久々の里帰りと白い犬と彼のよすが
ソフィの父親のポニーへの情熱を満たすため、私はマルゴー一家を連れて自分の実家に戻った。
アンナにはクラルティに残って貰う事になったが、彼女は一軒家の女主人になって自宅で編み物や刺繍をする毎日が殊の外楽しいらしく、簡単にいってらっしゃいと私に手を振った。
さて、私達は私の生家に辿り着いたはよいが、我が両親はまだアフリア子爵家に滞在中ということであった。
「ごめんなさいね。連絡が上手くいかなかったみたい。」
「連絡自体していなかったんじゃないの?」
私はおほほと笑って見せ、呆れ顔のソフィを筆頭にマルゴー一家は直接に客間に案内された。
女中頭のマーサにはちゃんと連絡しておいたから、マルゴー一家は朝早くから今までの行軍の疲れを癒すために心置きなく休んで頂けるだろう。
そして私も久しぶりの自分の部屋に戻ったが、私は眠ることなど出来なかった。
ベッドから起き上がると部屋を出た。
明日向かう女子修道院にあるだろう母の墓に添える花を見繕おうと考え、庭の温室へと足を踏み入れたのである。
「お嬢様お帰りなさいませ。」
温室の奥から声があがり、見返せば、真っ白くなった豊かな髪をして口元を完全に隠す髭に覆われた顔を喜びに輝かせている恩人の姿である。
「ダン!」
私は庭師のダンに駆け寄っていた。
執事のエヴァンが苦難を乗り越える知略を授ける人ならば、庭師のダンは人生には苦難があっても人の温かみばかりだと教えてくれる人である。
「こらこら、お嬢様。単なる召使いにこんな仔犬みてえに抱きつくものではありません。わっちのような年寄りは嬉しさで心臓が止まっちまいます。」
「まああ!お上手ね!それで、それで。」
私は話を続けようとして、ダンに寄り添うようにして立っている白い影に気が付き言葉が詰まり、背筋にはぞわっと冷たいものが走った。
ジョゼはヤスミンが出兵する時に、侯爵が引き取ったのでは無くて?
私は庭師のダンの横に当たり前のように寄り添う影について、とても信じられない思いで見つめることしか出来なかった。
「どうしました?お嬢様?」
「あなたの横に見えてはいけない白い犬のお化けが見えるの。」
ダンは自分の横の白い犬を見返し、それから腹を抱えて笑い出した。
「ひでえや。お化けなんて言いざま!こいつはモグラに鼠と、庭には悪いものを全部引っこ抜いてくれた素晴らしき犬だというのに!」
自分より小さな動くものを全て狩るとヤスミンが言っていたなあ、と思い出し、貴族の家の中庭や温室では救世主でも、首都の公園では阿鼻叫喚を引き起こす魔の犬だったろうと想像した。
首都の公園は大貴族様の元荘園を改造したもので、敢えてホロホロ鳥やリスなどを景観の為に放し飼いしておりますもの。
私は空恐ろしいばかりの犬の頭を撫で、どうして我が家に、と呟いていた。
「お嬢様あての荷物にくっついて来たんですよ。」
ジョゼは私宛の荷物にくっついて来たとダンは言い、荷物を運ぶ郵便馬車の後ろをひたすら走ってついて来たらしいと聞いて、私のジョゼへの恐怖は最高潮に達してしまった。
初めて会った日のヤスミンが、ジョゼの姿を見た途端に仰け反って、ジョゼの存在に脅えて見せたわけだわ。
「まあああああ!」
私の脅え声に対し、ジョゼは狂気を宿した暗い瞳で見返して、微笑みながら大きく尻尾を振った。
ああ、本当に大きい。
子供の頃も可愛くなかったけれど、体高が高くなってさらに恐ろしい外見だわ。
「こいつは本当に美しい犬ですねえ。」
私はダンの言葉にジョゼを見返した。
体が普通の犬の半分も無い細さに、鹿みたいに細くて長い長い足という、不気味でしか無い姿は数秒前と何一つ変わっていない。
それなのに、ダンはうっとりした様にして、優しい手つきでジョゼの背中を撫でているのである。
ジョゼはまた私に対して、ふへ、という風に笑って見せた。
あんたの大事な人はあたしの良い人になったさあ。
いかんいかん、そんな声など聞こえるわけ無い。
