第2話 幻竜の襲撃
思わぬ大物の出現に、シオンは自然と息を呑んだ。
「おいおい、ありゃあ並の幻妖種じゃねえぞ。幻竜だ。なんであんなバケモンがこの界域にいやがるんだっ?」
手すりから身を乗り出した男の声には、強い緊張がにじんでいた。
境界面の高度まで飛行可能な幻妖種というのは、個体が限られている。幻竜はその中でも遭遇したならばその日航界に出た者は運が悪かったと命を諦めるべき、ばけもの級。
界面で襲われていた帝国の飛空挺は、為す術なく撃墜されたに違いない。
【此に捧げるは焔の書。賢人たるアナティウムが創りし調べの唄】
飛行船の外装に取り付けられた拡声器から、抑揚のない無機質な女の声が流れてきた。
それは、聖歌と呼ばれる奇跡を紡ぐ魔法の歌。歌い手は人間ではない。この飛行船に積まれている機械人形だ。
聖術がまだ人の身では扱いきれない代物だった頃。聖歌を奏でるためだけに開発された機械が自立型歌唱人形だ。機械であれば、エーテルの害を受けることはないからだ。
幻妖種に対抗するための兵器として発展した機械人形技術は機械工学で成り立つ帝国では特に重宝されている。
歌が終わると術が完成し、空に火球が生まれ、それは幻竜に向かって放たれた。
――並の幻妖種ならば十分な威嚇になるのだが。
幻竜は翼を器用に羽ばたかせて滑空すると、炎の弾丸をことごとくかわしていく。さらにいくつかの火球が生成され再び幻竜を襲うが、黒竜は空の海を泳いで悠然と回避した。
いつのまにか幻竜に照準を合わせていたらしい男が、銃の引き金を引く。放たれた銃弾は一直線に竜の肩を捉え、着弾するとたちまちその巨体が炎に包まれた。
一瞬の制止をついた攻撃は見事だったが――。
「おいおい、冗談じゃねぇぞ」
炎がかき消え、姿を現した幻竜の鱗に傷はなく、表面がかすかに焦げているだけだ。
術者の才能にもよるが、歌という工程を省いているがために、刻印を用いた聖術は聖歌と比べて術の威力が格段に落ちる。強靭な鱗で守られたあの幻妖種にダメージを与えるには至らなかったようだ。
鉄の塊に意識を向けていた幻妖種が、そこで初めて甲板の一点に意識を向けた。凶暴な瞳がぎろりと男を睨み据える。
船内からは、悲鳴が聞こえてくる。船室の乗客たちはいつ死んでもおかしくないこの状況に、恐慌状態へ陥っているに違いない。
このまま体当たりでもされたら、飛行船は空の海に沈むのみ。
一連の攻防を息を詰めて見守っていたシオンは、右耳に着けているピアスにそっと指を這わせた。
透明感のある青い水晶を加工して金の台座に据えたそれは一見ただの装飾品に見えるけれど、帝国の機械技術の粋が注ぎ込まれた小型の通信機械。対になるピアスを持つ相手と遠距離での会話が可能になり――この場合のシオンの通話相手は、ルクレティアだ。
「ティア、通信機のスイッチを入れておいてくれるかな」
「シオン?」
驚いたようにこちらを見返してくる藍の瞳に頷いてみせ、シオンは剣を抜いた。両刃の片手剣の刀身には、男の銃と同じく聖術刻印が刻まれている。
シオンはいまだ放心状態の男に声を掛けた。
「幻竜が近づいてきたら、ギリギリの距離で銃を一発だけ撃ち込んでください。その後は僕が引き受けます」
「はあ? なにバカなこと言ってやがる! さっきの見てなかったのか? あんなばけもの、出会った時点で詰んでるんだよ!」
すでに死を覚悟しているらしい男の態度はいっそ潔いかもしれない。しかし、シオンはこんなところで死にたくはなかったし、死ぬつもりもなかった。
だから、頭一つ分ほど上にある男の目を見上げ、決然と告げる。
「聖術師なら、弱音を吐く前に最後まで生き残る努力をするべきでしょう」
せっかく他人にはない才能を持って生まれたのに、早々に命を諦めるだなんて。
シオンの言葉に、男はその顔を怒りで染めた。
「小賢しいことを言うがな。俺の攻撃は効かねえし、この船の機械人形に組み込まれてる術式は当たらねえ。どうしろってんだ!? 本気でそんな小枝みてえな剣でどうにかなるとでも思ってんのかっ?」
怒号に怯むことなく、シオンは目線でルクレティアを示す。
「彼女は聖歌を扱える聖術師です」
事実は異なった。だが、それをこの男に語る必要はない。シオンの紹介に驚いたように目を見開く男に、素早く続ける。
「それから、僕は調律師です。幻竜に対抗できる楽譜は持っています。戦術次第では退けることは十分できます」
勢いを失くした男に、畳み掛ける。
「彼女が聖歌を歌うあいだ、幻竜は僕が足止めします。銃を撃ったらあなたは操縦室に行って飛行船が離れすぎないように指示を――」
「シオン! 幻竜がっ!!」
ルクレティアの叫びに、シオンは上空を見上げた。太陽を背にした幻竜が翼を畳み、甲板めがけて急下降してくるところだった。
まだ説明の途中だったけれど最低限言いたいことは伝わったはずで、シオンは手すりに飛び乗った。
幻竜の体がみるみる迫り、烈風に振り落とされそうになる。片膝をついて手すりを掴み、体を支えることでなんとか耐える。
竜の腕が振り上がり、その爪が船体に叩きつけられる直前に、シオンは叫んだ。
「今だ! 撃って!!」
火線が竜の顔面を正確に捉え、炎をまともに喰らった竜はたじろぎ、その巨体がふらりと揺れる。反射の行動か、体勢を整えようと竜の翼が羽ばたいた。豪風に、船体は激しく揺れる。
「ティア、足場をお願いッ!」
振り返ることもせずに叫んだシオンは、勢いよく手すりを蹴り、空の海へと身体を投げ出した。




