前編
生あるものは、いつか必ず死ぬ。
時は万物を支配する絶対神であり、いかなる神話の神々も勝利することはできない。
人もまた同じだ。
人生という旅にも、必ず終わりの時はくる。
それがいつかは誰にもわからなくとも。
「しかし、木蘭は決まっているのですね?」
端正な顔に苦渋の表情を浮かべ、フィランダー・フォン・ファが問いかけた。
花男爵家の上屋敷である。
王都アイリーンにある豪壮な屋敷の中にあって特に目立つような建造物ではない。
それでも人目を引いて止まないのは、ここの主人が特別だからだ。
常勝将軍花木蘭。
当代の英雄。
「……この数日が峠だと思って」
返答の前に沈痛な空白を挿入するオリフィック・フウザー。
世界で最も有名な女性が今、死に瀕している。
救うために幾人もの魔術師や魔法医が花家に集っていた。
「稀代の大魔法使い」フウザー、「大陸一の錬金術師」アーネスト・アルディエイト。
「精霊王に愛されしもの」アーシア・ウルド。
アイリーン教の大神官ミントスなど、いずれも木蘭と親交が深い者たちだ。
そして彼らほどの実力者をもってしても、木蘭の状態は絶望的だった。
無理に無理を重ねてきた身体。
「一緒に世界を旅して回ろうと約束したじゃないですか。
嘘つきは嫌いですよ。
木蘭さん」
大親友のアーネストが声を詰まらせる。
常に穏やかで冷静な彼女が、この程度のことしか言えない。
この場にいるもの全てがわかっていた。
伝説の終焉を。
「せめてこの上は、安らかに眠らせてやることはできないでしょうか」
憔悴し、血走った目のままフィランダーが告げる。
最愛の妻は死ぬ。
認めたくないが、認めなくてはならない。
彼にしか、治療をやめる決断は下せないのだ。
助けられないのなら無用の苦痛を与えるべきではない。
バール帝国の前皇帝ミシエル・ガズリストの死の直前、バール教の高司祭たちは数分に一度というペースでリザレクションの奇跡を使い続けたという。
無駄だとわかっているのに。
そんな惨めな妻など、見たくない。
「夫の君がそう望むなら……」
「それはちょっと諦めが良すぎるってもんじゃないかねェ」
口を開きかけるフウザーを遮って女の声が割り込む。
東方風の服。
結い上げた黒髪。
「センカ。
どうしてここに?」
けして表舞台には立てない禁術使い。
「花木蘭が死んだら、今後の歴史が面白くないからねェ」
偽悪的なことをいってにやりと笑う。
稀代の大魔法使いの学友にして魔法使いギルドから手配をかけられている追放魔術師センカ。
禁術に手を染めずにいればウィザードの称号を得ていたに違いない。
そうなればドイル魔法学校は同一学年からフウザーとセンカという二名の大魔法使いを輩出する栄誉を担うことになっただろう。
「協力してくれるのかい?」
問いかけに女魔術師が頷く。
錬金術ではアーネストに及ばず魔法の知識ではフウザーに及ばない彼女だが、他の誰にもない技術を持っている。
曰く、錬変術。
無から有を生み出す錬金術ではなく、物体そのものの構造に干渉し、ときには生命の組成すら変える禁断の技術だ。
「アタシが役に立つこともあるだろうサ」
「百人力だよ」
世辞でもなくフウザーが微笑する。
公式非公式を問わず中央大陸最高の魔法使いたちが一同に集まった。
これでも駄目なら、人の手の及ぶところではない。
ごくわずかに光明が差す。
だがそれは、
「どうもまずいことになりそうだぞ。
オリー」
入ってきた偉丈夫によって、たちまちのうちに否定される。
「ガド。
何があったの?」
「魔王の腹心がここに向かっている。
狙いは、もちろん木蘭だ」
「……機を見るに敏、ということだね」
苦々しい笑いが大魔法使いの顔を彩った。
魔族たちにとって、これは最大のチャンスだ。
木蘭の肉体を手に入れることができれば、それを依り代にすることができれば、魔王ザッガリアの復活など待つ必要もない。
腹心シャミィが魔王となれるのだ。
「最悪の場合は、乗っ取られる前に彼女を消し去るしかないね」
「……であれば、やはり私が……」
悲壮な決意でフィランダーが立ち上がる。
最愛の妻の身体を魔族に利用させることなどできない。
聖戦のとき、もし木蘭が洗脳され魔軍の司令官となっていたなら人間たちに勝機など無かった。
常に正義と正道を歩んできた彼女に、そんなことをさせるわけにはいかない。
「そう悲観したものでもないさ」
カイトスが肩を叩いて落ち着かせる。
「暁亭の冒険者たちが何か糸口を掴んだらしい。
死者の宮殿に向かった」
シルヴィア・レストア……魔界男爵ハラザールの魂を継いだものがもたらした情報。
