第5話 とある魔女の悲劇、または自業自得
ゴブリンの父と魚人の母から、この上なく醜い容姿と心を持って生まれた初老魔女、エリエ。
赤い月が地平線から顔を覗かせる頃に起床し、井戸水で顔を洗い、自らが信奉する蠅の王ベルゼブブへの祈りを捧げ、ラジオ体操をノリ良く踊り切ってから朝食を取る。これらの日課は、かれこれ四〇〇年近く、欠かした事もなければ順番を変えた事もなかった。
「今日も元気だコウモリが美味い!」
エリエが好きなものは三つ──生コウモリ、イケメン、イケメンを自分の言いなりにする事だ。
「さて、今日は久し振りに市場まで行ってみるかね。いい感じの物があったら頂戴して……ヒヒッ」
赤い月の光が地を照らし始める頃、エリエはホウキに跨ると、第1地区の東にある自宅から、第6地区と第7地区の境にある大型市場〈シャドウ&ライトマーケット〉へと飛んでいった。
「咲良じゃない」
「店長!」
〈シャドウ&ライトマーケット〉に買い物に来ていた咲良は、花屋の近くで偶然にもセルミアに出くわした。
「何買いに来たの?」
「わたしにも食べられそうな食材はないかなー、と」
魔界の食物は、とてもじゃないが積極的に口に入れたいとは思えないものが少なくないので、咲良はそれなりに苦労しているつもりだった──実際には何だかんだ言いながらあれこれ食べているのだが。
「あら、好き嫌い多いの?」
「あ……アハッ、ちょっとだけ。店長は何か買ったんですか?」
咲良は笑って誤魔化し、セルミアの持つトートバッグに目をやって尋ねた。
「蝋燭とロープ。この間の窃盗ゴブリンの時に使って切らしちゃったから」
「んんっ!? な、なるほどぉ~っ!」
「私はもう他に買うものはないから帰るけど、まだいるんでしょ?」
「はい、まだまだあちこち見て回ります」
「じゃ、先に。また明日ね」セルミアは小さく手を挙げた。
「はい~!」咲良も手を振って応えた。
セルミアが背を向け歩き出そうとした時だった。後ろから、左手にホウキを持った全身黒ずくめの女が余所見しながら歩いて来た。
「あ──」
咲良の注意は間に合わず、セルミアと女はぶつかってしまった。
「あ、ごめんなさい」
セルミアが反射的に謝罪の言葉を口にした一方で、女は醜い顔を更に醜く歪ませ、まるで親の仇と言わんばかりの形相でセルミアを鋭く睨み付けた。
──うわあ、めんどくさそう。
咲良は呆れつつ、醜い女と目を合わせないようにした。同じように感じたのか、セルミアはさっさとその場を去ろうとしたが、醜い女は舌打ちすると、わざと立ち塞がった。
「……何です?」
「気に入らないね!」
「は?」
「気に入らないって言ってんだよお!」
醜い女の怒号が響き渡った。周囲の魔界人たちが驚いて振り返る。
──うへえ……結構ヤバい奴だ!
