第8話 空の調律師と空の竜
シオンが目を覚ました時、彼がいたのは泊まっている飛行船の客室ではなかった。
目の前には雲一つない青空がどこまでも広がっていて、照りつける太陽が眩しい。まるで空に体を放り出されたみたいだけれど、靴底にはしっかりとした地面を踏みしめる感触がある。
かといって、ではシオンが立っているのが大地なのかというと、違う。足元に広がるのは一面の海。
空の世界に来てからはまったく見る機会のない海原の真ん中に、シオンは立っていた。ふと自分の格好を見下ろしてみると、寝巻ではなくいつもの旅装だった。
夢というには意識も感覚もくっきりとしているが、現実と思うには周囲の景色は非現実的。そして、シオンには心当たりのある場所だった。
「……久しぶりだな、呼び出しは」
十八年のあいだでシオンが過去にこの場所を訪れたのは二度だけ。今夜は三度目の誘い。
ぴちゃり、と、水の跳ねる音が近づいてくる。振り返ると、目の前に一人の少年の姿があった。
枯れ草色のマントで全身をすっぽりと覆った、どこか浮世離れした雰囲気の少年だ。
背格好はシオンよりも頭半分ほど小さく、その肢体は華奢。フードからこぼれ出ている髪は青空を思わせる蒼穹で、一本の三つ編みにまとめられ、肩の辺りで垂れ下がっている。金色の大きな瞳にはまぶたがなく、爬虫類みたいだ。
一見すると人のようだけれど、外套の合わせ目から覗く首元には髪色と同じ鱗があり、足元に視線を落とせばとかげのような長い尻尾がひらひらと揺れていた。
「……空の竜」
久しぶりにその名を呼ぶと、神の一柱として伝えられる存在――空の竜はにこやかに笑む。
「ボクの世界へようこそ、シオン。久方ぶりに話し相手ができて嬉しいよ」
「あなたと話すと疲れるから、僕は嬉しくないよ」
シオンはこの神さまを名乗る竜のことが大嫌いだった。だから最大限の嫌悪をこめた台詞を放ったのだけれど、相手は特に気分を害した様子もない。
「ひどいなあ、シオン。ボクは神さまなんだよ? もっと敬意を持って接してくれないと」
「……敬意を持てないのは誰のせいだと思っているんだい?」
「うーん、ボクのせい? ボクのせいかなあ? でも、ボクは悪くないと思うよ。恨むべきはボクじゃなくてスタンフォードの血そのものだろうね。でもボクの国のみんなは、キミの血が羨ましくて仕方ないと思うけどね。レンハイムと唯一並ぶ、帝国の至高の血族なんだからさ」
シオンの父も祖父も曽祖父も。スタンフォードの血を濃く継ぐものは、帝国である役目を担っていた。
終末の書を編曲し、より強力な術へと改良する。それがシオンの生まれついての役割。
それゆえにスタンフォードの直系はみな作曲の才に恵まれ、次代の役目の担い手が生まれると共にその力は失われる。
帝国の要人はみなシオンの調律師としての才能を讃えてくれたし、マリステラでもそれは変わらなかった。
しかし、シオンの才は空の竜から血統を理由に与えられたもの。才能を努力で磨いてきた他の調律師と比べて、シオンが誇れるものなど何もなかった。
「僕は、誰かに代わって欲しいくらいだけどね……」
「シオンは潔癖だよねぇ。確かに、より強力な終末の書を生み出すためにスタンフォードの直系はみな調律の才に秀でている。でも、長い歴史の中で創造の書を完成させたのはキミが初めてなんだよ? キミは間違いなく稀有なる天才だ。これに関してはボクが与えたものじゃなくてシオン自身の才能なんだから、誇るといい」
「…………嬉しくないよ、空の竜」
シオンが小さく吐き捨てると、竜はせっかくボクが褒めてあげてるのに、とぼやく。それも、不満げだったのは少しのあいだだけ。またすぐに晴れやかな笑みを浮かべる。
「ああ、そうそう。昨夜は面白い会話をしていたね。ボクの国が空の世界を滅ぼす……とかなんとか」
なぜその話を知っているのか、なんて訊いても無駄だ。空の竜はどうせ神さまはなんでもお見通しなのさ、とか適当なことを宣うだけ。
「真理の調律師の考えは当たっているのかい?」
「さあ、どうかなあ? 当たるかもしれないし、ただの邪推で終わるかもね」
未来に関わることをこの竜が教えてくれることはない。知っているのか本当に知らないのか、どちらなのかはよくわからない。
「幻妖種が強力になっているのは事実だろう?」
「それはもちろん、人類の繁栄は大罪なんだよ? 人の世が発展すればするほど、幻妖種もまた活発になる。当然の帰結さ」
幻妖種がどこでどうやって生まれるのか。それはオルラントに住まうものならば誰もが一度は疑問に思うこと。しかし、その答えを知る人間は存在しない。
