愚かな新婚夫の悩み 6
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アナスタージアが昨日のことを許してくれた。
少なくとも、クリフはそう思っていた。
今朝からずっと絶望しか感じていなかったが、アナスタージアに謝罪を受け入れてもらえたとわかるとずいぶんと気持ちが楽になった。
もちろんそれで昨日の発言がなかったことになったとは思っていないが、このまま誠心誠意アナスタージアに接し続ければ、そのうち、昨日のことも笑い話に変わるはずだ。というか変わってもらわないと困る。
思い切り最初でつまずいたので「やっぱりきちんと夫婦になろう」と切り出すのはまだ早いだろう。
ギルバートが言うように、まずはアナスタージアに好きになってもらうことからはじめなくてはならない。
胸の中にはまだ、顔も知らない初恋の女性への恋慕が残っている。
だが、どこの誰かもわからないその女性をいつまでも思い続けるなんて愚かしいにもほどがあるのだ。
昨日は忘却の魔法を使ったばかりで混乱していたが、冷静になって見たら、どれだけ自分が馬鹿だったのかが理解できた。
アナスタージアとの結婚前に忘却の魔法を使って初恋の女性を忘れようとしたということは、少なくともクリフは、アナスタージアと夫婦になるつもりがあったのだ。
それなのに混乱しすぎて「夫婦になるつもりはない」なんて言ってしまった。これでは何のために以前の自分が忘却の魔法を使ったのかわかったものではない。本末転倒もいいところだ。
(俺はアナスタージアと夫婦になるんだ。というか結婚したんだからもう夫婦だ。俺が愛するのはアナスタージアで、顔も知らない初恋相手じゃない!)
アナスタージアに好きになってもらうために、まずは善良なる夫にならなくては。妻を尊重し、優しく、愛情深く接するのだ。
(昨日の花束は大きすぎたみたいだからな。今度からはもっと小さなものにしよう)
ギルバートからは明日から一週間休みをやるからアナスタージアと向き合って来いと言われていた。
つまりは一週間、仕事を忘れてアナスタージアのことだけを考えて過ごせる。
この一週間で、アナスタージアにクリフを好きになってもらうのだ!
夕食後、自室で入浴をすませて、クリフは夫婦の寝室へ向かう。
アナスタージアはまだ来ていなかった。女性は入浴も長いし支度にも時間がかかるものだから仕方がないのだが、寝室に一人きりで相手の到着を待つ時間というのは不安なものなのだなとクリフははじめて知った。
来ないかもしれないと思うと、いてもたってもいられなくて、部屋の中をうろうろと歩き回りたくなる。
アナスタージアも昨夜はこんな気持ちを抱えてクリフを待っていてくれたのだろうか。
(それなのに俺は、あんなひどいことを言って部屋を出て行ってしまった……)
充分に反省して後悔したつもりだったが、昨夜この部屋でぽつんと待っていたアナスタージアの姿を思い浮かべると、後悔で死にたくなってきた。
まだ謝り足りない気がする。
いやだがしかし、あまりしつこく謝ると嘘っぽく思われるだろうか。
(焦っては駄目だな。謝るにしてもしつこいのはよくない。すぐにすべてを水に流してもらえると思うなよ俺。ちょっとずつだ。ちょっとずつ信頼を勝ち取らなくては)
アナスタージアは聡明な女性だ。
結婚早々離縁になったら外聞が悪いのをよく理解している。だからこそ、今朝は「すぐに離縁はできないけれど」と言ったのだ。
つまりまだ時間はある。
アナスタージアがここにいてくれる間に信頼を勝ち取れればきっと大丈夫だ。大丈夫だよな? 誰か大丈夫だと言ってくれ!