「で、そ、その荷物とは何かしら?」
「エヴァンが侯爵家から送ってきたものですね。この犬っころが離れないんで、わっちが預かっとります。此方ですよ。」
私はダンの案内されるままに温室の奥に進み、ダンは自分が作業部屋としている小部屋のドアを開けた。
「冬んなると寒くっていけねえや。勝手にわっちがここに住み込んでいるのは内緒ですよ?」
作業道具もあるが、小型の簡易ベッドに着替えが吊るしてある様子から、ここはダンの私室の一つにされているのだと気が付いた。
その部屋の床の真ん中に小型の木箱が置いてあり、その真横にダンが作っただろう犬用のベッドが置かれている。
「バレたところで誰もあなたを責めませんし、それどころか屋敷の部屋を使ってくださいと頭を下げに参りますわよ。」
ダンは屋敷に部屋がある召使いでなく、敷地内に建てられた小屋を住居として与えられている人である。
勿論その小屋は造りはしっかりしているし暖炉も台所もある。
だからダンが別宅をこさえたのは、彼の小屋が冬には寒いからではなく、その小屋から屋敷に通うのが億劫なだけという事だろう。
「だから内緒ですって。わっちはわずらわしいのは嫌なんです。小屋まで戻るのが大変ねって、マーサが温かいスープを持たせてくれなくなっても困る。」
「ダンったら。」
ダンは彼の部屋の中へと進んでいき、部屋の真ん中に置いてあった小箱を持ち上げると直ぐに私の所へと戻ってきた。
私に木箱を捧げる彼の顔は真面目そのもので、私はエヴァンが送ってきたというそれを急に受け取りたくなくなった。
ジョゼが離れたがらない、それ、よ?
箱には軍の名称がペンキで書かれているじゃない?
「お嬢様?」
嫌だと思いながら私は箱を受け取っていた。
帽子用の箱よりも小さい、忌まわしさしか感じない木箱。
「お嬢様?わっちが開けましょうか?」
「いいえ。大丈夫。」
大きく息を吸い込んで覚悟を決めて、手の中の箱を見下ろした。
よく見て見れば、木箱には軍からのものだと一目でわかる文字が紺色のペンキで書かれているが、箱の上部に貼られた送付状はエヴァンの手によるものだ。
そして、彼が書き込んだ宛先は私なのだ。
「エヴァンが私を苦しめる選択などするはずはないわ!」
意を決して上部の蓋に手をかけ、封印と一緒に剥ぎ取った。
私の心臓は止まるどころではない。
「ああ、エヴァン!」
中身は、軍から侯爵家に送られてきたであろう、ヤスミンの私物であった。
白いシャツと階級章。
たったそれだけ?
私は箱の中に顔を埋め、彼のよすがを嗅いでいた。
けれどヤスミンの匂いなんか一つも感じられないどころか、石鹸とオレンジの香りがほのかに感じられるだけだった。
彼が汚れ物を残すと思って?
「ああ、どこまでも憎い男だわ!」
「くうん。」
ジョゼの声はなんと悲しそうなものなのか。
この子にはこのシャツからヤスミンを感じる事が出来るのね。
私は箱の蓋を閉じると、その箱をダンに再び手渡した。
「お嬢様?」
「これはジョゼにあげましょう。私は生きた中身が入っていない男物シャツなどいらないの。」
ダンは体を揺すって笑い声を上げ、でもすぐに彼は私を自分にそっと引き寄せて、泣いてしまった私の背中をトントンと叩いてくれた。
「お嬢様が男を想って泣くなんて、わっちこそ失恋で胸が張り裂けそうだ。こんな男の胸で良ければ、いくらでも使ってくだせえ。」
「ダンったら。あなたは最高の男性だわ。」
私はダンの胸を思いっ切り借りた。
ヤスミンの胸にいつ帰れるのだろうと思いながら。
「そいつが帰って来たら、わっちが殴っても良いですかい?」
「鞄に車輪を付けてあげないよって言った方が彼は傷つくわ。あなたが作ってくれたあの鞄、彼はもの凄く気に入ってしまっていたのだもの。」
「ハハハ。嬢様はまだまだ子供で鬼っ子だ。」
私は思いっきり彼の腕の中で泣き笑った。
明日はもっと泣くだろう。
だって、お母様のお墓に初めて行くのだもの。




