デパートデート 2
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午後。
わたしたちは予定通りデパートにやって来た。
クリフ様の顔色は午後になってもあまりよくない。
ドロシアによると、疲れを取るためにクリフ様は午前中に仮眠したそうなのだけど、一時間程度の仮眠では効果はあまりなかったようだ。
この一週間、クリフ様の提案通り、わたしたちはできるだけ手を繋いですごした。
今日も手を繋いでデパートの玄関扉をくぐると、五階のドール展へ向かう前に、一階から順番にゆっくりと見て回ることにする。
「ほしいものがあれば言ってくれ」
「ありがとうございます。でも、今のところは特に必要なものはありませんよ」
「そうなのか? ほら、あっちに鞄があるぞ。こっちには帽子だ」
「鞄も帽子も必要なだけありますよ」
「君はあんまり物欲がないんだな」
「どうでしょう? ただ、鞄も帽子も毎年流行が変わりますから、たくさん買うと無駄になっちゃいます」
わたしの実家はかなりのお金持ちなんだけど、昔から無駄遣いは禁止されていた。
必要なものであれば金に糸目はつけないが、不必要なものをたくさん買うのは馬鹿のすることだというのがおじい様の教えである。
浪費が激しくて没落した古参貴族を例に出して、あのようになってはいけないと口酸っぱく教えられた。
だからわたしは、嫁ぎ先である公爵家の威厳を損なわない程度のものがあればそれでいいと思っている。
「クリフ様こそ、必要なものはないですか? 二階には時計やハンカチなどがありますよ」
「手持ちの懐中時計があるし、ハンカチは結婚前にアナスタージアが刺繍を入れてくれたものがたくさんあるよ」
「そ、そうですか」
……クリフ様、わたしが刺繍したハンカチを使ってくれているのね。
公爵家に嫁ぐと決まった時、わたしは刺繍の勉強も頑張った。
夫のものに妻が刺繍を入れるのは古参貴族たちの伝統だ。
お父様は、新興貴族制度でバレル王国には新しい貴族が誕生し、新しい文化も芽吹いてきているが、昔からの考え方も大切にしなければならないと言って、わたしに有名な刺繍教師をつけてくれた。
さらに花嫁修業の一環で、お義母様からラザフォード公爵家の家紋の刺し方を教わって、結婚前に練習もかねてたくさんのハンカチに刺繍を入れたのよね。
そのハンカチをクリフ様が使ってくれていると思うと照れくさくなって、耳のあたりが熱くなる。
「購入の予定はないけど、見て回るのは面白いし、ぐるりと回ってみようか」
「そうしましょう。デパートの中は涼しいですし」
空調の魔法道具が効いているデパートの中はひんやりとしている。
お父様によると、暑い時期になるとデパートでデートを楽しむ男女が増えるのだそうだ。涼しいところでゆっくりしたいと考えるのはみんな同じである。
「この薄い白いスカーフ、アナスタージアに似合いそうだね」
「そうですか? あ! こっちのカフスボタンはクリフ様に似合いそうですよ。クリフ様の瞳と同じ紺色に金色の刺繍が入っていて華やかです」
お互いに似合いそうなものを探しながらデパートの中を散策するのはとても楽しい。
各階、たっぷり時間を使って商品を見て回って、わたしたちはようやく五階に到着した。
ドール展は盛況なようだ。
ドール展の入場料は一人銅貨十枚。けれど、本日中に人形の予約注文をすれば支払った入場料は返金される。
わたしとクリフ様は入り口で入場料を支払った。
入り口のスタッフはわたしたちの顔を知っていて、このデパートの経営者がマクニール伯爵家だから入場料を免除しようとしたが、それをはじめると、マクニール伯爵家の知り合いだ何だと言いって入場料を免除してほしいと言い出す人が現れるかもしれないので断った。
娘とその夫がきちんと入場料を支払ったという実績があれば、そう言ってずるをしようとする人が現れた時に断る材料にもなるだろう。
「俺は男だし、母上のドールも見たことがないからあんまり知らなかったんだけど、かなり精巧に作られているんだね」
「製作者によって差はありますけど、一生ものの人形として購入しますからね。購入者がよりいいものを求めるので、製作者もそれに合わせるようになったのではないでしょうか? もちろん、有名な人形作家の作品ほど値が張るんですけどね」
人形作家によっては予約が数年待ちというところも珍しくないそうだ。
ゆえに子供が誕生した直後にすぐに予約をかけたりするらしい。中には子供ができる前から予約をかけるせっかちな人もいるとか。
