第1話 空を旅する青年と少女
「落ちないように気を付けてよ? ティア」
手すりから身を乗り出し、眼下に広がる光景に夢中な少女に向けて。青年――シオン・スタンフォードは、航界が始まってから何度目になるかわからない小言を口にした。
すっと伸びた肢体は男性にしてはやや細い。澄んだ瞳は穏やかな翡翠色。風になびく蜂蜜色の髪が被さった顔立ちは中性的で、柔和な印象を与えるだろう。
印象そのままの柔らかな声音で発せられた小言に、少女が長い銀髪をひるがえして振り返る。
「もう、シオンったら。甲板に出るたびに注意しなくても大丈夫よ? ちゃんと気を付けているわ」
十八歳のシオンより三つか四つほど年下に見える少女――ルクレティアは、愛らしい顔にちょっとだけ不機嫌な色を浮かべた。
繊細な睫毛に守られた大きな瞳は、空と同じ藍色。透けるような肌は白を基調としたクローク状の外套に包まれている。鈴の鳴るような綺麗な声も含めて可憐、という形容がぴたりと嵌まる――そんな子だ。
不満顔のルクレティアに、シオンは厳しい表情になる。
「そんなこと言って、昨日空の海に落ちかけたばかりじゃないか。その時だって、僕は事前に気を付けてって注意したはずだよ?」
「あれはだって、初めて見る珍しい鳥がいたんだもの……」
しょんぼりと肩を落とすルクレティアに絆されてしまわないように、シオンは厳しい顔を貫く。
彼女が鳥に目を奪われ、足を滑らせて飛行船から落ちかけたのはつい昨日のこと。また同じことを繰り返されてはシオンの心臓が保たないので、もう少し危機感を持ってもらいたいのだ。
首をすくめたルクレティアは視線をうろうろとさまよわせ、
「うぅ……。えぇと……あ、そうだわ。ねえシオン。本当なら空の上って空気が薄くてとても寒いのでしょう? どうして人間は平気でいられるの?」
強引な誤魔化し方だなあ、と苦笑したシオンは、これ以上責めるのは可哀想かもしれないと思い直す。窘めるのをやめて、彼女の隣に並ぶ。
ルクレティアと旅をするようになって一年半が経つけれど、好奇心旺盛な彼女の疑問はまだまだ尽きないみたいだ。
甲板から見下ろす世界は、一面が真っ白に染まっている。陽の光を孕んでキラキラと輝き、二万メートル下に広がる地上の景色を遮るそれは、一見するとただの雲。でも厳密には違う。
水蒸気ではなく万物の根源をなす元素――エーテルから構成された気体で、空の境界と呼ばれている。地上からは不可視の、二つの世界を隔てる境界線。
この世界――オルラントの空は、果てのない蒼穹と白銀の雲。そして無数の浮島と人々が生活を営む六つの大陸から成るのだ。
「空の境界の話は前にしたよね? 覚えているかい?」
「もちろん。空気中のエーテルが自然に状態変化してできていて、大陸を浮かせるだけのエネルギーを生み出しているのもこの雲なんでしょう?」
「正解。まあ、真実のところは誰にもわからないんだけどね。でも境界から上はエーテルの濃度が地上に比べてずっと高いから、下の常識が通用しないのは確かだね。風は穏やかだし気温も普通。空気も特別薄いわけじゃない」
エーテルを歌によって状態変化させ、無から有を生み出す万能の魔法――聖術によって成り立つ空の世界は、神秘と謎でできているのだ。
空で暮らす天上人は浮遊大陸の成り立ちも原理も気にしない。
大陸が空に浮遊しているのは当たり前のこと。九百年のあいだでエーテルをエネルギーに変換する夢幻機関の開発に成功し、文明も技術も発展してきた天上人はこの雲の下に大地が存在し、そこで暮らす地上人がいることも忘れていそうなくらい。人類が地上から追われた要因――幻妖種の脅威すらも、だ。
「命に関わる濃度ではないから普通の人は感じないと思うけど。空と地上でエーテル濃度がぜんぜん違うのは、ティアならよくわかるだろう?」
二人は地上に唯一残された国――アーランド帝国からやってきたので、双方の空気感をよく知っている。特にエーテルに対する感覚が優れているルクレティアならば、違いは明らかなはず。
そう思って尋ねたのだけれど。ルクレティアはじっ、と甲板の下を見つめていた。珍しく話を聞いていなさそうな彼女の様子に首をひねる前に、
「ねえ、シオン。見て、あそこ! 何か光っているわ」
ルクレティアが声を上げた。彼女が指差した方向。飛行船の遥か下。境界の界面で、眩い光がちかちかとしていた。
「あれって……聖術?」
シオンが眉をひそめたとき。甲高い警報音が、船内に響いた。