聖騎士を只の人間に戻す魔道具アストリア。
法と正義の女神の名を冠したそれは、木蘭からアイリーンの力を完全に奪いさる。
死者の宮殿の何処かに眠っているという。
「木蘭が……ただの人間に……?」
驚きと喜びがせめぎ合い、フィランダーの若い顔が歪んだ。
数々の奇跡を起こしてきた女将軍。だがその身体を蝕んできた神の力。
解放されるなら……。
「でも今のままじゃ解放された瞬間に死んでしまうねェ」
「肉体の修復。
神力に頼らない再構築。
生命力自体の回復。
他にもやることが沢山あります」
難題だ。
だが彼らに絶望の表情は浮かんでいなかった。
魔族のたくらみを退け、木蘭を回復させ、冒険者たちの持ち帰る魔道具を待ってアイリーンを分離させる。
どれか一つでも失敗すれば終わりだ。
「性質の悪いギャンブルだね」
それでも疑わない。
冒険者たちの成功を。
彼らはきっと上手くやる。
それが大前提だ。
だから花家上屋敷にいるものたちは、冒険者が帰ってくるまでに、やるべき事は全てやる。
どれほど難しくとも、
「わたくしがアシストします。
すぐに始めましょう」
「アーシアさまが助手とは恐れ入るねェ」
寝室に入ってゆく女二人。
「僕たちは歓迎会の準備だね。
フィランダーは木蘭についていてあげて」
「私と」
「俺はオリーの組だな。
だが、転移で一足飛びに寝室に入られたら手の打ちようが無いぞ?」
「この屋敷の基本設計は僕がやったんだ。
あの陰険ニャルラだってこの中で転移はできないよ。
正面から入ってくるしかないのさ」
「そいつは頼もしい」
軽く友人を称揚して玄関へと向かう洗練された剛勇。
入ってくる場所が限られるなら、最も戦いやすい場所で迎撃するべきだ。
「私も気合いを入れましょう」
アーネストがマントを翻す。
がらがらと音を立てて、いくつもの武器が床に落ちた。
屋敷を守る花家の家臣たちに使わせるためのものだ。
「……秘剣グラム、帝王剣エクスカリバー、千将と莫耶、神槍グングニル、神剣ジャスティス、魔剣ストームブリンガー、贄殿遮那、ガドのシュトルムウィンドまで……
よくもまあこんなにいろいろ集めてきたもんだね……」
「全部レプリカです。
私にはこれで充分ですので」
銀色のブレスレットをはめる。
「霊弓シルフィードか。
ついに本邦初公開?」
軽口に微笑する大陸一の錬金術師。
「いこうか。
僕と君の大切な人を守るためにさ」
「フウザーさんが言うのでなければ、最高に説得力がありますね」
当代一と称される魔法使いたちが階段を降りる。
夜。
明るい夜。
闇に怯える卑小な人間どもが造り出した、偽物の夜。
「さあはじめましょう。
終わりの曲を奏でる舞踏会を」
黒いコートに身を包んだ少女が嗤う。
シャミィ。
魔王の腹心のひとり。
数々の冠詞をつけられる腹心たちの中にあって、彼女だけが魔界男爵だの紅の猛将だのという仰々しい異称を持っていない。
普通名詞の固有名詞化というのは、その力の巨大さの証明である。
彼女を語るのに多くの言葉は必要ない。
腹心。
その一言で充分なのだ。
機は熟した。
七つに分かたれたザッガリアの欠片のうち、すでに三つを己がものとした。
花木蘭の肉体を我がものとし、今度こそ地上の覇権を握る。
聖戦の再来だ。
違いがあるとすれば、
「君臨する魔王の名は、シャミィということでしょうか」
完勝の自信を込めて歩を進める。
周囲に群がる屍食鬼たち。
古き神話のなかにあって、どの神にも従属していないはずの独立種族だ。
狂犬にも似た容貌の黒い獣。
「慢心するなよシャミィ。
彼らは強力だ」
黒い鎧の青年が呟くように言う。
魔剣士カラミティ。
敵を侮ってはいけない。
これまで魔軍が敗れたのは、すべて油断と慢心に原因があった。
最後の最後で逆転する。
そのための努力を惜しまない。それが人間の力だ。
「わかっていますよ」
この戦いははじまりに過ぎない。
いつのまにか紛れ込んだ異境の魔族どもを排除し、ザッガリアを平らげ、エオスの神々を逐う。
終わりという名の交響曲の、序曲に過ぎないのだ。
開け放たれる正門。
先駆たる屍食鬼が走る。
広大な庭を抜け、正面玄関へと。
たがその疾走は長く続かなかった。
突如として現れた影が怪物を一刀両断する。
「ここから先は有料ゾーンだ。通行料はけっこう高いぞ」
月光を浴びてくろがねに輝くフルプレート。
赤と黒の光をまとった長大な剣。
バールの聖騎士。ガドミール・カイトス。
「あいにくと持ち合わせがないのでな。
踏み倒させてもらう」
一歩踏み出すカラミティ。
シャミィもまた戦闘態勢を取る。
「宴のはじまりです」