これまでは人形作家の評判は口コミで広がっていたため、人気が集中することが多かった。
パトロンのいない新人作家はどうしても注目されないため、生計を立てられるようになるまで何年も――下手をしたら十年以上かかることもあるという。
だからこうした展覧会は、無名の人形作家のためにも非常にいい試みだ。
「バレル王国では女の子が生まれたら購入する人形ですけど、お父様は純粋にインテリアとして国外にも輸出したいみたいなんですよね。こうした展覧会はそのための一歩だとも言っていました」
「義父上は本当に商売が上手だね」
「祖父から叩き込まれたそうですから。うちの弟も今、父に叩き込まれている最中です」
わたしたちは新興貴族と侮られることもあるけれど、わたしは自分が新興貴族であることを誇りに思っている。
確かに伝統はない。けれど、新興貴族が国を救ったという自負は、わたしたち一家も、そして他の新興貴族も、強く持っていることだった。
いまだに古参貴族の中には貴族が商売をすることに眉を顰める人もいる。
だけどわたしは、お金を稼いで国に貢献しようと頑張っている家族を恥ずかしいと思ったことは一度もない。
「そして俺の父上も叩き込まれている最中だね。落ち着いたら俺も教えてもらわないと」
王族であるのに、そんな風に言って楽しそうに笑うクリフ様が、わたしはやっぱり好きだ。
彼は王族で公爵なのに、わたしたちをかつて平民だった新興貴族と馬鹿にしたりしない。
……クリフ様と、本当の夫婦になりたかったな。
恋というのは厄介だ。
諦めなければと頭で理解していても、そう簡単には割り切れない。
クリフ様の初恋相手を探そうという気持ちに嘘はない。
けれど同時に、クリフ様の初恋相手が見つからなければいいのになんてずるいことを考えてしまうわたしもいた。
……わたしは何て欲深で醜いのかしら。
そっと息を吐いたわたしの手を軽く引っ張って、クリフ様が赤いドレスが着せられているドールに近づいていく。
「アナスタージア、この子は君に似ている気がするよ。ほら、髪の色も瞳の色も一緒だ。女の子が生まれたらこんな感じなんだろうか」
クリフ様と離縁したあと再婚するつもりはないから、わたしが子を産むことはないだろう。
だけどクリフ様がとても楽しそうに言うから、そんなことは言えなかった。
「どうでしょうか。わたしの子だからと言って、わたしと同じ髪と瞳の色を持って生まれるとは限りませんし」
実際、わたしのお母様は瞳こそ同じ色だけど、髪は栗色だ。わたしのストロベリーブロンドはおばあ様からの隔世遺伝である。
「そうか、それは残念だな。だってこの人形は本当に素敵だからね。ま、これは展示品で、実際に頼むときには髪の色も瞳の色も指定できるから、この作家の名前は控えて帰ろうか」
クリフ様はご自身の子が生まれた時のことを想定しているのだろうか。
よほどこの作家の人形が気に入ったみたいだ。
クリフ様がドールの横に並べられているカードを一枚手にした。そこには人形作家の名前が書かれていて、自由に持ち帰っていいことになっている。
クリフ様は将来娘が生まれた時にプレゼントする場面を想像しているのだろうか。とても表情が柔らかい。
チクリと胸が痛んで、わたしが繋いでいる手にきゅっと力を込めた時だった。
「まあ、クリフ様?」
華やかな声がして、わたしとクリフ様はほぼ同時に振り返った。
そこにはブルネットの髪に黒い瞳のすらりと背の高い少女がいた。年は十八歳のアナスタージアと同じくらいか少し下くらいだろう。
服装からして貴族令嬢だろうと思われた。後ろにはお供の使用人らしき人もいるから、高位貴族かもしれない。
クリフ様は軽く首を傾げた。
「ええっと、君は?」
すると、少女は傷ついたような顔をして長い睫毛を震わせた。
「お忘れですの? ビアトリスですわ。アストン侯爵家の娘です。以前パーティーでお会いしたことがございますわ」
……ビアトリス!
わたしはその名前にハッとした。
カフェで聞いた名前だった。クリフ様の初恋相手かもしれないと考えていた人だ。
クリフ様は考え込むように視線を落とした。
「そうだったかな。ああ、そう言えばそうだった気がする」
「ダンスをご一緒しましたわ」
「……ああ、そう言えばワルツを踊ったね。三年前だっただろうか」
わたしは胸の奥がぎゅうっと締め付けられるのを感じた。
頭の奥がガンガンと痛む。
クリフ様は、忘却の魔法で初恋の女性の存在を忘れた。
そして目の前のビアトリス様を覚えていないという。
……やっぱり、ビアトリス様がクリフ様の初恋相手なの?