咲良はすっかりドン引きしつつも、いざとなったらセルミアを助けるべく身構えた。
「気に入らない? 私、今謝りましたよね。それに、余所見していたのはあなたの方よ」
「……っ、あたしゃねえ! あんたみたいな女が死ぬ程嫌いなんだよ!」
セルミアが冷静に答えたのが予想外だったのか、醜い女は一瞬怯んだが、誤魔化すように更に声を張り上げた。
「ちょっと他よりマシな容姿してるからって調子乗りゃあがって! 偉大な魔女を舐めんなよアバズレが!」
「はあ!?」セルミアの白い額にうっすらと青筋が浮かんだ。
「何それ意味不明! てか失礼過ぎ!」咲良はセルミアの横に並んだ。「調子乗ってんのはおばさん、あんたの方でしょ!」
「そうよ、失礼よ!」
「とんだ言い掛かりだな」
「いい加減にしろよ!」
周囲からも次々と非難の声が上がると、醜い女は顔を真っ赤にして言葉を詰まらせた。
「おい」
灰色のシャツにジーンズ、白いフリルレースの付いたピンク色のエプロン姿という骸骨が、咲良とセルミアを庇うように割って入った。花屋の店主だ。
「これ以上ここで騒ぎ立てるようなら、ちょっと手荒な真似をさせてもらうよ」
醜い女は後ずさりしたかと思うと、陸上競技界からお呼びがかかりそうな物凄いスピードで逃走した。
「ホウキには乗らないんだ……?」
「畜生が……あんチキショーが!!」
〈シャドウ&ライトマーケット〉から数百メートル離れた閑静な住宅街の片隅までやって来ると、エリエは喚きながら地団駄を踏んだ。
「憎い……憎いったらありゃしないよ、あの銀髪の女!!」
エリエが嫌いなものは三つ──自分より美しい容姿の女、自分より美しい声を発する女、自分が脅しても怯まない女だ。
「次会ったらとっ捕まえて痛め付けてやんよ……しかしその前に、憂さ晴らししておきたいねえ……」
エリエは後方に建ち並ぶ住宅の数々を見やった。何処からか、子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。
「ヒヒッ! 丁度いいオモチャがありそうじゃないか」
エリエはホウキをそこら辺に放ると、両手の人差し指同士を合わせ、それ以外の指を曲げ、呪文を唱え始めた。すると、エリエの分身が次々と現れ、その数はあっという間に五〇を超えた。
「ヒヒッ、ヒヒヒヒッ! さあ、ひと暴れしようじゃないのさ!」
「ワ~オ、ジャパニーズ・ニンジャ!」
「んっ!?」
エリエたちが元来た方へと振り返ると、見覚えのある茶髪の小娘が、黄金色の郵便ポストに背中を預けるようにして立っていた。
「市場の人たちに聞いたよん、おばさん。あんた、衣料品店を中心とした、万引きの常習犯なんだってね! 盗まれたと気付いた時には逃げられちゃってるし、盗む瞬間をはっきり見た人はいなくて決定的な証拠もないから、どのお店も悔しい思いをしているって」
小娘はエリエに向き直ると、服の袖を捲った。
「さっき、あるお店の店長さんから有償依頼を受けたの。あんたを懲らしめたうえで、生きたまま引き渡してくれ、って。魔術師としての初仕事だから、気合い入りまくり!」
「ヒ……ヒヒヒヒヒッ! イヒャヒャヒャヒャッッ!」
エリエの本体が笑い声を上げると、分身も笑い出した。
「有償依頼だってえ? お前さんが何者かは知らないけどさ、そいつは無理だね!」
「わたし、魔術の名門に生まれて、ちっちゃな時から誰よりも強かったんだよ。名前は……リリーって事にしておいて。あんたみたいな奴には本名は名乗らない」
「んなこたぁどうだっていいさ! お前さんは今ここで死ぬんだからね!!」
エリエが咲良を指差すと、五〇体以上の分身が一斉に突進した。その中には電撃魔法や呪殺魔法を放とうとしている者もいる。
「ふーんだ」リリーは両掌を突き出すように構えた。「全部返品しまーす!」
分身たちはリリーの数メートル手前で一気に吹っ飛ばされ、消滅した。複数体から暴発した魔法が宙で弾け、大きな音を立てる。
「な……何だってえ!?」
「ただの反射魔法だけど?」
──そ、それにしたって一気に!?
エリエはあんぐりと口を開き、焦りと恐怖に体を震わせた。
騒音に気付いた住民たちが、家の窓や玄関から顔を覗かせる。
「あ、どうもお騒がせしておりまーす。ただいま犯罪者を捕まえようとしている最中でーす」
「くっ……!」
エリエはホウキを拾って跨ると、地面を蹴って数メートル飛び上がり──ストンと落下した。
「痛あっ!!」
「久し振りに使ったわ、妨害魔法。距離があったから、届くか不安だったけど」
リリーとは別の方向から、エリエが〈シャドウ&ライトマーケット〉で喧嘩を売った、月白色の肌の女が現れた。
「私は親切だから教えてあげるけど、今ので他の魔法も封印されたからね。反撃しようったって無駄よ」
「店長、ロープ持ってますよね?」
「勿論」
「市場の皆が待ってるから、早いとこ連れて行きましょ」
「そうね。でもその前に、重たいから小分けにしようかしら」
「住宅街でスプラッタ禁止ですよ!」
とびきりの笑顔を浮かべながら距離を縮めてくる、二人の若い女。
「あ……あひゃあああ……!」
初老の性悪魔女エリエは、その場で腰を抜かし、ただ恐れ慄く事しか出来なかった。