お化けな犬とヤスミン
自分の上半身を裸にさせた男は、自分が全ての女性の褒美だと言ってのけた。
その上で、私に傲慢に微笑み、私に喜べありがたがれと言う風にして手を差し伸べてきたのだ。
確かに彼の上半身は美しい。
競走馬の鍛え抜かれた美しき筋肉の躍動があるようにして、胸は張り、腹は贅肉など見つからないぐらいに締まっている。
それもごつごつした筋肉ではなく、舞台の上で踊るダンサーのようなしなやかな体つきなのである。
神話の中の登場人物、美しい青年の代名詞ともなったアダンを模した彫刻が国立美術館に飾られているが、その有名な像のような肉体美だと言えるだろう。
私はヤスミンが差し出したその手に自分の右手を差し伸べて、思いっきりその手の平をばしんと音を立てて叩いた。
傲慢で不埒な男に罰を与える気持で!
「いっつ!」
「きゃあ、痛い!」
「何をやってんだよ、お前は。突き指しなかったか?」
「もう!なんて硬い手なの、あなたは!」
「ハハハ。硬いのは手以外にもあるんだ。」
ヤスミンは今度はズボンのウエスト部分を少しだけ伸ばし、私はそれも脱ぐのかと慌ててヤスミンを突き飛ばした。
全くびくともしなかったが、ズボンからは彼の手は外れた。
「あなたのお尻なんか見たくありません。」
「お尻なんか見せるか。前を見せてやろうとしただけだ。」
「ま、前?」
「うはっハハハ。本気でわかっていないのか。互いに知らないことを教え合うって関係も良いものかなって思うんだが、どうだろう?」
私は突然に穿ったことを言い出した男をまじまじと見返してしまっており、彼の方は最初から冗談でしか無かったのか、私にウィンクをして見せると腰を軽くスウィングして見せた。
「もう!あなたったら裸ん坊でふらふらして。慎みはないの?」
「慎み?長い軍隊生活でそんなものはとうに捨て去ったさあ。」
ヤスミンは私から踵を返すと、鞄の取っ手を再び掴み、右足を引きずりながら再び廊下を歩きだした。
そんな彼の横をトトトと白い犬が寄り添い始め、私は彼らの後を追いかけた。
犬は時々ヤスミンを見つめ、ヤスミンはそんな犬の頭を時々撫でる。
「ねえ、あなた方は仲がよろしいし、あなたはその子を悪魔って呼んでいらっしゃいますけれど、可愛がっていらっしゃるわよね?それなのにどうして飼うっておっしゃらないの?」
ヤスミンは私の言葉を聞くや振り向き、髭が無ければ形の良い口元を、髭だらけで台無しにしている以上に歪めてさらに台無しにした。
「こいつは犬じゃない。ワイヤーで出来た犬の亡霊だ。」
私は犬を見直し、確かに痩せてボロボロと最初は思っていたが、普通に他の犬とは違い、長すぎる脚と細い体をしていることに気が付いた。
垂れた耳と尻尾の先だけ飾りみたいに毛がフワフワしているところが可愛らしいが、ヤスミンの言う通りに見れば見る程に見たことの無い奇妙な体の犬である。
「ついでに言えば、こいつはまだ仔犬だ。親犬は大型の猟犬サイズだったよ。それでな、戦地でちび助だったこいつは、ガキの癖に国境を越えて俺を追いかけて来たんだ。怖いだろ?どんな体力だよってな?」
「まあ!」
犬を見返せば犬も私を見つめており、普通の犬よりも無感情に見える瞳をしている気がした上に、この子は私と目が合うと、うはっと笑った。
人間みたいな表情だと怖く感じ、確かに亡霊みたいだと思った。
「確かに、ちょっと怖い子ね。」
「ひどいな、お前。なあ、恩人に酷い奴だよなあ、ジョゼ。」
犬は大きな声で、ワン、と鳴いた。
「名前を付けているじゃないの!飼っているんじゃないの!」
「煩い。大声で喚くな。こいつが俺の飼い犬だって近所にバレたら困るだろうが!俺はな、朝の五時に起きて犬の散歩なんかしたくないんだよ?大体な、俺はこいつを前の家に置いて来たはずなんだ。こいつに猫みたいな自主性が育って欲しいと願いながらね。ほら、猫は家に憑くって言うじゃないか。そうしたら、獲物を持ってきましたって顔でお前を連れてやって来たじゃないか!違う方向に進化しやがったと、俺がこいつに怯えた気持ちが分かるか?」
「それって凄い無責任だわ!酷い人ね!ちゃんと飼ってあげなさいよ!」
「じゃあ、明日からマルファがジョゼの朝の散歩を担当するか?」
「ま、まああ!犬を猫のように飼うって、とっても前衛的で革新的な試みだと思うわ!流石!ヤスミン様ですわね!」
「ふ、ははは。本気でマルファはろくでなしだ!さあ、洗濯室に着いたぞ。汚れちまった俺達はここで身ぎれいになろうか?」
ヤスミンは木の扉を開けた。
洗濯室と呼ばれた部屋からはオレンジの香りが広がり、いいえ、私の目の前にはガラスでできた屋根と壁という、サンルームが出現したのだ。
サンルームの中には、葉を青々と茂らせて、輝ける橙色の実をたわわに実らせたオレンジの木が一本植えられていた。
木の幹には白いロープの端が縛り付けられており、そのロープはサンルームの壁にぴんと張っている。
また、洗濯したばかりだろう白いシャツや下着やタオルがロープに掛けられて旗みたいにして揺らいでいたが、その風景はなんだか楽しくて清々しく感じた。
「まあ!夢みたいなお部屋ね。」
「だろ?家の最新化に金がかかったが、俺はこの木に惚れちまったんだから仕方がない。売主の魂胆に負けたって事だ。俺はこの木を手に入れるために、売主の言い値のまに大金と手入れの労力を差し出したって黒星な話だけどな。」
「いいえ、黒星なんかじゃなくてよ!分かるわ!私もオレンジが大好き!良いお買い物をなさったって思います。」
室内なのにオレンジの木の葉がざわざわっと揺れ、天井となるガラスを通して青い空から太陽の光が室内に差し込んだ。
気が付けば鞄を置いたヤスミンは木に向かって歩いており、彼は手が届く位置の枝からオレンジを一個もぎ取った。
私が彼の傍まで歩いていくと、彼はその一個を私に差し出した。
「ほら、今日のボーナスだ。」
さらっと前髪が揺れて、彼の彫りの深い両目を露わにした。
目尻に笑い皺を寄せて私に笑いかける彼の表情がとても優しいもので、こっちの方がボーナスみたいだ、そんな風に思ってしまった。