目の前が真っ暗に染まるようだった。
覚悟を決めていたはずなのに、突然その存在が目の前に現れて、わたしは軽い混乱状態に陥る。
どうしていいのかわからない。
じりじりと胸の中が焦げ付くような嫉妬も覚えた。
逃げ出したい衝動に駆られて、しかしそれをすればクリフ様に迷惑をかけると踏みとどまる。
わたしはクリフ様の婚約者だったから、何度も彼とパーティーに行ったことがある。
しかし、古参貴族が多く集まるパーティーではわたしが嫌な思いをするだろうからと、クリフ様一人で出向くこともよくあった。
おそらくクリフ様がお一人で出向いたパーティーのどれかで知り合ったのだろう。そして、恋に落ちたのだ。
……ビアトリス様は綺麗な方だもの。好きになって当然だわ。
侯爵令嬢なら、新興貴族の伯爵令嬢である自分よりもよほどクリフ様に釣り合う存在だ。
痛む胸を押さえて必死に微笑を浮かべていると、ビアトリス様がわたしを見てどこか挑発的に微笑まれた。
「まあ、そちらが奥方ですか? 確か、新興貴族のご令嬢だったとか。前王陛下のご命令で、国のために仕方なく結婚なさったんでしたわね」
まるで、そうでなければ自分がクリフ様と結婚していたと言いたげな声だった。
その通りか。わたしがいなければ、クリフ様は初恋相手を忘れることもなく、今頃は彼女と幸せな家庭を築いていただろう。
……この場のお邪魔虫はわたしね。
せっかく初恋の人に会えたのだ。わたしは外したほうがいいかもしれない。
クリフ様は忘却の魔法でビアトリス様のことを忘れているのだろうけど、相手は初恋の相手。一緒に過ごせば思い出すはずだ。
「クリフ様、わたしは――」
「そういう言い方は失礼ではないだろうか。妻は素晴らしい女性だ。仕方なく結婚したわけでもない。不愉快だ。訂正してくれ」
少し外しますね、と言いかけたのだけど、その前にクリフ様がわたしとつないでいた手をぎゅっと握り締めて固い声でビアトリス様に言い返して、わたしは目を丸くしてしまった。
ビアトリス様が驚いたように目を見開く。それはそうだ。想いあっている男性から冷たい言葉を投げかけられればショックを受けるのも無理はない。
ビアトリス様はきゅっと唇を噛んで、わたしをじろりと睨みつける。
「まあ、その素晴らしい女性は、クリフ様の体調が悪いにも関わらずこんな場所に連れ出したんですのね。可哀そうなクリフ様。顔色が真っ青ですわ。本当に、お国のための結婚というのはおつらいのですね」
「君、いい加減に――」
「では、わたくしは用があるので失礼いたします。クリフ様、どうぞご自愛くださいませ」
ビアトリス様はツンと顎を反らして踵を返した。
お供の女性と共にドール展の会場から出て行く。
クリフ様がぎゅっと眉を寄せた。
「アナスタージア、今日のことはあとでアストン侯爵家に苦情を入れておく。不愉快にさせてすまない」
「いえ、苦情なんて入れなくても大丈夫ですから。それよりクリフ様、その……本当に顔色が悪いですわ。今日はもう帰りましょう」
クリフ様の体調がすぐれないのは今朝からわかっていたことだ。クリフ様がいいと言っても、やっぱり、こんなところに来るべきではなかったのである。
……ビアトリス様が怒るのも無理ないわ。
夫の体調も気遣えないのかと思われたに違いない。ビアトリス様がクリフ様のことを愛しているのならわたしに怒っても当然だ。
「アナスタージア……」
「帰りましょう。その……周囲の視線も、痛いですから」
ビアトリス様の声がよく響いたのか、ドール展にいた人たちがわたしとクリフ様に注目していた。
クリフ様はハッとして周囲を見渡し、わたしの手を繋ぎ直す。
「すまないアナスタージア。この埋め合わせは必ずするから」
「ありがとうございます。でも、お気持ちだけで充分ですよ」
クリフ様の体調がすぐれないというのに、デパートデートを楽しんだわたしは、なんて自分勝手な女なのだろう。
デパートを出て、馬車に乗り込む。
少しでもクリフ様が楽になればと、わたしはそっとクリフ様の手を引いて提案した。
「よければわたしの膝を枕に少しお休みください」
クリフ様は何か言いかけたけれど、わたしが必死にお願いすると苦笑してわたしの膝に頭を乗せて横になってくれる。
「じゃあ、少しだけ。……アナスタージア、ビアトリス嬢の言うことは気にしなくていいからな。俺は本当に、君と仕方なく結婚したわけではない」
そんなはずないのに。クリフ様はやっぱり優しい。
わたしはそれには答えず、黙ってクリフ様の艶やかな金色の髪を撫でる。
「お休みください、クリフ様。お家についたら、起こして差し上げますから」
「ああ……」
クリフ様の体調がすぐれないのは間違いないようで、わたしが頭を撫でていると、すうっと落ちるように彼は眠りの世界に入った。
すやすやと寝息を立てるクリフ様を見つめて、わたしは泣きそうになるのをぎゅっと我慢する。
……本当にごめんなさい、クリフ様。
クリフ様の体調も気遣えず、彼に好きな女性がいたことも気づかず……そして一日でも多くクリフ様の側にいたいと望んでしまうわたしは、どこまでも醜くて身勝手だ。
……クリフ様が忘れたビアトリス様との想い出を、思い出す方法はないのかしら。
わたしが彼の妻としてできること。
それは、彼が忘れた初恋の記憶を思い出させて、離縁して彼を自由にしてさしあげることだ。
ぽろりと一筋涙がこぼれて、わたしは手の甲でそれを拭う。
わたしがクリフ様の妻として彼の側にいられるのは、おそらくそれほど長くないだろう――