そこに愛があるならば
ヤスミンは私にもう少し侯爵の相手をして欲しいらしい。
だが私はもううんざりだ。
いや、私の手には偽造用の材料があるのだから、さっさと仕事に取り掛かりたい、というのが本心である。
結局私は絵を描くのが大好きであり、特に贋作作りが大好きなのだ。
赤と黒の油絵の具に同じ割れ目が出来ない乾燥の仕方を考えたりと、新たな方法を編み出すことが楽しくて仕方がないのだ。
ちなみに、古い油絵が贋作かどうかの簡単な見分け方が、前述したとおりの赤と黒の絵の具の割れ目が繋がっているかどうか、である。
その理由は、油絵の具は色によって乾燥速度が違うため、乾燥しすぎて表面にひび割れが出来る時期が色によって違うからだ。
つまり、経年によって引き起こされるはずのクラッシュが、絵の全体に同じクラッシュとして繋がっているという時点で、その絵は、おかしい、のである。
「説得はどうした?マルファ!」
「ごめんなさい。続きはあなたがして下さる?私はもうお話する事は無くてよ。侯爵様は偽造に関わりたくないし、自分がそれに関わってると誰にも思われたくはない。そのお気持ちは了解しました。さようなら、ですわ。」
「ちょっと待て!お前はそれでいいのか?フェリクスが一生この糞兄をお父さんと呼べない子でも可哀想だとは思わないのか?」
「エマが再婚なされば良いのよ。再婚相手をパパと呼べます。あなたの交友関係で優しくてお金持ちの方はたくさんいらっしゃるんじゃないの?その方々の誰かを紹介したらいかが?」
「お前は血も涙もない女だな。そうか鳥系だったな。可愛い雛鳥だと思っていたが、実は凶悪なハゲワシ系の雛鳥だったか!死体の骨を欲しがるわけだよ!」
むう!
どうして私が責められなきゃいけないの!
それでもって、あなたは骨に拘り過ぎ!
私の願いはそういう意味じゃ無かったことはご存じの癖に!
私は破れた紙を掲げると、ヤスミンに分かるようにひらひら動かした。
ほら!材料はあるんだから勝手に偽造しましょうよ、って合図だ。
しかしヤスミンには通じなかった。
両腕を胸の前で組むや、ぷいっと私から顔を背けたのである。
「も、もう!ヤスミンったら。侯爵は表立って認める事が出来ないから私達に勝手にしなさいっておっしゃっているって受け取るのよ!いえ、それが真実だと思うわ。だって、いくらでも破れるのに、一回しか破らなかったのよ!」
「あ、馬鹿!」
ヤスミンが慌てた様に叫んだ一瞬、私の手から大事な紙は奪われた。
侯爵が手を伸ばして私の手から紙を奪い、そのままビリビリと破り始めてしまったのである。
「まあああ!」
細かくビリビリに破いた男は、あとでエヴァンに叱られそうなぐらいに、ぶわあと紙くずを周囲にばら撒いた。
侯爵によって破かればら撒かれた紙の残骸は、ひらひらと花吹雪の様に私達の間を舞った。
「なんてことを!エマのサインには意味があったかもしれないのに!」
「そんなものは無い!そして、わ、た、し、は、暗喩も言外の意思も君に託していない!す、べ、て、認められない、そう言っておるのだ!」
「まあああ!十二年前のご自分のお気持ちを無い事になさるのですか?」
「偽造されたら無いもの同然だ。十二年前の気持自体が嘘になる。」
「無くなったりしませんわよ。何をおっしゃるの?時間を逆行させるだけですわ!十二年前のお気持ちを目に見えるものにして出現させるだけです!十二年前に結婚を心の底から神に願って誓ったのであれば、それはその時に結婚は成立したと私は考えますもの!」
「私がそうでもエマは違うだろうと言っているのだ!あれの気持ちが十二年前には無いのだから、十二年前の結婚証明書こそ存在しないものなのだ。」
「違いません!」
え?
あら、侯爵も驚いた顔で固まった。
私はどうしてエマの叫び声が聞こえたのかと、エマの叫び声が聞こえたヤスミンがずっと寄りかかってた壁の方を見返した。
壁に穴が開いていた。
四角い穴は召使いの通用口であり、エマはその小さな通用口から身をかがめながら部屋へと入ってくるところだった。
ヤスミンのエスコートを受けながら。
彼がそこにずっといたのは、エマが盗み聞けるように開けた扉で出来た隙間を隠す壁になるためでしたのね!
エマは完全に室内に入ると、ヤスミンの手を簡単に振りほどいた。
そして両手を胸に当てて、こんなにも拠り所のない姿をしているエマは初めてだが、彼女はよろよろと覚束ない足取りで歩きながら私達が座る応接セットに近づいてきたのである。
「エマ。」
「オーギュスト。あなたは本当に十二年前のあの日、私との結婚を考えていらっしゃったの?」
侯爵はきゅっと唇を噛みしめ、だがすぐに、そうだ、と答えた。
エマは胸元に当てていた手を顔に当てて顔を覆った。
「なぜ言って下さらなかったの。私はいつだってあなたにハイと答えたかった。あなたを愛しておりましたのに!」
侯爵は再び唇を噛みしめた。
彼の膝にある両手は拳となっており、強く握られたそれは震えていた。
取り返せない十二年への憤懣を握りしめていらっしゃるのか。
ポンと、私の肩に男性の手が乗った。
見上げればヤスミンで、彼は私にウィンクして見せた後、エマを見返して、それはもう、適当ではすっぱなセリフと声を上げたのだ。
「言ってやるな、エマ。こいつはヒヨコ並みに運動能力がない奴なんだよ。行動の速いデジール家と違う。ベッドを出て戻ったら、短気なお前に逃げられていて、そのまま傷心で意固地になった馬鹿者なんだからさ。」
どん。
ティーテーブルの天板が侯爵によって殴られた。
ヤスミンに煽られた侯爵は、初めて感情が見える眼つきと顔付をしていた。
「ヤスミン!そんなにしたいならやってみろ!失敗したら貴様が監獄に行け。成功したらいくらでも死地に行け!」
ヤスミンはこれからダンスをしようと誘うようにして、右手を胸に当て左腕を横に開いての挨拶をぴょこんとして見せた。
「かしこまりました。お兄様。」
そして体を真っ直ぐにすると、まあ!ベストにもう一枚入れていたのね!それも侯爵家のエンボス加工のある本物の用紙の方を、ヤスミンは右手に持って私達にひらりと見せつけたのである。
彼はその用紙を兄の方に差し出した。
契約の悪魔のような顔をして。
「さあ、署名をしてくれ。俺達のより良き明日の為に。」
「俺達?お前の処刑執行証ともなるだろうに?」
ヤスミンの笑みは崩れなかった。
崩れたのは私の未来の足元だけだ。
そうよ。
フェリクスが侯爵の嫡子となれば、後継者で無くなったヤスミンは戦場に戻ってしまうじゃないの。
ヤスミンと歩む未来が、私から、消えた。




