表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この婚約を手放したくない理由

作者: ハチニク

読んでくださり、ありがとうございます!


 ――たとえ、貴方の愛が私に向いていなくとも、それでも構わない。

 でも、どうかこの婚約だけは壊さないで。

 私にはそれしか残っていないのだから。


 

 ハーデンバーグ家の令嬢、フェンリルの婚約は突如として決まった。それも彼女が十六歳の時に。

 相手は、とある辺境伯の跡取り、フランツ。フェンリルよりも歳は四つ上で、エルバウム家の長男だ。


 ただ、これは、正真正銘の政略結婚であった。かつて名家と謳われたハーデンバーグ家は、フェンリルの父が犯した経済的な過ちにより没落し、その代償として差し出されたのが、この契約だった。

 名家の名を守るために差し出された犠牲が、フェンリル自身だった。


 それは無情な運命なはず。けれども、親を想う優しい心を持った彼女は、泣き言一つ口にすることなく、その宿命を静かに受け入れた。


 そんな望まない結婚は、愛などという温もりが到底、介入する余地はなく、二人の心に交わる情熱も灯ることはなかった。


 そう、二人が初めて対面した時もそうだった。


 エルバウム家の壮麗な館の特別豪華でもない一室――。

 窓の外には絢爛たる庭園が広がり、花々が誇らしげに咲き乱れているのを見て、フェンリルは心を落ち着かせる。なんせ、これからを共にしていく旦那様との初対面なのだから。


 目前には二十歳とは思えぬほど大人びた、筋肉質の体を持つ軍服を着たフランツがテーブル越しに座っていた。特別、緊張もしていないようで、少し眉間にシワが寄っている。

 

(怖くない人であれば、良いのだけれど……いや、そんなわがままなこと、思ってはいけません)

 

 フェンリルは一瞬の怯えを隠しながら、静かに声を紡ぐ。

 

「……フェンリル=ハーデンバーグと申します」

「フランツ=エルバウムだ」

「どうぞ、よろしくお願い致します」

「あぁ、こちらこそ」


 会話は、そこで途絶えた。フランツは全くの関心を示さず、話を広げる気配すら感じさせない。「こんな話し合いの場は不必要だ」とでも言いたげで、フェンリルの顔をまともに見ることもせず、冷めた目でどこか遠くを見つめているだけだった。


「フランツ様。フェンリル様とお庭をお二人でご散策なさってはいかがでしょうか? きっとご気分も少しは晴れるかと存じます」


 気まずい雰囲気の中で、気を遣ったのか、フランツの専属執事であるゴードンが、そう声を掛けた。


 フェンリルも、必死に同意を示すように大きく頷く。その提案が、少しでもこの気まずさを解消してくれるかもしれない。そう思ったからだ。


「いや……それはできない。悪いが、これから本部に向かわなければならない」

「で、ですが……フランツ様……」


 フランツは提案をお構いなく、拒否した。ゴードンは眉を曇らせ、フェンリルへと視線を移した。

 何か弁明しなければ――そう思いながらも、声は喉に詰まって出てこない。

 

「フェンリル様、その……」

「ゴードン様お心遣いに感謝いたします。ですが、旦那様のご用事が何より優先されるべきでございます」

「……そうでございますか」


 フェンリルは微笑みを深め、静かにそう告げた。


「はい。旦那様もどうか私のことはお気に留めず、ご自身のなすべきことに専念なさってください」

「そうか、悪いな」


 フランツはそれだけを言い残し、足音も静かに、扉の向こうへと姿を消した。


 ただ事実として、フランツは確かに多忙な人物であった。今回の拒絶も、単にその場を離れるための口実ではない。


 エルバウム家は代々、軍や政治の分野で名を馳せてきた名門の家柄であり、フランツ自身もその例外ではなかった。若くしてアストレア地方軍の第一部隊で軍曹の座に就き、その肩には常に国家の未来がかかっていた。

 

「このゴードンが代わりに謝罪申し上げます。何卒ご無礼をお許しくださいませ、フェンリル様」

「いえ、どうかお顔をお上げください。フランツ様が多忙でいらっしゃるのは、確かに事実ですし、それに私はこの家にお住まいできるだけで、十分に幸せでございます」

 

