迷う女
「そんなこともあったね~...」
店に入り、向かい合って座りながら話す
気づいた時は、お互いにビックリしていたが、昔の事を話しているうちに、今はもう普通に話せるようになっていた
自然に、二人の関係は教師と生徒になっていた
「あ、そういえば二人で食事するのも久しぶりね」
「そういやそうだな。金欠で食事もままならない時、よく奢ってもらってたっけ」
「そうそう。もう見るからに、高橋君元気ないんだもの。あの時ちょっと責任感じちゃったわ」
「なんだよそれ。先生が無理やり学校にいさせたんじゃないか。あの一年、かなり辛かったんだぜ?」
「それは、ごめんって...でも、絶対にその方が高橋君のためになると思ったのよ」
「そのおかげで、危うく栄養失調で死にかけるとこだったっつの」
「もう、ごめんなさいね。でも高橋君、たまに私にご飯をたかりに来てたでしょう?3年の時の担任じゃなくて、わざわざ私に」
「うっ。バレてた?」
「当然でしょう?私を何だと思ってんの?」
そんな風に、やや重たい内容ながらも、昔話に花を咲かせる
不思議と、遠い昔のことを懐かしく思えた
思い出すのが、一番辛い時期の話なのだが、そう感じてはいない
自分にも、昔を懐かしむ余裕くらいはあることが驚きだった
「ねぇ、少し訊いてもいいかな?」
話の途中、急に先生の口調がやや重くなった気がした
次の言葉が何なのか分かるつもりだ
「...いいよ」
だから、気にせず答えた
「その...怒らないでね?...今は、どうして?」
こんなことを?という言葉は続かない
でも、それは予想通りの言葉だった
「ほら、確か自動車の整備工場に勤めてたと思ったから...」
確かに、一時期は先生の言うとおりに勤めていた
でも...
「あそこは、辞めたよ」
正直に答える
どうせすぐに分かる事でもあるし、今の俺はこんなんだ
隠す意味もない
「...そう、なんだ」
余り驚いた様子はない
その理由を訊きたそうだったが、それ以上は踏み込んではこない
まぁ、仕事を辞める理由なんてわざわざ聞き出すことでもないとも思う
でも、それだって隠すようなことじゃない
「賭け事にボロ負けしてさ。借金しこたま抱えて、普通じゃ払え切れなくて、それでね」
「賭け事って、高橋君が?そんなの信じられないよ」
心底驚いているような顔だった
確かに、俺が賭け事なんて、昔では到底考え付かないだろう
「でもホントさ。毎日汚れて疲れて意味なくて。それで、一発逆転狙ってさ、でもあげくがこのザマだ」
自嘲気味に話す
似合いもしない黒のスーツに貴金属
適当に選んだブランド物の靴に、嫌いな香水
仕事はコールボーイ
なんて不相応な姿か
「あ、でもおかげで借金はもうないんだぜ?すごいよな水商売ってさ」
今では、本当に昔では考えられない金銭感覚をしていると思う
もう食事に困る事なんてないし、自分を着飾る余裕すらある
プレゼントもできるし、奢る事だってできる
何気に貯金だってそこそこある
何も不自由はない
昔みたいな、辛い日常はもうないのだ
「そう、なんだ...」
そう言って、うつむいてしまう
やっぱり訊くべきじゃなかった、とか思ってるのだろうか
そりゃ、教え子が水商売に走っているなんて思いたくもないだろうけど
「別に先生が気にしないでいいよ。これは自業自得だし、今はそれなりに生きているんだし」
「そう...」
先生の顔は冴えない
ずっと下を見たまま、俺と顔をあわせようとはしなかった
自分のせいなじゃないのか、とか色々考えてそうだ
この人は、いつもそんな風に抱え込むタイプだった気がする
おかげで空気が重い
これ以上は、話さないほうがいいか
「そろそろ出ようか?」
その問いに、ふっと気づいたように、先生は顔を上げる
その表情が少しこわばっているように見えた
俺はそれを気にせずに、ウェイターに指で×印を作ってチェックの合図を出した
「さっき言ったとおりに奢るよ」
「あ、でも、私...」
先生は財布から数枚のお札を出そうとしていた
「気にしないでくれ。昔のお礼だよ」
俺は先生を留めて、さっさとカードで支払いを済ませた
先生は、そんなやり取りを気まずそうに見つめていた
「駅まで送るよ」
「え?」
店を出ると、開口一番そう言った
先生は驚いているが気にしないことにする
「ほら、やっぱ教師と生徒はまずいでしょ」
「でも、それじゃ...高橋君が...」
「何を気にしてんだよ。俺はもう金に困ってなんかないんだ。一人二人相手にしなくても問題なんて無いんだよ」
本音だった
それに、俺としても、やはり気まずい部分があるのも確かだ
「...だけど、私」
言葉に詰まる先生
多分、先生も先生で、意を決して、ここに来たんだろう
意を決して、見知らぬ誰かに抱かれに来たのだろう
それが、何かに対する当てつけなのか何なのかは分からない
分からないが...