尋ねたところではぐらかされるのはわかっていたので、シオンは嘆息を返す。
「……本当、意地が悪いよね」
「そうでもないよ。神が人の滅びを望んでいるなら、ボクを遣わしたりしない。ボクがいるからこそ、この世界の均衡は保たれているんだからね」
にこにこと笑んだ竜は、ただ、と付け加えた。
「均衡といえば、この先の神曲聖歌の扱いには気をつけないとね」
シオンは眉をひそめる。
神曲聖歌は人の身で歌うことは不可能だ。第一階位の聖歌が歌える聖術師であったとしても、エーテル濃度が高すぎて歌い終わる以前に命がもたない。また、感情を持たない機械人形も同様だ。人ではない機械が神曲聖歌を奏でることを、神は許してはいない。
歌い手がいなければ神曲聖歌といえどもただの楽譜。宝の持ち腐れだ。
ただし、この規定には一つ抜け道がある。
神曲聖歌にはそれぞれ力の源となる神竜がいる。神竜から加護を得た人間は、耐性に関係なく竜の力に呼応した楽譜を歌うことができるのだ。
「神は自らに近づきすぎた人間に容赦をしない。加護も持たない人の身で神曲聖歌を歌おうとすれば、ろくなことにはならないだろうね」
「……どうなるんだい?」
「さあ? 大陸一つがなくなっても不思議じゃないよね」
あっけらかんとした口調で、空の竜は晴れやかな笑みと共にそう言った。
均衡がどうのと言いつつもこれなのだから、この神さまが本気で世界を想っているようには見えない。
「それなら、ヴェルスーズで神曲聖歌が見つかったとして。僕が保身のために楽譜を誰かに譲った場合、七神竜はその相手に加護を与えることはある?」
「さあ? 加護についてはそれぞれの竜の意志次第だから。ボクが口を出せることじゃないよ?」
「……原初の竜の別名が泣くね」
「そうは言ってもねえ。ボクらは美しい歌声には敵わないからね。心を震わせる歌い手には加護の一つだって与えたくなる。キミの大事な神に愛されし子みたいに」
からかうような視線を無視して、シオンはため息を吐く。それから苛立ちを抑えるために話題を変えた。
「ヴェルスーズの神曲聖歌については教えてくれないのかい? その話をするために僕を呼んだんじゃ?」
神曲聖歌を集めることはシオンの望みであると同時に、空の竜の願いでもあるのだ。
「んー? ああ、違う違う。ボクがキミを招いたのは最後の確認をするためだよ。ヴェルスーズの魂の竜について教えることは何もない。キミが思うままに行動すれば、神曲聖歌はおのずと姿を見せるさ」
九百年以上もの長きに渡って謎に包まれている楽譜を探すという大役に反して、適当な話だ。
「それだけかい? せめて魂の竜にどんな力があるのかくらいは教えて欲しいな」
創世記にも肝心なことは何も記されていないから、これから先の旅はすべてが手探り状態なのだ。
「神の力をみだりに口に出すのは憚られちゃうからなあ。でも、そうだな。キミたちが襲われたあの幻竜のことは忘れちゃいけないね。アレはどこから来たと思う? そして、その目的は何だったのかな?」
「どうせヒントをくれるのならもっとわかりやすく教えて欲しいな」
「ええー? ワガママだなあ、シオンは。じゃあ特別だよ? 大ヒントをあげる。幻竜はとても知能が高い幻妖種だよ。その行動には、きちんと意味がある」
昼間の戦闘を思い返し、シオンは眉根を寄せる。
幻妖種の本能に刷り込まれているのは人への殺意だと伝えられている。あの幻竜は飛行船にいる多くの乗客を襲うことよりも、シオン個人を排除することを優先させた。頭がいいようには思えない。
「ああ、それと、もう一つサービスしてあげるよ。空の解放軍とやらには気をつけるといい」
「知ってるのかい?」
「ボクはキミと違って世俗にも敏感だもの」
空の竜は得意げに胸を張って主張する。
この竜がわざわざ忠告してくるということは、厄介な何かがあるのだ。
「はは、不安そうだね。どうする? 今ならまだ引き返すこともできるよ? ヴェルスーズに着いてしまったら、間違いなく神曲聖歌は目覚める。九百年以上ものあいだずっと待っていたんだ。創造の書を完成させる調律師が誕生するのを」
空の竜は挑戦的な笑みを浮かべて見つめてくる。シオンに選択を促しているような台詞だけれど、彼はとっくに逃げ道を塞いでいるのだ。
幼馴染である少女の笑顔を脳裏に描いたシオンは――だから、頷く。
「……わかっているよ、空の竜。必ず役目は果たすから。その代わり、神曲聖歌を完成させることができたら――約束通り、くだらない呪縛から彼女を解放してもらうよ」
まっすぐ金色の瞳を見つめ返すと、帝国を見守ると伝えられている神さまは期待しているよ、とだけ呟いた。