悶々としながら待っていると、アナスタージアと繋がっている内扉がかちゃりと開いた。
ナイトドレスの上にガウンを羽織ったアナスタージアと、何故かドロシアが入って来る。
ドロシアはじろりとクリフを睨みつけた後で、アナスタージアににこりと微笑んだ。
「それでは奥様。もしまた坊ちゃまが失礼を働きましたら、すぐにベルを鳴らしてくださいませ。何時であろうと駆けつけますので」
(ドロシアめ……)
ドロシアはクリフの昨夜の言動によほど腹を立てているようで、完全に呼び方が「坊ちゃま」に戻っている。嫌がらせだ。そうに違いない。
だが、クリフが生まれる前からラザフォード公爵家で働いているドロシアに対して、文句を言ったところで無駄だった。というか文句を言えば倍以上になって小言が返って来る。ここは耐えるしかないだろう。アナスタージアの前で、メイド頭に無様に叱られるのは勘弁だ。好かれるどころか愛想をつかされかねない。
ドロシアが睨みながら去っていくのを引きつった笑顔で見送って、クリフは改めてアナスタージアに向き直った。
アナスタージアはしっかりとガウンを着こんでいるが、その下はもしかしなくても今朝の体の線が出るようなナイトドレスだろうか。
ふと朝の光景を思い出し、クリフは慌てて手のひらで鼻を覆う。一気に頭に血が上って、鼻血が出るかと思ったからだ。
(まずい、緊張してきた……)
ドッドッドッドッと鼓動がおかしなくらい早くなった。
アナスタージアの顔も心なしか赤い。彼女もクリフを意識してくれているのだろうか。
(まずいぞ、本気でまずい。冷静にならなくては。アナスタージアが許してくれるまで何もしないと誓ったその日に破ったりしたら……俺は破滅だ)
間違いなくアナスタージアに愛想をつかされて出て行かれるだろう。
落ち着け、冷静になれ、とクリフは何度も自分に言い聞かせた。
(それにしても……くそっ! 湯上りの女性とはこんなにも色っぽいものなのか⁉)
火照った頬に、ほんのり湿っている艶やかなストロベリーブロンド。
シャボンの香りだろうか、とてもいい匂いがする。
無防備なガウン姿というのもいただけない。あんなもの、腰の紐を引っ張ればすぐにはだけてしまうではないか。
「あの、クリフ様?」
「う、うん?」
「すぐにお休みになりますか? それとも何かお飲みになりますか?」
恥ずかしそうにわずかに目を伏せながら、アナスタージアが近づいてくる。
薔薇のような優しい香りがクリフの鼻孔をくすぐり、どっかんと頭が噴火しそうになった。
「寝よう! すぐに寝よう!」
このまま起きているのはまずい。湯上りのアナスタージアの色気にやられて暴走してしまうかもしれない。
アナスタージアをとっととベッドに寝かせてシーツでぐるぐる巻きにして、あのけしからん姿を覆い隠してしまわないと!
のんびりお茶でも飲もうものなら、ガウンの下が気になって今度こそ鼻血が出るかもしれない。
アナスタージアがほんの少し首を傾げて、しかし素直にベッドに歩いていく。
ぎくしゃくと、クリフもベッドに近づき横になる。まではよかった。
(……俺は馬鹿か)
夫婦用のベッドだ。もちろん広い。広いのだが……隣にアナスタージアが、あのけしからんナイトドレス姿で横になっていると思うと、目がぎんぎんに冴えて眠れなかった。
何故自分は同じベッドを使おうなどと言ったのだろうか。
もう少し順を追えばよかった。
横にアナスタージアがいるのにまったく手を出せないなんて拷問でしかない!
(俺は本当に初恋の女性がいたのか⁉ なんかおかしくないか⁉ なんでアナスタージアにこんなにドキドキするんだ⁉)
一緒のベッドで眠っても大丈夫だと思っていた数時間前の自分を殴ってやりたい。
クリフはぎゅうっと目を閉じで煩悩と闘いながら、思いっきり自分を罵倒した。
(それもこれも忘却の魔法なんて使った俺のせいだ! くそ! 俺の馬鹿っ‼)
クリフはこの日、一睡もできなかった。