「止めたほうがいいよ。先生」
心からそう思った
「だって、旦那さんいるんだろ?なら、大事にしろって」
家庭ってのは、温かくあるべきだと思ったのだ
「ぁ...」
気づいてたの?と言わんばかりの驚きの表情
この人は、昔から顔に出やすい
まして、俺みたいに、人の顔色ばかり気にしているような奴からみれば、もうあからさまとさえ言える
「今日は、たまたま一人の問題児だった教え子に出会って、つい懐かしくって話し込んじゃった...そうしとけよ」
「............」
「住んでるのも、この辺じゃないんだろ?多分、誰にも見られてないさ」
「............」
「それに旦那さん。きっと家で待ってるって。先生を心配しながら、さ」
こんなとき、俺には気の利いた言葉は出てこない
そんなボキャブラリーはないことが恨めしく思う
それでも、自分が正しいと思える言葉を口にしたつもりだった
「...ぃわよ...」
「え?」
だけど、それは間違った言葉だったのかもしれない
その時の先生の顔を見て、なぜかそう思ってしまった
「...ないわよ。そんなこと」
「ないって、ああ、今日は旦那、仕事か?そうだよな。今時はどこも忙しいらしいし」
「違うわ...」
「...違う?」
自分で訊き返しておいて、既に何となく察してしまっている自分がいる
先生の表情とか、言葉づかいとか
今まで抱いてきた女の事とか色々と考えて
もう、とっくに気づいていて
俺の言った言葉は、単純に先生を遠ざけていただけではなかったか
「あの人、今日もどこかのホテルで...知らない誰かと...」
「だから、私...」
よくある話、だと思う
俺が相手をしてきた人の中にも、やはりそういう人が何人かいた
そんな狭い世界でも、俺は何度かそういう人と会ってきた
「今日は、そのつもりで来たの...」
何度か、そういった女達を抱いてきた
金を貰えるからと、抱いてきた
遠ざけることなく近づいていった
「だから、お願い...」
そう...
取れかかった仮面を、また張り付ければいいだけの話じゃないか
「私を、抱いて...」
ただ、それだけだ
先生を、優しく抱いた
努めて努めて、優しく抱いた
知りうる限りの優しいキスと、知りうる限りの優しい触れ方で抱き締め続けた
時折零れる喘ぎが、俺の心を締め付けた
締め付けられた心が、俺を先生に近づかせた
遠ざけていくべきだった先生を抱き寄せていた
途中、裸のままベッドの上で話をした
もう、教師は辞めていること
お見合いであったその人と結婚したこと
その人は悪い人ではなく、とても優しかったこと
けれど、子供はできなかったこと
どうやら旦那の方に問題があったらしいのだが、それが原因で気まずくなっていったこと
いつしか、旦那は先生以外の人との時間が増えていったこと
そんな...苦しい話をした
俺の腕の中で、先生はそんな話を俺に聞かせた
誰かに聞いて貰いたかった話を、聞かされた
もしかしたら俺は、そんな彼女の話を聞きたかったのかもしれない
だから、近づいてしまったのかもしれない
その話の後...俺は、彼女を強く激しく求めていることに気づいた
求める事に際限がなくなっていくことに気づいていた
仮面なんて、張り付きやしなかった