 慌てふためき、ゴードンが謝るが、フェンリルの心には怒りの影すら見つからなかった。これが、政略結婚の実態であって、何かに期待することの方が間違っていると分かっていたからだ。

 

 結局、フランツからの誓いの言葉もキスも何も無かった。結婚式はただ形式的に行われ、親同士が喜ぶだけのものとなった。そして、肝心の婚約指輪は、なんとゴードンを通じて渡されたのだ。

 それで愛が芽生える方がどうかしている。


 ただ、この婚約でハーデンバーグ家のために尽力できる。

 それが、彼女の人生にとってのすべてであった。



 フェンリルは、屋敷で一人静かに過ごす日々がほとんどであった。


 一方、フランツは軍曹から曹長に昇進し、その忙しさはますます増していった。共に過ごす時間はほとんどなく、彼が屋敷にいること自体が極端に減り、もはや二人の婚約など存在しないかのように感じられた。


 ただ、愛情によるものではなく、婚約解消を防ぐための防波堤を築くために、フェンリルはフランツに好かれる努力を決意した。その思いを胸に、ある朝、フランツのための弁当を作ることにした。


「これは、フェンリル様! 朝早くからどうなさいましたか?」

「あの……旦那様にお弁当を作りたいのですが……」

「まぁ、素敵ですわ! フランツ様のためにお料理だなんて、喜んで手伝わせていただきます!」


 寝ぼけ眼でキッチンに向かい、朝食を調理していたメイドにそう言うと、快く、笑顔を浮かべて手伝うことを申し出てくれた。


「フェンリル様は、お料理の経験はございますか?」

「……いえ、今回が……初めてです」

「まぁ! ではフェンリル様の初めてのお弁当、素敵に仕上げましょう! それで、ミートパイなんてどうでしょうか?」

「ミートパイですか……?」

「はい、フランツ様の大好物ですよ!」

「で、では、それが良いと思います……」

「かしこまりました!」


 メイドは鍋に油を熱し、みじん切りの玉ねぎを加えた。甘い香りが立ち上ると、豚ひき肉と牛ひき肉を投入する。肉がじゅうじゅうと焼かれ、フェンリルは期待に胸を膨らませた。


「塩と胡椒を振りかけましょう。あとは、パセリやタイムも加えると、フランツ様の好みに仕上がりますよ!」


 指示に従い、フェンリルは調味料を加えた。次に、パイ生地を作るために小麦粉、バター、水を混ぜ、滑らかな生地を作る。


「お上手ですよ、フェンリル様!」

「……あ、ありがとうございます」


 生地を型に押し込み、冷やしたフィリングを詰めて蓋をし、形を整えた。最後に卵黄を塗り、オーブンで焼くこと約三十分……。


 可愛く弁当箱に詰められたミートパイが完成した。


「……上手くできたと思います……」

「はい! とても美味しそうですよ!」

 

 フェンリルはじっと完成品に見惚れていた。焼き上がりのパイは、黄金色に輝き、パリッとした食感が目に浮かぶ。

 

「きっと、フランツ様も喜んでいただけますよ!」

「……はい、喜んでほしいです」

 

 メイドが微笑む側で、心を込めたミートパイを前に、フェンリルは小さく頷いた。


 その表情には「旦那様、喜んでくれるでしょうか」と言わんばかりの期待が溢れていた。


(フェンリル様、かわいすぎます!)


 メイドはそんな思いを抱きながら、陰から二人の行く先を見守った。


「……だ、旦那様! お待ちください!」


 フェンリルは、急いで玄関のドアを開け、外へ飛び出した。慌ててドアを開けると、フランツは馬車の側に立ち、急いで乗り込もうとしていた。彼の後ろ姿は、忙しさを漂わせていた。

 

「旦那様……!」

「ん、どうした? 今日は忙しいから、用件があるのなら早く伝えてくれ」

「そ、その……旦那様のために……」

「なんだ、モジモジと気持ちの悪い」

「……旦那様のために、お弁当をお作りいたしました……」


 小さな弁当箱には、丁寧に詰められたミートパイが並んでいる。フェンリルの小さな手は震えながらも、弁当をしっかりと握られていた。

 

