彼女を、待つ男
「携帯...貸してくれない?」
ベッドの中で、俺はそう聞いた
「携帯?」
サヤカは、俺の腕の中で不思議そうに聞き返してくる
でも、テーブルの上に置いてある携帯を取って、俺に手渡してくれた
「...ありがと」
それを受け取り、俺は幾つかの文字を打ち込む
自分の番号とメールアドレスだった
それらを打ち終わると、すぐにサヤカに返した
「これ、俺のプライベートの番号」
「え?」
驚いた表情
本当にサヤカは顔に出やすい
何となく、安心する
「いつものは仕事用だから、今度からは、こっちにかけて」
「...でも...いいの?そういうのって、良くないんじゃ...」
「んなわけあるかよ...気にすんなって」
...本当は、良くない
良くないけど、良かった
「...それに、この番号教えたの、サヤカだけ、だから...すぐ分かるから」
知っていて欲しかった
「いつでも、俺、呼んで」
俺の、想いを
「すぐ、駆けつける...」
俺の、決意を
「絶対...」
「...うん」
サヤカは、携帯をぎゅっと握り締める
愛しそうに
大切そうに
「そうする」
俺は、そんなサヤカを包み込むように抱き締めた
愛しく想いながら
大切に想いながら
ぎゅっと、ぎゅっと...
そして、彼女の耳元で囁いた
「愛してるよ...サヤカ...」
朝
陽の光に目が覚める
ぼんやりとした頭で、目に差し込む光を追った
どうやら、昨日の冷たい雨はあがったようだった
でも、次の瞬間ハッと、目が覚めた
何かが足りないような気がした
すぐに隣を見る
「...サヤカ?」
いない
ついさっきまでいたはずのサヤカがいない
「サヤカ!」
大きな声を出しても返事はない
返事が、返ってこない
「そんなっ!」
ベッドから飛び出て、裸のまま、ユニットバスを覗き込む
いない
当然キッチンにも姿はなく
バルコニーにも、サヤカはいなかった
もう一度、玄関の方に行くと、そこには、サヤカの靴はなくなっており
彼女が昨日着ていた服も見つけることができなかった
「どうして...」
どうして気づけなかったんだろう
どうして、彼女が出て行くだろうことに気づかなかったんだろう
俺は、ずっとサヤカと一緒にいたかったのに...
「くそっ...」
悔しさが募る
無力感に苛まれる
「...どこに、行ったんだよ」
改めて、ベッドに戻ると、側に昨日渡しておいた俺の服が綺麗に畳んでおいてあり
その上には、ちょこんと、俺の携帯が乗っかっていた
コールボーイは辞めた
サヤカがいなくなった、その日のうちに、上にはそう伝えた
多少なりと悶着はあったが、どうにか五体満足のままここにいる
まさか、本職の方達が出てくるとは思わなかったが、どうにかこうにか生きていた
良くも悪くも貯金が役立った
もしかすると、本気で早めに手を切っておいて正解だったかもしれない
少し安心
今は、また自動車整備の仕事をしている
前の職場とは違うところだけど、とりあえず今のところ大丈夫そうだ
収入は、半分以下になってしまったけれど、まだまだ頑張っていけそうだった
毎日毎日、汗まみれ油まみれススだらけになりながら仕事をこなしている
もう似合わない黒のスーツに袖を通す事もないし
ブランド物の靴も履いたりしない
香水なんてつけた日には、周りの連中に鼻を押さえられてしまうだろう
仕事仲間とは、毎日のように飲み歩き、バカな話や女の話で盛り上がっている
気のいいオッサン達である
自然、コールボーイなんてやってたこともネタに上がり、それを肴に冷やかされていたりする
そんな、暇なオッサン達だった
でも、当然だけど、サヤカのことは話していない
聞かれても話す気なんてサラサラない
なんで辞めたんだなんて訊かれたら、本職の人たちが出てきたからと答えるようにしている
...あの日以降、サヤカとは連絡が取れていない
電話は繋がらなくなってしまったし、サヤカの家なんて知る由もない
探したい、とも思ったが、それもしていない
時折、淋しさに胸が軋むけれど、我慢している
だって、部屋に置いてあった俺の携帯には、一通のメールが残されており、そこには、こう書かれてあったのだ
ごめんなさい
今日は、帰ります
あの人のこと、もう少しだけ頑張ってみようと思います
ごめんなさい
昨日は、抱き締めてくれて嬉しかったです
昨日のあなたの言葉、嬉しかったです
だからこそ、頑張れそうな気がしてきました
だからお願いです
電話は、かけないでください
もしも、かけてもらっても私は出ません
だから、決して、かけないでください
決して、電話に出られません
それと、もうあなたをお金で買うことはしません
今まで、ありがとうございました
さようなら
そう、書かれてあった
だから、その通りに、俺はサヤカに電話もメールもしていない
もしかしたら、連絡を取った方がいいのかもしれない
もしかしたら、サヤカは連絡を待っているのかもしれない
けれど、俺はしていない
俺はそんな、気の利いたことなんてできない
だから、ただ俺は待つことにした
ひたすら、待つことにした
この整備工場で
汗まみれ油まみれススだらけになりながら、待つことにした
頑張って、生きていくことに決めた
頑張っている彼女に恥じないように
いつの日か、彼女を正面から受け止められる男になるために
追伸
言い忘れていたので、私も伝えておこうと思います
私も、タクトの事を、愛しています
もしも、また辛くなってしまったら、つい、あなたのところに行ってしまうかもしれません
その時は、タクトを呼んでしまうかもしれません
タクトの携帯に、電話をかけてしまうかもしれません
けれど、その時は...ちゃんと、私の口から、あなたに伝えようと思います
こんなメールの文章ではなく、ちゃんと私の言葉で伝えようと思います
それでは、また
「お~い!タクト!携帯鳴ってるぞ~!」