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伯爵令嬢と育てられましたが、実は普通の家の娘でしたので地道に生きます  作者: 蔵前
第八章 我思い我考える 我が幸せのみを
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君が女の子で良かった

 ヤスミンは笑いながら私のお道具箱の中身を色々と手に取って喜び、何かとっても気に入ったものを見つけたかのように目を輝かせた。

 彼は次いで、私の筆の中から勝手にペンを抜き出すと、紺青を溶かしこんで作った真っ青なインクを手に取ったのである。


「こんなきれいな青色のインクは初めて見たよ。」


「私が作ってみたものなの。装飾用に。」


 彼は私のインクがよほど気に入ったのか、懐から結婚証明書用の無地用紙を取り出して私に尋ねてきた。


「試し書きをしていいかな?」


「駄目と言っても試してしまいそうね。いいわよ。」


「ハハハ。」


 ヤスミンは早速という風にペンにインクを付けると、その用紙に自分ではなく私の名前を書いたのである。

 マルファ・ローズブーケ、と。

 ソフィに自己紹介した時の事を揶揄っているのかしら?


「私はただのブーケよ。」


「俺はローズを君に捧げたい気持ちなんだよ。ヘロヘロ文字なんか俺には書けないからな。」


 バラを私に?

 私はヤスミンへの期待にごくんと唾を飲み込んだが、彼は特に意味があって私にバラを捧げたいわけでは無かった。

 単なる思い付きでしか無いようで、彼は続けて自分の名前を私の名前の下に書き込んだのである。


 ヤスミン・ウルスダンラフォレ?


「ヤスミンさんは森のくまさん?」


「お前のせいで間抜けなクマだ。で、この青は綺麗な色だな。紫がかった暗い青。ラピスラズリみたいな色だ。どんな毒性があるんだ?」


「紺青はそのままでは無害よ。でも、熱を加えたりアルカリ性のもので溶かしたら、シアンという危険なガスが出る可能性はある、かしら。」


「おお怖い。お前がこいつを持って俺の家のドアを叩いていたら、俺はお前をどうしたんだろうな。いや、俺の家のドアを叩くまでもなかったか。これらを担いだお前なら、画家としてその日のうちに独り立ちできていたのかもしれないね。どうしてこれらの何か一つでも持って来なかったんだ?」


「持って出て行けるのは自分が持てる着換えだけ。そう言われたから。」


 私の肩にヤスミンの右腕が回された。

 それで、ぐいっと私は彼に引き寄せられ、私の耳に彼は囁いた。


「大丈夫なのか?あの夫妻は浅はかすぎる。自分の感情と自分の立ち位置しか大事じゃない奴らだろ?お前を愛してはいるようだがな、親としてはどころか、大人としての及第点も与えられない人間にしか見えないぞ?」


 私はヤスミンの肩辺りに頭を擦り付けた。

 まるでジョゼがするみたいだ、と思ったが、彼の胸に寄りかかって頭をぐりぐりと彼の胸に擦り付けるのは気持良かった。

 心がほわっと温かくなるのだ。


「大丈夫。」


「この雛鳥が。それでこれから取り掛かるのか?」


「いいえ。だって、結婚証明書の偽造はここでは出来ないわ。いくら信用している召使いしかいないと言っても、フェリクスの将来がかかっている大事なものでしょう。知っている人が少ないにこしたことはないと思うの。」


「それもそうだな。じゃあ帰るか、あの家に。」


 帰るかと聞かれて、私の胸は幸せでほわっと温かくなった。

 あの家が私にとって帰る家だとヤスミンは言ってくれたのだ。

 私は彼の胸に頭をさらにぐりぐり擦り付けた。


「ハハハ、犬ごっこは止めろ。俺が抱いている子は犬じゃなくて、可愛い女の子だって思い出させてくれよ?」


「女の子って、私は小さな子供じゃありませんわ。」


 私はヤスミンを見上げた。

 ヤスミンは私を見つめていた。


「確かに、小さい子供ではないな?」


 まるで宝物を見つめているような、幸せそうな優しい笑顔だった。

 先ほどとは違う、またあのキスをして貰える?