「弁当……? まさか……そんなくだらないもののために俺を呼び止めたのか? ……俺はもう行くぞ」


 少しの沈黙が流れ、フェンリルはフランツの反応に思わず肩を落とした。


「……申し訳ございません……お気をつけて、行ってらっしゃいませ……」


 彼は馬車に乗り込み、そっぽを向いたまま、さっさと出発してしまった。石畳を叩く馬車の車輪が、静かな朝の空気を裂いていく。


「届けられなかったみたいですね……」

「フランツ様も少し可愛げがあればよろしいのですが……」


 陰で見守っていたメイドが、ため息交じりに呟いた。その隣にいたゴードンも、残念そうに頷いた。



 ――そんな関係が続いていた結婚四年目のある日のこと。


「フェンリル様、大変でございます! フランツ様が……迷宮で怪我を負ってしまったようで……!」

 

 物静かだったエルバウム家の広間で、予期せぬ不安が押し寄せてきた。ゴードンの声が、華やかなシャンデリアの下で響いた。

 

 フランツは曹長として三週間、リエルという地で迷宮探索に従事していたが、その途中で重傷を負ったという連絡が入ったのだ。


「……だ、大丈夫でしょうか……」

「状況はまだ完全には把握できていないとのことです……無事であればよいのですが……」


 ゴードンは目を伏せ、困惑した表情を浮かべながらそう答えた。


 彼の低身長で小太りな体が、微かに震えていた。

 その様子を見たフェンリルは彼を安心させるかのように、


「……きっと大丈夫です。旦那様はお強いですから」


 と一言だけ告げた。ただ、その言葉は、確信というより、祈りに近いものだった。


「そ、そうでございますね!!」


 その言葉に救われるように、ゴードンは強く頷く。ただ、その不安が消えることはなかった。その後も、数日間は心配し続けるゴードンを、フェンリルが何度も宥める日々が続いた。


 そして、ある日、フランツが部下と共に馬車に揺られて屋敷に戻ってきた。


 重傷を負ったという報告から実に四日後のことだった。

玄関前に馬車がゆっくりと停まると、フランツは重い足取りで車を降りた。杖に頼りながら、一歩一歩慎重に足を運ぶ姿は、包帯に覆われた体とともに痛々しく映る。


「フランツ様ぁ!! ご無事でいらっしゃいましたか!? こんなにも包帯を巻かれて……さぞやお辛かったことでしょう!」

「あぁ、心配をかけたな……」 


 ゴードンが玄関先で声を上げ、急いで彼の元へと駆け寄った。肩を貸そうと杖をつく方の脇に並び、手を伸ばすが、背の低いゴードンの肩はフランツには到底、届かなかった。


 それでも必死に肩を貸して、支えようとするその気持ちは、真剣そのものだった。


「だ、旦那様……大丈夫ですか?」

 

 玄関ドアの内側から顔だけを、まるで子供のようにひょっこりと覗かせて、フェンリルはそう言った。


 その声を聞いたフランツは一瞬だけ彼女の方を見やるが、何も答えない。すぐに視線を外し、代わりに、傍に立っていたゴードンにそっと耳を寄せて、フェンリルに聞こえぬよう静かに囁いた。


「ゴードン、()()()()()()()()()()。分かったか?」

「え? なぜでございますか?」

「理由は後で説明する」


 フランツの声には冷たさが含まれていた。それを聞いたゴードンは一瞬ためらったが、すぐに従順に頷いた。


「承知いたしました」


 その言葉を受けて、ゴードンは急ぎ足でフェンリルの腕を優しく掴み、屋敷内へと案内した。


 磨かれた木の床が足音を響かせ、廊下を進むと、壁に飾られた絵画や古い家具が、静けさの中にひっそりと佇んでいる。


 ゴードンはそこでフェンリルに小声でこう告げた。

 

「フェンリル様……フランツ様の体調が優れるまでは、接触を避けるようお願い申し上げます」


 その言葉を聞いたフェンリルは驚き、眉をひそめた。

 

「接触を……ですか? ……かしこまりました……」


 その反応にも十分頷ける。形式的とはいえ、フランツは彼女の夫。看病でもして、少しは役に立ちたいと思っていた矢先の接触拒否だったのだ。



 屋敷の広間で、フランツが杖をつきながら慎重に歩いているのが見えた。接触しないようにと注意を受けていたが、心配が胸を締め付け、フェンリルは思わず声を掛ける。


「だ、旦那様……ご体調はいかがでしょうか……?」

「……あぁ、平気だ」


 そのまま、嫌そうな顔でフェンリルを見つめる。


「接触するな、と言ったはずだが」


 その言葉に、フェンリルは一瞬言葉を失ったが、すぐにうなだれながら答えた。

 