『乗客のみなさまにお知らせいたします。現在この船は一の大陸ヴェルスーズに向けて航界中ですが、界面において帝国の飛空挺が幻妖種と交戦中の模様。非常事態に備え、シートベルトをご着用ください。また、甲板におられますお客様は、速やかに船内へとお戻りください』
エンジンの駆動音に混じって、ざわめきが起こる。
帝国の飛空艇は空と地上を頻繁に行き来している。襲われているのは空の国々との貿易目的の機体か、航路確保の偵察隊か。
どちらにしろ境界面ほどの高度で幻妖種に襲われるなんて滅多にないので、かなり不運な事態だ。
同情するけれど、現状シオンにできることは何もない。
「だって、ティア。僕らも中に戻ろう?」
慌てて船内へと戻っていく乗客たちを視界の端に収めつつ、シオンはそう促した。
「でも、シオン……」
ルクレティアは物言いげにシオンと、それから彼が腰に佩いた剣を見やった。彼女が言わんとしていることはわかるのだけれど。シオンはなるべくなら目立ちたくはないのだ。
「おい、そこのガキども。さっきの警告が聞こえなかったのか?」
甲板に留まる二人に向けて、低く野太い男の声が掛かった。
「避難勧告が出ただろう。さっさと中に行け、邪魔だ」
追い払うように乱暴な言葉を投げてきたのは、三十ほどの大柄な男。日に焼けた浅黒い顔に、黒を基調とした旅装の上からでもわかる鍛え抜かれたぶ厚い肉体。背には銃身の長い黒銃が括りつけられている。
「あなたは避難しないの?」
粗野な物言いを気にした様子もみせずに、ルクレティアは不思議そうに首を傾げる。
男の銃に目を留めたシオンは、彼が答える前に確認した。
「もしかして、聖術師ですか?」
「へえ、よくわかったな。まあ、銃の刻印を見りゃ世間知らずのガキでも気づけるか」
男は自慢げに背に負っていた銃を胸の前で掲げてみせた。持ち手の部分には聖術刻印――月を囲む六芒星の白い紋様が刻まれている。
刻印武器と呼ばれる、聖術師が扱う武具だ。
聖術は聖歌と呼ばれる特殊な歌によって発動する。
ところが、聖歌を歌う際に体内に取り込むエーテルの量は人間にとっては有害で、術が完成する前に死に至ってしまう。つまり、人の身では聖術が使えない。
それがオルラントでの常識だった。
しかし、空での生活に馴染むにつれてエーテルへの耐性が極端に強い天上人が出てくるようになり、常識は覆された。
聖術師とは、人の身で聖術を扱う者たちの総称だ。
とはいえ、聖歌を扱える術師は少ない。並外れたエーテル耐性を要求されるからだ。聖歌の代わりに武器の刻印を媒介としてエーテルを取り込む、擬似的な聖術を扱う者が大半を占める。
刻印武器を扱うにもエーテルを操る独自の感覚と耐性が必要になるので、その才能を持つ者は空の人口でも千人に一人の割合だとされている。ちなみに聖歌を扱える者となると十万に一人の割合にまで狭まるらしい。
男はおそらく飛行船の護衛で稼いでいる傭兵だろう。飛行船が幻妖種に襲われることは滅多にないが、年に数度は起こると聞くし、略奪目的の空賊が出没することもある。
「ま、そーいうこった。万が一のときは俺が対処するから素人はさっさと逃げな。邪魔だ」
「素人なんかじゃないわ。シオンは……」
「ティア。お言葉に甘えて僕らは中に戻ろう?」
食って掛かりになる彼女の背を押して船内に向かおうとした時――飛行船が、大きく揺れた。
「きゃあ……っ!」
船体が激しく揺さぶられ、甲板が斜めに傾く。シオンは慌てて手近な手すりに掴まり、空の海に放り出されかけたルクレティアの腕を捕まえた。何とか彼女を引っ張り上げ、近くの手すりを掴ませる。
「ありがとう、シオン……。死んじゃうかと思ったわ」
ルクレティアの特異な事情を知るものが聞けば、疑問を抱く発言だろう。しかし、シオンは頓着することなく薄緑の双眸を細めて眼下を見下ろした。
飛行船の後方でまるで間欠泉のように雲が吹き荒れ、青い空に舞い上がった。かと思うと、今度は甲板の右舷前方から雲の飛沫が派手に上がり、黒い影が境界から飛び出してきた。
黒い疾風が飛行船の側方を駆け上がり、上空でふわりと静止する。
太陽の光を浴びて鈍く輝く蝙蝠めいた一対の翼がばさりとはためき、強風に飛行船が再び傾きかけ、ぐらりと揺れた。
黒い光沢を放つ鱗に覆われた巨体に、人どころか小型の飛空挺くらいなら丸呑みできそうな顎と牙。飛行船を見下ろす黒い双眸は目が合っただけで腰を抜かしそうな鋭さを孕んでいる。
全長およそ三メートルほどの巨躯を持つ幻妖種は、竜のような貌をしていた。




