差し出した。
「だが、心配はいらない。君はただ、笑って手を振っていればいい。あとは私が支える」
「殿下が転んだら、二人とも笑い者ですね」
「ククッ、その減らず口があれば大丈夫だ」
軽口を叩き合いながら、私は彼の手袋に覆われた手に自分の手を重ねた。
革の冷たい感触。
けれど、その下にある体温と、共有した秘密の重みが、不思議と私の震えを止めてくれた。
控え室を出て、長い回廊を進む。
バルコニーへと続く大きな扉の前には、近衛騎士たちが整列していた。
その中には、あのガレス副団長の姿もある。
彼は私を見ると、無言で胸に拳を当て、深く頭を下げた。
その瞳には、揺るぎない忠誠と信頼が宿っている。
(ああ、そうか)
私は彼を見て、ふと気づく。
あの断罪の日、私は「孤独」だった。
誰も味方がいないと思い込み、一人で虚勢を張って扇を握りしめていた。
でも今は違う。
隣には王太子がいて、背後には信頼できる騎士がいる。
そして扉の向こうには、私に救われたと言ってくれる人々がいる。
「開けろ」
レオン様の低い声が響く。
重厚な扉が、光を溢れさせながら左右に開かれた。
瞬間、世界が音に飲み込まれた。
「ワァァァァァァッ!!」
爆発的な歓声。
視界が白く染まるほどの陽光と、広場を埋め尽くす人々の波。
「聖女様!」「シェリル様万歳!」「ありがとう!」
数え切れないほどの声が、風に乗ってバルコニーまで押し寄せてくる。
私は一瞬、足が竦んで立ち止まりかけた。
けれど、腰に回されたレオン様の腕が、強く私を前へと押し出した。
「行こう。君の信者たちが待っている」
導かれるまま、手すりの前まで進む。
眼下に広がる光景に、私は息を呑んだ。
花束を振る子供。涙を流して拝む老人。肩車された少女。
その誰もが、私を見て笑顔を向けている。
敵意も、侮蔑も、そこには欠片もなかった。
「……こんなに」
喉が熱くなる。
私は生存戦略のために、ただ自分のスキルを磨いていただけだった。
誰かのためにとか、国のためにとか、そんな高尚な動機じゃなかった。
それなのに、私の小さなエゴが、これほど多くの人々の希望になっていたなんて。
私は震える手を上げ、ぎこちなく振ってみた。
それだけで、歓声がさらに一段階大きくなる。
その熱狂が、私の心に残っていた「悪役」としての最後の殻を溶かしていくようだった。
「これを受け取れ」
歓声の嵐の中で、レオン様が脇に控えていた従者から長い包みを受け取り、私に渡した。
白い布を解くと、現れたのは一本の杖だった。
白木で作られ、先端には淡く光る魔石が嵌め込まれている。
華美すぎず、けれど確かな魔力の増幅効果を感じる一級品。
「聖女の杖だ。……もう、扇で顔を隠す必要はない」
彼の言葉に、私はハッとして顔を上げた。
断罪の日、私は扇を盾にして世界を拒絶していた。
けれど今、私の手にあるのは、世界を癒やすための杖だ。
「……ありがとうございます」
杖を握る手に力を込める。
ずしりとした重み。それは、これから私が背負う「聖女」という看板の重さそのものだ。
逃げ出してスローライフを送る夢は、遠のいてしまったかもしれない。
でも、この場所も案外、悪くないかもしれない。
少なくとも、ここには私の居場所がある。
「シェリル」
レオン様が耳元で囁く。
歓声にかき消されないよう、唇が触れるほどの距離で。
「君はもう、一人ではない。……私も、君がいる限り倒れない」
彼の手袋越しの手が、私の杖を持つ手に重ねられる。
私は彼を見上げ、初めて心からの微笑みを返した。
契約とか生存戦略とか、そういう計算を抜きにして。
ただ、この共犯者と共に歩んでいく未来を受け入れた。
その時だった。
バルコニーの袖から、一人の伝令が血相を変えて走り込んでくるのが見えた。
彼はレオン様の側近に何かを耳打ちし、側近の顔色が一瞬で蒼白になる。
側近は躊躇いながらも、歓声の隙間を縫ってレオン様に近づいた。
「殿下、緊急の報告が……」
「後にしてくれ。今は式典中だ」
「し、しかし……北の国境砦より、早馬です」
風に乗って、その囁きが私の耳にも届いてしまった。
「……正体不明の『奇病』が発生。駐屯部隊が半壊状態とのことです」
「なんだと?」
レオン様の表情から、瞬時に笑顔が消え失せた。
その瞳に、為政者の鋭い光が戻る。
北の国境。奇病。
そして、レオン様の腕に残る呪い。
全てのキーワードが、不吉な星座のように私の脳内で繋がっていく。
バルコニーの下では、まだ民衆が熱狂的に私の名を叫んでいる。
光と喝采の絶頂。
けれど、その背後で、新たな闇の扉が音もなく開き始めていた。
私は握りしめた白木の杖を見つめる。
この杖が、ただの飾りで終わることはなさそうだ。
平穏な生活への憧れを飲み込み、私は覚悟を決めて前を向いた。
いつか本当の自由を手に入れるその日まで。
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