「……はい。大変、申し訳ございませんでした」


 彼女の声は小さく、申し訳なさが溢れていた。そそくさとその場を去ろうとすると、何となく微かな声が聞こえた気がした。


《…………すまない、フェンリル》


 思わず振り返ったフェンリルは、問いかける。


「……? 何か仰いましたでしょうか?」

「……いや、何も言っていない」

「私の名前をお呼びになった気がいたしますが……」


 そこで、二人が話しているのに気づいたゴードンは焦った様子ですぐさま、彼女たちの間に入った。


「フェンリル様……! こちらにお越し願えますでしょうか!」

「……? はい……」


 フェンリルはその声に思わず顔を上げ、少し戸惑いながらも素直に従った。


 視線の先には、無言で自室に戻っていくフランツの姿があった。


「フェンリル様、接触は控えるようにと、私が申し上げたことをお忘れですか?」

「……申し訳ございませんでした……」


 ゴードンの声は、穏やかなトーンであったが、その奥には責任感がひしひしと感じられた。


 しばらくの沈黙が流れた後、彼女は深呼吸し、意を決したように顔を上げた。周囲には静寂が漂い、遠くから聞こえる小鳥のさえずりが微かに響く中で、声がこだまする。


「そ、その……ゴードン様! 旦那様が私をこれほどまでに避ける理由は、一体何なのでしょうか?」


 その問いかけに、ゴードンは一瞬ためらった様子を見せた。


「……避ける理由……ですか」


 フェンリルの心臓が高鳴り、思い切って続けた。


「不貞の所為でしょうか……?」


 その言葉を口にするのは容易ではなかった。しかし、それが最近のフェンリルの心を重くしていることは事実だった。

 

 フランツは以前から彼女に興味を示すことはなかったが、最近は特に冷たく感じていた。

 目を見てくれなくなった事。

 会話が短くなっていく事。

 終いには、接触を拒んできた事。

 相まって、彼に愛人ができたのではないかと、心の奥底でフェンリルは思うようになった。


 ただ、彼女に婚約解消のつもりはない。たとえ何があったとしても、その苦い現実を受け入れる覚悟は、婚約前から確かにあったのだ。


「フェンリル様……私の口から申し上げるべきことは何もございません……」

「……そ、そうですか……」


 微かな風が窓を揺らし、カーテンがゆらりと舞った。ゴードンはため息をひとつついて、少し顔を曇らせた。

 

「とりあえず……フランツ様の書斎へ向かうといたしましょうか」

「……? はい」


 ゴードンは深い思索の末、何らかの秘密を抱え込むことをやめたようだった。その口調には、少しのためらいとともに、決意が見えた。

 

 彼は静かに書斎のドアをノックした。


「ゴードンでございます。今、お時間よろしいでしょうか?」

「あぁ、構わない」


 ドアを開けると、フランツの書斎が目に飛び込んできた。

 

 薄暗い室内は、壁に並ぶ本棚に囲まれる。デスクの上には整然と並べられた書類とインク壺が、知的な静けさを感じさせ、フランツは背中を向けて熱心に何かを書き込んでいた。


 ペンが紙に擦れる音が、静寂の中に響く。


「先ほどは危うい状況でございました。やはり、あの件はフェンリル様にもお伝えすべきかと存じます。」

 

 沈黙を破るように、ゴードンが口を開いた。

 

「――いや、それだけはできない」

「とはいえ、いつまでも秘密を隠し通すわけにはまいりません」

「なんだ? 接触を減らせばいいだけのことじゃないか」


 何を話しているのだろうか、とフェンリルの心に疑問が湧く。

秘密――。

やはり不貞の件なのだろうか。

 

 しかし、彼女は覚悟を決めていた。全てを許し、その全てを受け入れる覚悟を。


「……お、教えていただけませんか!」


 不意に、フェンリルが静かに背後から問いかけた。

 

