胡蝶と独我
胡蝶の夢。
紀元前の思想家、荘子。彼は自身が見た夢の中で、蝶となり羽ばたいていた。
何ものにも縛られることなく、世界を飛び回る。その時は、蝶として生きていることに疑問を持つことがなかった。
しかし。
ふと目覚めた瞬間、当然ながら、彼は人間の姿に戻っている。
さて、荘子は考えた。「自分が夢の中で蝶になっていた」のか、それとも「この荘子である自分とは、蝶のほうが見ている夢にすぎない」のか。
人と蝶。姿形は違えど、そのどちらも自身であることに変わりはない。荘子にとっては万物斉同、人が「現実」と呼ぶものも「夢」と呼ぶものも、見せかけに過ぎない。だから自身の思うがままに生きればよい。
そういう生き方を、荘子は「逍遥遊」と称した。
しかし人は、本当に彼が唱えたような理想を体現できるのだろうか。いや、できたのだろうか。
わたしの愛する、愛した弟の人生にも、そんな道があり得たんだろうか。
弟の大我は両親に愛されて育った。その点で、わたしとは違っていた。
「大我が全教科で100点取れたら、ゲームを買ってあげる。」
「ゲームは宿題を終わらせてから。一日一時間までね。」
「ゲームやインターネットなんかに目移りしないで頑張って。大我なら、もう1ランク上の大学を目指せるから。」
周囲の期待通り、彼は名門大の経済学部になんとか滑り込む。
母、坂下愛海は過保護だった。常に大我の行動を先回りして、監視し、口を出し、護り、弟の意思表示の機会を奪っていた。
ある種の虐待。
少なくともわたしの目には、そう映った。まあ親なんて本来そんなものかも知れないけれど。
小さな子供にも人格を認めるというのなら、母親には自制心が必要だった。
おかげで大我は、外面こそおとなしいものの、心の内で怪物を飼う性格に育っていった。
怪物が、どんどん大きくなる。
中学の移動教室で。
市立図書館の木製の机の下で。
ショッピングモールのトイレで。
結局、取り返しのつかないほど肥大したそれの存在を知っていた人間は、姉であるわたしだけ。
「坂下君。ゼミの担当として言うけれど、君はもっと意見を主張していい。」
「で、結局何が言いたいの?」
「発言はもう少し大きな声でお願いしたいんですけどね。」
心の内で何かが叫ぶ。
体が冷たく、熱くなる。
それでも彼は黙っていた。
縛る鎖が音を上げる。
お前らの見ている俺は俺じゃない。
俺はそんなもんじゃない。
わかった風な口を利くな。
独り暮らしの部屋の中、大我はデスクトップPCの画面と毎日向き合った。そうしているほとんどの時間、彼はオンラインゲームの世界を旅していた。
いや。当時大学生の彼にとって、それこそが人生だった。
彼は世界を飛び回った。
彼はそこで存在価値を主張した。
彼はランキングに載るくらい強かった。
そちらの世界での姿は、羽が生えた美少女。大我は自らメイキングを施したそれに、フーティエ、と名前を付けた。
意外にも、その「もうひとつの世界」を得たことで、元の世界での彼もまた少しずつ、良い方向へと変わっていった。
ゲーム内で知り合った仲間たちは「フーティエの」大学生活や就職活動を応援してくれた。
「それがどんな結果になろうと、俺らはフーちゃんの味方だから。」
「就職してからも一緒にやろーな!」
親からの仕送りの大半をゲーム内課金に回し、気が付けば15kgも痩せていた。おかげで肥満の身体に紐付けられた劣等意識も薄らいだ。
どちらの世界もまた、彼にとっての現実であり、虚構だった。
内なる怪物は鳴りを潜めている。それなりに美味い餌さえ定期的に与えていれば、バケモノだって飼い慣らせる。
今は好きなほうに浸かっていればいい。
しんどくなったら反対側へ逃げるだけだ。
大我の就職活動は、例に漏れず、まあまあの地獄だった。現代社会で誰しも通る道。それでも12社めで初の内定が出た。フーティエは、皆にお祝いの言葉をもらった。
元々の素材が良い。やればできる子。だって、わたしの弟なんだからね。
だからその後、ふたつの世界が壊れたのは彼のせいじゃない。
壊したのは、大我じゃない。
4月1日。彼はスーツを着て入社式へ向かった。
大学よりもさらに実家から離れた土地。両親から遠ざかるのが目的だった。引越しの手続きは3月の中旬までに完了していた。
顔を合わせる時間が激減したことで、親子の距離感はより適正な、本来あるべきものに近付いた。ように見えた。
もうあの家には戻らない。
俺は大人になったんだ。
自身に多少のプレッシャーを掛け、彼は新たな世界に足を踏み入れた。自立を求めて。
そして、5月のGW明け。彼の心はもう壊れていた。
