第1話 断罪の羊皮紙と震える扇
「……シェリル・バーミリオン。前へ」
その冷徹な声が響いた瞬間、華やかな円舞曲は不協和音を立てて断ち切られた。
王立学園の大講堂を満たしていた数百の談笑が、まるで潮が引くように静まり返る。
私は握りしめていた扇の柄に、じっとりと冷や汗が滲むのを感じた。
前世の記憶が正しければ、これは私の処刑宣告だ。
煌びやかなシャンデリアも、並べられた豪華な料理も、今この瞬間から「最後の晩餐」の飾りにしか見えなくなる。
私は深く息を吸い込み、肺の奥底に溜まった恐怖を押し込めた。
ドレスの裾を踏まないよう、慎重に一歩を踏み出す。
踵を鳴らして進む深紅の絨毯は、演壇という名の断罪台へと真っ直ぐ伸びていた。
「……お呼びでしょうか、レオン様」
壇上に立つこの国の第一王太子、レオン・アークライトを見上げる。
その隣には、私の婚約者だったはずの彼にぴったりと寄り添う少女、アリスがいた。
薄ピンクのドレスを纏い、怯えたようにレオンの腕にしがみつく姿は、まさに物語のヒロインそのものだ。
彼女の背後に潜む「シナリオ」の強制力を肌で感じながら、私は扇を開いて口元を隠した。
そうでもしなければ、唇が震えて歯の根が合わない音を立ててしまいそうだったからだ。
「とぼけないでください、シェリル様!」
アリスが一歩前に進み出る。その高い声が、静寂な広間に甲高く響いた。
「あなたが裏で行ってきた数々の悪事、もう隠し通せると思わないことですわ。わたくし、ずっと我慢してきました……でも、もう限界です!」
アリスの瞳には涙が溜まっている。完璧な演技だ。
あるいは、彼女の中ではそれが真実として処理されているのかもしれない。
「学園内でのいじめ、わたくしの教科書への落書き、階段からの突き落とし……そして何より、闇魔法を用いた禁忌の呪い! これだけの証拠が揃っているのです!」
彼女は芝居がかった手つきで、一束の羊皮紙を懐から取り出した。
インクの染みがついた古びた紙束。
あの中には、私の身に覚えのない罪状がびっしりと書き連ねられているのだろう。
アリスは勝ち誇った顔で、その羊皮紙を私の目の前に突きつけた。
「さあ、これをご覧になって弁明なさい!」
鼻先に迫る羊皮紙の縁が、微かに揺れている。
それを受け取ろうと手を伸ばしかけて、私は寸前で動きを止めた。
いま、指先を見せてはならない。
恐怖で小刻みに震えている指を見られれば、それは「罪の意識による動揺」と解釈される。
悪役令嬢としての矜持以前に、生存本能が私の右手を硬直させていた。
私はゆっくりと、扇を閉じる。
その硬質な先端で、突きつけられた羊皮紙を軽く弾いた。
パシッ、と乾いた音が広間に木霊する。
「……汚らわしいですわね」
口から出たのは、自分でも驚くほど冷たい声だった。
内心では心臓が早鐘を打っているのに、生き残るために被り続けてきた「悪女の仮面」は、こんな時ほど優秀に機能する。
「わたくしに触れさせたいのなら、もう少しマシな紙を用意なさい」
アリスが呆気にとられたように口を開き、羊皮紙を取り落としそうになる。
隣に立つレオン王太子が、片眉を上げて私を凝視したのが視界の端に見えた。
その視線は氷のように冷たく、私の全身を射抜くようだ。
(ああ、これで決定打だ)
王族の前での不敬。証拠の拒絶。
私の行動はすべて「断罪」への特急券にしかならない。
けれど、認めてしまえば即座に地下牢行き、そして一週間後には断頭台だ。
それだけは避けなければならない。
私は扇を再び開き、顔の半分を覆い隠す。
視線だけを巡らせて、広い会場を見渡した。
壁際に並ぶ近衛騎士たち。給仕の手を止めている使用人たち。そして、遠巻きに見ている貴族の生徒たち。
彼らの視線が、一斉に私へと注がれている。
誰も助け舟を出そうとはしない。
この広い空間に、私の味方は一人もいないのだ。
私が夜な夜な、正体を隠して路地裏や騎士団の詰め所で傷ついた人々を治癒して回ったとしても、それは「謎のフードの女」としての行い。
公爵令嬢シェリル・バーミリオンは、ただの高慢で孤独な悪女でしかない。
逃げ道は、どこにある?
東側の通用口は衛兵が固めている。
西側のテラスへ抜ける窓は閉ざされている。
正面突破は論外だ。
アリスが再び気を取り直し、叫ぶように告げた。
「この期に及んでその態度……! レオン様、彼女にはもっと決定的な証人が必要です!」
証人。
その言葉に、私の胃の腑が冷たく縮み上がる。
買収された嘘の証言者が現れれば、もう言い逃れはできない。
私は扇を持つ手に力を込めすぎて、骨が軋む音を聞いた。
この完璧な包囲網から、一体どうやって逃げ出せばいいの?




