第11話 重厚な契約書と震えるペン先
指先に残る鉄格子の冷たい感触と、爆ぜた光の熱が、まだ皮膚の裏側に焼き付いていた。
目覚めたのは、あの豪奢な天蓋付きベッドの上だった。
窓から差し込む日差しが高い。昼近くまで眠ってしまったらしい。
体を起こすと、ずしりと重い疲労感が全身を襲った。魔力欠乏特有の倦怠感だ。
昨夜、地下牢でアリスを浄化し、へたり込んだ後の記憶が曖昧だ。
確か、ガレス様が私をお姫様抱っこして(思い出すだけで顔から火が出そう)、ここまで運んでくれたのだと思う。
「……お目覚めですか、シェリル様」
控えていた侍女が、濡れタオルと水差しを持って近づいてくる。
その眼差しが、昨日までとは明らかに違っていた。
これまでは「丁重なお客様」を見る目だったが、今はまるで「崇高な神像」を見るような、畏敬と熱狂を含んだ目になっている。
「あ、あの……昨日のことは……」
「もちろんです! 城中で持ちきりですよ。邪悪な呪いを一撃で払われたとか!」
侍女の声が弾む。
噂が広まるのが早すぎる。しかも尾ひれがついているに違いない。
私は水を受け取り、渇いた喉を潤しながら溜息をついた。
もう、「ただの公爵令嬢」に戻る道は完全に断たれたのだ。
身支度を整え終えた頃、ノックと共に近衛兵が現れた。
レオン王太子からの呼び出しだ。
「こちらへ」
案内されたのは、離宮ではなく、王城の本丸にある王太子の執務室だった。
長い回廊を歩く間、すれ違う文官や騎士たちが、一斉に足を止めて最敬礼をする。
その背中に感じる視線の重さに、私は胃が痛くなるのを堪えて歩いた。
重厚な黒檀の扉が開かれる。
広い執務室の中央、書類の山に囲まれたデスクの向こうに、レオン様がいた。
彼は私を見ると、ペンを置いて立ち上がった。
「体調はどうだ、シェリル」
「おかげさまで。……あの、アリス様は?」
私が真っ先に尋ねると、レオン様は少しだけ目を丸くし、それから微かに口角を上げた。
「君という人は……自分の立場より、かつての敵の心配か」
「敵ではありません。患者です」
私がきっぱり答えると、彼は満足そうに頷いた。
「アリスは王城内の療養室にいる。意識は戻った。……泣きながら、君への謝罪を繰り返しているよ。『自分の中に黒い声が響いて、逆らえなかった』と」
「そうですか……よかった」
胸のつかえが取れる。
彼女が正気に戻ったのなら、冤罪を晴らす手間も省けるし、何より後味の悪さが消える。
「だが、問題は解決していない」
レオン様の声が低くなる。
彼はデスクを回り込んで私の前まで来ると、一枚の書類を差し出した。
「アリスを操っていた『黒幕』は、まだこの城のどこかに、あるいは国のどこかに潜んでいる。私の腕に呪いをかけたのも同じ奴だ」
差し出された書類には、王家の紋章と、堅苦しい条文がびっしりと並んでいた。
タイトルは『聖女就任に関する契約書』。
「シェリル。君の力が必要だ」
レオン様が私の目を見据える。
その瞳には、夜の部屋で見せたような甘い色はなく、為政者としての冷徹な計算と、切実な願いが混在していた。
「君を公式に『聖女』として認定し、王家の庇護下に置く。衣食住、護衛、そして君の実家であるバーミリオン公爵家への支援も約束しよう」
破格の条件だ。
私が喉から手が出るほど欲しかった「生存の保証」が、そこには全て書かれている。
しかし、その対価として求められるものもまた、重い。
「その代わり、君の魔力と知識を、この国の浄化と……私の治療のために提供してほしい」
断ればどうなるか。
公爵家に戻されたところで、黒幕に狙われるのは確実だ。
私には護衛もいないし、力もない。
ここで彼の手を取るのが、最も合理的で、最も生存確率の高い選択肢だ。
分かっている。分かっているけれど。
「……これは、一生の契約ですか?」
震える声で尋ねると、レオン様は首を横に振った。
「いや。君が望むなら、期間を設けてもいい。……だが」
彼は一歩踏み出し、私の手を取った。
その手には、まだあの黒い革手袋がはめられている。
「私は、君を一生手放すつもりはない」
耳元で囁かれた言葉に、心臓が跳ねる。
これは契約交渉の席だ。色恋の場ではない。
そう自分に言い聞かせても、頬が熱くなるのを止められない。
彼の執着は、政治的な利用価値への執着なのか、それとも……。
どちらにせよ、今の私には彼を拒む術も、理由もなかった。
「……分かりました」
私は覚悟を決めて、デスクの上のペン立てに手を伸ばした。
銀細工の施された、高価な万年筆。
指先に触れる金属の冷たさが、現実の重みを伝えてくる。
私は契約書をデスクに広げ、署名欄を見つめた。
ここに名前を書けば、私は「悪役令嬢シェリル」を捨て、「聖女シェリル」として生きることになる。
それは、穏やかなスローライフとは程遠い、陰謀と激務の日々の始まりかもしれない。
それでも。
(一人で震えて死ぬよりは、マシね)
私はキャップを外し、インクの匂いを吸い込んだ。
ペン先を紙に走らせる。
『Sheryl Vermilion』。
書き終えた文字は、少しだけ震えていたけれど、インクが滲むことはなかった。
「……これで、よろしいですか」
ペンを置き、顔を上げる。
レオン様は契約書を確認すると、それを大切そうに懐へと仕舞った。
そして、私の手を取り、その甲に恭しく口づけを落とした。
「ああ。……契約成立だ、私の聖女」
唇の感触に、背筋がゾクリとする。
王太子の恭順。それは最大の敬意であり、同時に私を「自分のもの」とした所有の証でもある。
執務室の窓から、城下の街並みが見えた。
あそこには、まだ私の力を必要とする人々がいるかもしれない。
そして、その影には、私を狙う黒い悪意も潜んでいる。
私は彼の手を握り返した。
強く、確かめるように。
この手だけは、絶対に離さないと決めたように。
それが、これからの私の、新しい生存戦略だった。
「では、早速仕事だ」
レオン様がニヤリと笑う。
その笑顔は、昨夜の弱々しいものではなく、頼もしくも意地悪な王太子の顔に戻っていた。
「明日はお披露目式だ。ドレスの採寸があるぞ」
「……へ?」
私の間抜けな声が、広い執務室に響いた。
お披露目式?
聞いてない。そんな心の準備もできていない。
私の小さな決意は、早速王太子のペースに巻き込まれ、あえなく霧散しそうになっていた。




