第10話 冷たい鉄格子と浄化の光
ガレス副団長の広い背中を追いかけて走った夜の庭園の湿り気は、地下へ降りるにつれてカビと錆の匂いへと変わっていった。
石造りの螺旋階段を駆け下りる足音が、冷たい壁に反響して不気味に増幅される。
地下牢。
本来なら、断罪された私が放り込まれるはずだった場所。
そこへ自ら飛び込んでいく皮肉を感じる余裕すら、今の私にはなかった。
「……静かすぎる」
先頭を行くガレス様が足を止めずに呟く。
地下牢の入り口には見張りの衛兵がいるはずだ。
それがいない。
角を曲がると、その理由が判明した。
二人の衛兵が、通路の石畳に倒れ伏していたのだ。
外傷はない。けれど、ピクリとも動かない。
ガレス様が素早く屈み込み、脈を確認する。
「生きている。だが、深い昏睡状態だ」
「眠らされている……?」
私は倒れた衛兵の顔色を覗き込む。
青白い顔。そして、鼻孔から僅かに漂う、あのドス黒い魔力の残り香。
間違いない。
ここを「何か」が通ったのだ。
「急ぎましょう。アリス様が危ない」
私はショールを握り直し、昏倒した衛兵の脇をすり抜けて奥へと走った。
ガレス様が「シェリル様、お下がりを!」と叫んで追いかけてくるが、私の足は止まらなかった。
奥から漂ってくる気配が、急速に濃度を増していたからだ。
最深部の独房。
かつて王族や高位貴族を幽閉するために作られた、特に堅牢な檻。
その前で、私は息を呑んで立ち止まった。
「……あ、あぁ……ごめんなさい……」
闇の中から、少女の嗚咽が漏れ聞こえてくる。
松明の明かりが届かない格子の向こう。
アリスが、冷たい床にうずくまっていた。
しかし、異常なのは彼女の様子ではない。
彼女を取り巻く空気だ。
黒い靄のようなものが、蛇のように彼女の体に巻き付き、締め上げている。
アリスの美しい金髪は生気を失って灰色にくすみ、瞳は虚ろに開かれたまま、何もない虚空を見つめていた。
「失敗しました……申し訳ありません……次は、次はうまくやりますから……」
彼女は誰かに謝り続けている。
その言葉の端々に滲むのは、断罪劇で見せたような傲慢さではなく、純粋な恐怖だ。
まるで、見えない鞭で打たれている子供のように。
(これが、ヒロインの正体?)
私は鉄格子に駆け寄り、その冷たい金属の棒を両手で強く握りしめた。
指先から芯まで凍えるような冷気が伝わってくる。
この鉄格子は、物理的に人を閉じ込めるだけじゃない。魔力を阻害する結界素材が含まれている。
だからアリスは逃げられないし、中の異変も外には漏れにくい。
「アリス、聞こえる!? 私よ、シェリルよ!」
私が名を呼ぶと、虚ろな瞳がゆっくりとこちらを向いた。
けれど、そこに焦点は合っていない。
「……シェリル? ああ、邪魔な女……消さなきゃ……あの方のために……」
彼女がゆらりと立ち上がる。
その動きは糸で吊られた人形のように不自然で、関節があり得ない角度で軋んだ。
黒い靄が彼女の背後で鎌首をもたげ、私に向かって威嚇するように膨れ上がる。
「離れろ、シェリル様!」
追いついたガレス様が私を背後に庇い、剣を構える。
だが、剣で斬れる相手ではないことは、彼自身が一番よく分かっているはずだ。
「いいえ、ガレス様。下がってください」
私は彼の腕の下をくぐり抜け、再び鉄格子にへばりついた。
錆びついた鉄の味が、口の中にするような錯覚を覚える。
怖い。正直、足が震えて立っているのがやっとだ。
でも、ここには私しかいない。
この「汚れ」を洗い流せるのは、回復魔法という名の洗濯機だけだ。
「アリス、痛かったわよね」
私は震える声で語りかける。
彼女が私にしたことは許せない。冤罪をかけ、死刑台に送ろうとした事実は消えない。
でも、今の彼女は加害者である前に、この黒い寄生虫の被害者だ。
患者を見捨てる医者はいない。
それが、私がこの世界で生き残るために選んだ「聖女」としてのスタンスだ。
「今、楽にしてあげる」
私は鉄格子を握る手に、ありったけの魔力を込めた。
阻害結界がバチバチと火花を散らし、私の掌を灼く。
構うものか。
私はその抵抗をねじ伏せ、格子の隙間から光の奔流を流し込んだ。
『浄化』。
私が使う魔法の中で、最も魔力消費が激しいスキル。
単に傷を治すのではなく、対象に付着した異物や呪詛を、根こそぎ剥ぎ取って消滅させる。
イメージするのは、頑固な泥汚れを高圧洗浄機で吹き飛ばす映像だ。
「ギャアアアアアッ!」
アリスではなく、黒い靄が悲鳴を上げた。
耳をつんざくような不協和音が地下牢に響き渡る。
光の波が独房の中を満たし、闇を隅々まで焼き尽くしていく。
「あ、ぐぅ……熱い、熱いぃ!」
アリスが頭を抱えてのたうち回る。
私は歯を食いしばり、出力を上げた。
ここで止めたら、中途半端に残った呪いが彼女の精神を食い破る。
やるなら徹底的にだ。
「出て行きなさい! ここは貴方の居場所じゃない!」
私の叫びと共に、手の中でパキンと何かが砕ける音がした。
鉄格子の一部か、それとも呪いの核か。
閃光が爆ぜ、視界が真っ白に染まる。
やがて、光が収束していくと、そこには静寂だけが残った。
黒い靄は跡形もなく消え失せている。
冷たい石床の上、アリスが糸の切れた人形のように倒れていた。
その髪には、本来の輝きが戻っている。
「……はぁ、はぁ……」
私は鉄格子に寄りかかり、ずるずるとその場にへたり込んだ。
魔力の使いすぎで、指先が痺れて感覚がない。
膝が笑って力が入らない。
「シェリル様!」
ガレス様が慌てて私を支え起こしてくれる。
私は彼の腕の中で、荒い息を整えながら、檻の中の少女を見つめた。
彼女の肩が、小さく上下している。
生きている。
そして、その寝顔は憑き物が落ちたように穏やかだった。
「……終わった、みたいですね」
安堵と共に、重い疲労感がのしかかる。
これでアリスの洗脳は解けたはずだ。
彼女が目覚めれば、きっと「あの方」――黒幕についての情報が得られるだろう。
それは同時に、私がこの王国の闇にもっと深く関わることを意味していた。
ガレス様が懐から鍵を取り出し、独房の扉を開ける。
ガチャリ、と重い音が響く。
その音は、アリスの解放の音であり、私が「引き返せない場所」へ踏み込んだ合図でもあった。
私は痺れる手で自分のショールを握りしめ、まだ微かに震えるアリスの背中を見つめた。
助けてしまった。
もう、彼女を「敵」として切り捨てることはできない。
この冷たい鉄格子の向こう側で、私はまた一つ、背負わなくてもいい荷物を背負ってしまったのだ。
「……帰ったら、温かいお茶が飲みたいです」
私の小さな独り言に、ガレス様は「ええ、最高の一杯をご用意させましょう」と、どこか誇らしげに答えた。
その声に支えられながら、私はゆっくりと立ち上がった。
まだ夜は明けていない。
けれど、地下牢の空気は、先ほどまでとは違って少しだけ澄んでいる気がした。




