洗濯室への道のりで
「洗い物続きで洗濯も覚えようか。鞄を持ってついておいで。」
ヤスミンは台所から先へと進んでいき、私はテーブルの自分が座っていた椅子の足元近くに放ってあった自分のトランクを慌てて持ち上げた。
重い鞄で体が四つん這いになるぐらいだったが、頑張って鞄を床に引き摺らないようにしながらヤスミンの後を追いかけた。
ただでさえ私は重石を抱き上げている上に、通常時の私の歩きよりも右足が悪いはずの彼の足は早く、彼はどんどんと廊下を先に行ってしまう。
「お待ちになって!」
ヤスミンはピタッと足を止めると私に振り返った。
「あ、ありがとうございます。」
私は今のうちだと鞄をさらに持ち上げて、ヤスミンのいる場所までヨタヨタと歩いて近づいた。
「鞄を持ってくださらないの?ではないんだな。」
「わ、私の荷物ですもの!この家は自分のことは自分でするのがルールなのでしょう?」
「学習能力の高い子は好きだよ。そういう子には褒美が必要だな。」
ヤスミンはひょいっと私の手から鞄を奪い、私の鞄の重さを知ったからなのか、鞄をまじまじと見下ろした。
「底に車輪がついている。」
あ、彼が気になったのはそっちの方なの?
でも、鞄の車輪については私の自慢であるために、私は胸を張った。
「自分で運べるだけなら着替えを持って行って良いって言われたの。だから、持っていた一番大きなカバンに車輪を付けたの。これなら私でも引き摺って行けるでしょう?」
「確かに。」
ヤスミンの口元は悪巧みを企んだ子供のような笑みを作り、前髪で隠れてしまったあの焦げ茶色の瞳もきっとキラキラ輝かせているんだわ、と私は思った。
そうしたら、彼の次の言葉が少々待ち遠しかったが、彼の口から出た言葉は普通の普通でしか無かった。
「ここでも鞄を引き摺ればいいじゃないか。」
「床が傷んでしまうわ。」
「それも確かに。悪たれの癖に普通の返しでつまらないな。俺に鞄を持たせる策略だったと答えるかと期待したんだけどな。」
「まあああ!」
「ほら、洗濯室に急ぐぞ。」
身軽になった私は簡単にヤスミンの後をついていくことが今度は出来たが、ヤスミンは私の重い鞄など重さを感じないようにして持ち運んでいて、いえ、私を彼の左に並ばせているので、右手に鞄の取っ手を持って車輪を使って鞄を引き摺っていた。
「楽しそうね。」
「ああ。俺の鞄にもこれを仕込んでくれ。」
「私は考案しただけよ。あとは庭師のダンがやってくれたの。それから鞄の中身についてはね、私が持っていくお洋服の吟味もみんなでしてくれて、出来る限り私が長生きできるようにって、考えてくれたものばかりなのよ!」
ぴたっとヤスミンの足が止まり、私はどうしたのかと見上げたら、彼は左手の指先で私の目元を軽く拭った。
私は泣いていた?
「ご、ごめんなさい。泣き虫で。」
「マルファはいくつだ?」
「じゅ、十六、です。昨日十六歳になりました。」
「で、追い出されたと?勝手に涙を拭って悪かったな。」
「え、いいえ、拭って下さって、あの、ありがとうご――。」
私の頭にぽんと私の涙を拭ったヤスミンの手が乗り、彼の手はぐいっと自分の体へと私の後頭部を引き寄せた。
「泣いていいよ。泣いてしまえ。俺も家をおん出された時は泣いたよ。」
「あ、あなたも、追い出されたの?」
「ああ。親父が死んだその日に、腹違いの兄に出て行けと家を追い出されたね。この家は今日から俺のものだから、下賤な女の息子は出て行けってさ。そん時の唯一の救いはさ、ハハハ、母がとうに亡くなっていたってとこだ。」
ヤスミンの告白から、良家の男の子達が必ず学ぶオクタヴィアン叙事詩を彼が知っていた理由を、私はしっかりと理解することになった。
理解しただけでなく、そんな家の子供だった彼が、私と同じようにして家を追い出される苦難を経験していたなんて!
「まああ!あなたはお辛かったんですね!」
私の両目から涙がどばっと吹き出して、ヤスミンは私を慰めようとするのか、さらに私を自分の方へと引き寄せた。
「なぜ、両手を突っ張る。」
「だって、あなたは臭いもの!その匂いがついちゃうじゃない!」
ヤスミンはちぃっと舌打ちをして私から腕を外した。
それで、そして、汚れたシャツを脱ぎ捨てたのだ。
私が驚き見守る中で、彼は脱いだばかりのその汚れたシャツを鞄の上に置き、次いで、上半身が裸となった彼は私に手を差し伸べてきたのである。
「ほら、慰めてやる。」
「あなた?本気で、紳士について、真摯に学ばなければいけないようよ?」
ヤスミンは私の言葉に対して鼻でふっと笑うと、右手で自分の煩い前髪を持ち上げて後ろに流した。
額まで露わにさせたヤスミンの顔は、小汚い髭で口元から顎が煤けていたとしても、端正どころか初めて魅力的だと私自身が思った程の恰好良さだった。
父のような、美しい、じゃない。
王者のような風格のある格好良さなのである。
そんな素顔を私に晒した男は、自分の顔の素晴らしさを知っている顔で私ににやりと微笑んで見せた。
喜べ、という風に左腕を差し出してもいるのだ。
「俺の体は世にいる女性達の憧れらしいぞ?さあ、おいで。」