弟から連絡を受け、わたしはスーツのまま部屋へ向かう。会社を休んだらしい。体調不良とだけ聞いていた。呼鈴を鳴らす。開いた玄関のドア。
「大我、来たよ。大丈夫? 少しは良くなった?」
わたしの姿を見た途端、彼はわたしの腰に縋り付いて泣き崩れた。
そっと抱き締め、寝癖のついた頭を撫でて、弟が落ち着いてから、ゆっくりと話を聞いた。
俺には「こっちの世界」は無理だった。
体も心も保ちそうにない。
ゲームの世界すら辛く感じるようになった。
ログインの頻度も時間も減ってる。
ただ呆けたようにスマホを開いて、Twitterをぼーっと見て、そうしたらもう次の朝が来る。
しんどいよ。お姉ちゃん。
もう全部やめたいよ。
助けてよ。
その言葉が、小さな部屋に響いた時、わたしまで涙が止まらなくなった。
「大丈夫。今まで、ごめんね。お姉ちゃんが助けてあげる。何でもしてあげるからね。」
言質。
その瞬間、大我はわたしを押し倒した。ブラウスの胸元を両手で引き裂いた。
抵抗はしなかった。何でもしてあげる、って確かに言ったから。
何度も、何度も、怪物がわたしの中で暴れ狂った。
「姉ちゃん、ごめん。痛かったよね。」
「うん。大丈夫、だから。ティッシュ取ってくるね。どこ置いてある?」
そんなことがあって以来、その関係はほとんど日常になった。
彼は少し元気を取り戻したように見えた。会社に復帰できたらしく、それを報告してくれた時はふたりで喜んだ。
弟が弱音を吐いた時。
わたしは彼の部屋に立ち寄る。
受け入れる。
怪物がおとなしくなるまで。
次第に要求は拡大していった。もっと痛いこともされるようになった。前も。後ろも。
首を絞められるようになった。「落ちる」瞬間が見たいらしい。
そうしてわたしが痙攣している時、きつく締まるそうだ。
数ヶ月の後。
ひとつの世界が閉じる。
ずっと放置していた、サービス終了のメール。
彼が居場所を求めて5年も旅したゲームの世界は、ログインすら疎かになっていたあの日、終わりを告げていたのだ。
呼び出され、また弟の部屋へ上がると、いきなり殴られた。
わたしはテーブルに側頭部をぶつける。こめかみの辺りを両手で押さえると、掌が血だらけになっていた。
「姉ちゃんが、忘れさせるから。俺のもうひとつの世界、終わってた。皆に、さよならも言えないまま!」
「ごめんね。大我、本当にごめんね。」
わたしが悪かったんだろうか?
あの日、受け入れてしまったから?
また顔を殴られた。口の中から、もごもごと折れた歯が出てきた。
痛い。
また涙が、血と混ざって流れ落ちる。
「姉ちゃん。俺、もう終わりにしたい」
何を?
ねえ、大我。
終わりにしたいって、何を?
「そうしたら、姉ちゃんも一緒だよね?」
あ。
そういうことか。
だったら。
「お姉ちゃんは、いいよ。大我がそうしたいなら。」
「姉ちゃん。」
「泣かないで。大我は頑張ったよ。ほら、おいで。」
真っ赤な手を差し伸べる。それを彼が握り返す。
暗い居間。
そこに首吊りのロープはもう用意してあった。
彼が震える脚で、椅子に上る。
「大丈夫。大丈夫だからね。」
わたしが確りと弟の首に括り付ける。
部屋は静かになった。
ふたりが顔を見合わせる。
ふっと緊張が緩む。
「姉ちゃん、考えてみたらさ。俺、姉ちゃんに名前も付けてあげてなかったね。」
「ふふっ、今更? どっちでもいいよ、そんなの。」
「どんな名前が良かった?」
「うーん、あっ。『ニコ』はどうかな?」
「ニコ?」
「楽器にあるじゃん、二胡って。」
そっか。
わたしには名前すらなかったんだ。新鮮な気分。
「俺が死んだら、姉ちゃんも消える。」
「それは間違いないね。」
「この世界も?」
「『大我にとっての世界』なら、そうなるね。」
彼が鼻をすする。
「じゃあさ、独我論なんだよ。結局、この世界はさ。」
「わたしには『ニコ』なんて名前付けちゃったけどね。最後の最後に。」
「それって、これって俺の願望? なのかな?」
「どうだろうねえ。」
荘子が言う。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。
「大我、準備できてるよ。いつでも。」
「うん。じゃあ、えーと、バイバイ。」
「それって誰に?」
「とりあえず、この世界に、って感じかなあ。」
「じゃあ、すべてに、だよね。」
「うーん、そういうことか。でも、姉ちゃんだけは違うから」
「えへへ。ありがと、って言って、いいのかな?」
彼が笑った。
わたしも笑う。
笑顔のまま、ふたりで椅子を蹴飛ばす。