 私は昨夜の彼のキスを思い出し、胸と腰と下腹部の辺りが、きゅう、と締め付けられるような不思議な感覚となった。


 え?下腹部が?きゅう?


 その次に、足が痺れていくような鈍い痛みも引き起こされた。

 重石が詰まったような痛みが、どんどんと下腹部に押し寄せてくる?

 あ、もしかして。


「あ、あの、ヤスミン。私は今すぐ帰りたいですけれど、一週間は私はここから動けないかもしれませんわ。あの、急にお腹が痛み始めて、あの、きっと、あの。」


 ヤスミンは、ああ、と溜息交じりの息を吐くと、左手で顔を軽く拭った。

 それから私を抱き締める右手に力を込めた。


「言わなくていい。その先は聞かなくてもわかる。」


「ええと、部屋に閉じこもることになるから、偽造はここでできる、かも?」


「良いよ。あんまり無理するな。君の月のものが終わったら家に帰ろう。」


「ええ。オレンジのあるあの家に帰りたい!」


「俺達の洗濯室がある、な?」


「はい!」


 ヤスミンは無邪気な笑みをして見せた。

 その次には私へと首を伸ばし、私の唇を奪った。

 お腹がさらにきゅうとなっても、いつもの痛みをなぜか忘れた。

 私はそのぐらい夢中になってヤスミンの唇に応えていた。

 私の口の中で、やばい、とヤスミンが呟いた、気がした。


 だから私はヤスミンが逃げないように彼の体に両腕を回してしがみつこうとしたが、彼が私の腕を捕まえる方が早かった。

 私の両手首は彼の両手にそれぞれ掴まれ、そして彼は私から唇を離した。


「ヤスミン。」


「最後には俺は君を置いて出ていく。それは変わらない。」


「ヤスミン。」


 ヤスミンはまっすぐに私を見つめていた。

 いつものふざけた感じは無く、彼の瞳は私を真っ直ぐに見つめているのだ。

 私が逃げ出したくなるくらいに。

 だって、そんな視線は、心の底からの告白をする時のものじゃない。


「だけど約束しよう。」


 やめて。


「俺が死んだら俺のものは全て君にあげる、と。」


「それ、それじゃあ、私をあなたのものにして。」


 彼は微かに笑うと、私の額にキスをした。

 子供にするようなキスを与えた男は、私に謝った。


「ナルシストな男ですまない。」


「ヤスミン?」


「お前が俺を思って不幸な独り身になるのは辛すぎる。」


「一生独り身でも、あなたを愛せた記憶で一生幸せかもしれなくてよ?」


「愛し合ったせいで一生空っぽになるかもしれないだろ?俺のせいで?いや、俺のせいでそうなるだろうって俺に思わせておいてくれ。」


 ヤスミンは私の鼻のつけ根に軽く唇を当てた。

 そこから私の鼻先まで唇でなぞり、そして、私の唇に唇を当てた。

 一瞬前に受けたキスとは違う、まるで離別のようなキスだった。


 いいえ、離別そのものね。

 彼は私に囁いたのだ。

 ごめん、と。


「君が今日女の子の日になって良かった。そうじゃ無ければ俺は君を自分のものにして、そして、いざという時に旅立てないと君を恨むことになっただろう。」


「酷い人。私こそあなたを恨みたいわ。でも恨んじゃいけないのね。恨む事も許してくれないのね。」


 私の額に優しい唇が落ちた。

 彼は私の手を放すと、私を自分に抱き寄せて包むように抱き締めた。


「君の幸せが一番だ。俺への愛など忘れてくれ。だがその代わりに、永遠に俺を憎んでくれるのは構わない。」


 私は彼の体に両腕を回した。

 彼が旅立つまで、何度だって抱き締めよう。

 彼を永遠に憎しみ続けられるように、彼の体を忘れてしまわないように。

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