 その瞬間、ペンの滑らかな動きがピタリと途切れた。フランツは顔を上げ、彼女の存在を捉えた。


 彼の表情にはわずかな驚きが走り、次いで顰めっ面が浮かぶ。眼差しには、威圧感も滲んでいた。


「おい、なぜ部屋の中にいる」

「私が連れて参りました。……さぁ、フランツ様。フェンリル様に直接、お伝えくださいますよう。」

 

 言葉に詰まり、内心で揺れ動いているフランツの様子が見て取れた。秘密を明かすべきか、それとも黙っているべきか。

 

 彼の迷いを察したフェンリルは、思い切って言葉を投げかけた。


「旦那様、心の準備はできているつもりです……女性関係についても、いとわない覚悟です」


 彼女の脳内には、不貞、愛人、婚約解消の言葉が次々と浮かび上がる。


 ただ、フランツは何も口にしない。やはり、女性関係なのだろう。その確信が、沈黙の中でますます強まる。


 ――すると、不意に声が漏れた。


《……そういうのじゃないんだ、フェンリル》


 フランツの声だが、彼の唇は動いていなかった。そして、その声はいつもよりも柔らかく、心に触れるようだった。

 

「え……?」


 思わず、フェンリルは驚きの声を出した。


「お口に出して、直接、仰った方がいいと存じますよ、フランツ様」


 ゴードンのその言葉に促され、フランツはゆっくりとフェンリルの目を見据えた。まるで重い決断をするかのように口を開いた。


「迷宮で呪いにかかったんだ」


 その言葉に、フェンリルの心臓が激しく鼓動を打つ。


「呪い……?」


 聞き返す声が震える。


 緊張が張り詰める中、フランツは口を閉じたまま、心の奥底に響く声を彼女に届けた。


《心の声が漏れる呪いだ》

 

 ……予想だにしない自白だった。


 顔を歪めることしかできなかった。


「フランツ様は迷宮で怪我を負った際、同時に呪いを掛けられてしまったのです。心で思った事の全て、口に出てしまうというまことに厄介な呪いに」


 ゴードンの落ち着いた説明が、書斎内に響き渡る。

 

「だから、お前との接触を避けていたんだ。信頼できない奴に俺の思考は読まれてほしくないからな」

「……そのようなことだったのですね」


 その言葉に、フェンリルは一瞬、何も返せなかった。


 信頼がないことは、すでに自覚していたつもりだった。しかし、こうして直接告げられると、結婚生活三年という積み重ねが、想像以上に重くのしかかる。それでも、不貞や愛人関係の話ではなかったことに、ほんの少し救われる思いがあった。


「ありもしない疑念を抱いてしまい、心よりお詫び申し上げます」

 

 ただ今は、その言葉を口にすることが、何よりも重要だった。


 フランツがこんなにも苦しんでいる間、自分は彼を不貞の疑いで見ていた――彼の苦悩に気づかず、根拠のない疑念にとらわれていた自分は、許されるべきではない。


 そう、フェンリルは強く感じていた。そして、再び頭を深く下げ、静かに言葉を紡いだ。


「……旦那様のご心情を考慮できず、深くお詫び申し上げます」

「全くだ」


 フランツの短く冷たい返答が、耳に重く響いた。不服そうな表情を浮かべ、彼はただ、机の上に散らばる書類へと視線を戻し、再びペンを走らせた。


 向けられた背中をじっと見つめたフェンリルは胸の奥で自己嫌悪が湧き上がった。


「……その、お力になれるかは分かりませんが、私にできることがございましたら……どうかいつでもお申し付けください!」


 そして、思わず声を張り上げた。彼の背中が、いつもよりも遠ざかっていく気がしたからだ。そんなことを言えば迷惑になるのではないか、という不安はどこへやら、フェンリルの表情には、同情が深く刻まれていた。


「お前にできることなどない」


 フランツはデスクにしがみつくかのように振り返ることなく、そう彼女に言い放った。


 が、本音はまるで別のものだったようだ。


《フェンリルの手助けか……()()()()()()()()……がそんなことを言えば、気持ち悪がられるだろうな》


「え……?」


 思わず、はっきりと聞こえた戯言にフェンリルは反応した。

 

「い、いや……今のは……何でもない」


 フランツは慌てて振り返り、軽く言い訳をすると、またデスクに視線を戻した。手は緊張で震え、机の上の紙が微かに揺れていた。

 

 顔が赤くなっていたのだ。

 

 そこで、フェンリルはゆっくりとフランツの背後に近づいていった。


「こ、これでよろしいのでしょうか……旦那様?」


 突如として、フェンリルは彼の頭を撫で始めたのだ。

 

 彼女の手がフランツの頭に触れた瞬間、彼は驚き、硬直した。指先の温もりが彼の思考を遮り、心臓が高鳴る。そして、フェンリルの目はとにかく真剣そのものだった。


「……な、何を……する……」


 フランツは狼狽し、思わずフェンリルの手を頭から払いのけた。その様子に、部屋の隅で見守っていた執事のゴードンが思わず失笑した。

 

《ダメだ、もう何も考えるな。……このままだと、バレてしまう》


「……バレてしまう? 何のことですか?」

「な、何でもない」


 フランツはあからさまに、動揺の色を見せ始めた。思考を押し込めようと必死になるも、追撃のように彼の心の声が再度、露わになった。


《違うことを考えろ。仕事だ、仕事の事だけを考えろ》


 もはや、その作戦さえも周囲には筒抜け状態にあった。

 フェンリルはその不思議な状況に首をかしげ、興味津々な眼差しを向ける。そして、こう質問した。


「これ……本当に旦那様のお心の声なんですか?」


 髪を手で耳にかけながら、フェンリルは無意識に愛おしさを漂わせ、柔らかな声でそう尋ねた。目が長らく合った末、フランツの思考の中に一つの言葉が静かに舞い降りた。


《……かわいい……》


「……え? か、かわいい?」

「いや、違う! 違うんだ! これは俺の心の声じゃない!」

「……でも、いま確かに……」

「――あああ! もう話にならない! 今すぐに部屋から出て行け!!」


 言葉を遮り、全身で拒絶を示すかのように大声を張り上げた。フランツの顔は赤く染め上がり、視点は定まらない。


「は、はい……失礼いたします!」


 フェンリルが慌てて扉を閉め、その音が部屋に響いた。彼女の足音が遠ざかるのをフランツはただ黙って聞いていた。完全にいなくなったことを確認すると、ふっと力が抜けて深く息を吐く。そして、心の中で自分に問いかけた。


《……何をしているんだ、俺は……》


 フランツの頬はまだ赤らんだままで、心の中で葛藤が渦巻いていた。


《今まで、隠してきたのに……クールを演じてきたのに…………このままだとバレてしまう、本当はフェンリルを愛して、愛してやまないことが!!》


「その心の声も漏れ出てしまっておりますよ、フランツ様」


 と小馬鹿にするように微笑むゴードンに、フランツはイライラして言い返した。


「ゴードン、お前も早く出ていけ!」

「承知いたしました……しかし、これは良いきっかけとなったのではございませんか? フランツ様は以前から、フェンリル様の前で素直になれずにお悩みであったかと」

「そ、そうだが…………ああ、もうさっさと出ていけって!」



 その頃、フェンリルは理由もなく、広々とした廊下を歩き回り、無意識に頬を赤らめていた。彼に本心を聞くことができて、彼女自身の気持ちにも少し変化があったはずだ。

 

 この政略結婚は所詮、家族のためのもの。

 ハーデンバーグ家を救うためのもの。

 いつもそのことばかりを考えていたフェンリルだった。

 しかし、


 

 どうやら、それ以外にこの婚約を手放したくない理由が、新たにできたようだった。


最後まで読んでくださり、ありがとうございます!


*ちなみに、フェンリルが作ったミートパイのお弁当は、ゴードン経由でしっかりとフランツに届けられました。


ブックマーク、いいね、☆☆☆☆☆等で応援していただけると嬉しいです!! とても励みになります!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] フェンリルがめっちゃ尊い…。 こういう大人しいタイプのキャラ、どタイプです。 それとフランツのちょっとキツイ性格が、良いカップリング! [一言] 続きがとにかく気になるーー! 続編出して欲…
[良い点] Xでご紹介いただいたので気楽な気持ちで見にきたら刺されました。 とにかく登場人物がかわいい...尊いです。 フェンリルはめっちゃ素直で真面目でかわいいし...とにかくあいつですね...フラ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