お片付けを覚えようか
ヤスミンの家での仕事が決まったからか、私はとても気持が安らいだ。
だから、スープをすっかり綺麗に平らげた時には、体中がぬくぬくと温まって、頭の中がふわふわしてきたのだろう。
「ここで寝るな。」
「ま、まあ!御免あそばせ。」
ヤスミンは自分の口元を右手の指先で拭うそぶりを見せ、私は慌てて自分が涎でも零したのかと口元を押さえた。
……乾いている。
「アハハ、騙された。さて、お嬢様?お部屋に案内しましょうか?」
「え、ええ!」
しかしそこで私のお腹がぐうと音を立てて鳴った。
お腹はもう空いていないのに?
慌てて両手で自分のお腹を押さえた。
なんて恥ずかしいの!
自分の耳まで恥ずかしさで真っ赤になったのがわかるほどだが、ヤスミンは笑うどころか心配するような声を私に掛けたのである。
「胃が痛くなったか?」
「え、いいえ。ごちそうさまって勝手に鳴っただけ。」
「はは。頑丈だな。安心した。では皿を片して部屋に、だが、片すには、……。」
ヤスミンは急に黙り込み、数秒後に、ハアと溜息を吐いた。
「どうなさったの?」
「マルファは皿など洗った事は無いよな?」
「まあ!どうしてお分かりになるの!」
あ、思いっ切りガクッと頭を下げた。
その上、思いっ切り長い長い溜息を吐き出したじゃないの!
「これでどうして女中仕事ができると思ったんだ?教養はあっても知性が全く育っていないじゃないか。」
「聞こえてますわ!お願いしますから、私にお皿洗いを教えて下さらないかしら?ヤスミン様?」
ヤスミンは軽く笑い声を立てると席を立ち、私にも立つように手ぶりをした。
あ、そうか、私が彼の雇われ人となるから、座らせられた時みたいに彼は私の椅子を引いてくれないのね。
私は慌てて席を立ち、するとヤスミンは、彼の右手の人差し指をとんとテーブルに打ち付けて見せた。
「え?」
「皿を持って。」
「え?」
「我が家は自分で出来ることは自分でするがルールとなる。君は自分の空になった皿を流しまで持ってこようか?ほら、君の相棒は既に出来ている。こいつは空気を読むのだけが上手い気もするがな。」
私が床を見下ろすと、悪魔の犬が自分の器を咥えて掲げていた。
少しだけ悔しい気持ちになったが、テーブルから自分の使った器を持ち上げると、私が使ったグラスはヤスミンが手に取った。
「まあ!お優しいのね。」
「割れ物は上級者が担当する。こいつは高いクリスタルなんだよ。」
「まああ!」
私と犬はヤスミンの後をついて行き、ヤスミンが流しと呼んだ場所にまで数歩歩いた。
しっかりとデジール家の台所を見返せば、ルクブルール家の厨房よりも最先端であることに驚いていた。
「まあ!ラブレー伯爵夫人が自慢していた新しいタウンハウスと同じ、ガスコンロに温水が出る水道ですわね!」
「わお。ラブレー伯爵夫人を知っていたとは。」
私はしまったと思い、自分のお喋りな口の唇を噛みしめる勢いで口を閉じた。
ヤスミンはグラスを流しに置くと、私の顎を右手で掴んで持ち上げた。
「どうして口を閉じた?君の身の上がかなりのお嬢様だったのは事実だろう。どうして俺に元の家の家名を教えてくれないのかわからないが。」
「い、家の恥ですもの。それで家が台無しになってしまったら、そこで働く人達の仕事が無くなりますわ。ですから、そこを秘密にするのはお許しになって。」
「見上げた忠誠心だ。いや、立派な主君の器と言うべきか。」
ヤスミンは私の顎から手を引くと、その手で私の頭をさらっと撫でた。
その手つきはとても優しく、私はポカンと彼を見つめてしまった。
「なんだその目は。」
「いいえ。」
それから彼は何事も無いように私の手から器を受け取ると、流しの水道を開けて水を流し始めた。
「まず、流しの中にあるタライに水を入れ、この粉せっけんを少量その水に溶く。後は皿をこのタライの中でこの海綿を使って洗う。」
彼は自分の言葉通りの行為をして、今度は泡だった皿やグラスを水道の綺麗な水で泡を落としていき、台の上の布巾を敷いたところに並べて行った。
「あとは拭いて片付けるだけ。で、」
ヤスミンは足元の犬の口から器を取り上げると、その器も洗い、人間が使った皿とは違う場所に置いた。
「犬と人のものは混ぜるな、危険、だ。」
「わかったわ。」
そうして私が見守る中で、彼は洗ったばかりの人間の皿やグラスを拭き始め、拭き終わったそれらを棚に片付けた。
「どうして飯を与えた俺がここまでしなきゃなのか納得できないが、食器洗いについては理解したな?」
「ありがとうございます!ええ!理解いたしましたわ!夕食の時の後片付けは私がやりますわね!」
私が意気込んだと言うのに、ヤスミンは、あ、と言って私を見返した。
まさに、失敗した、という感じでだ。
「も、もしかして!デジール家では一日一食でしたの?それも具のないスープにパンだけですの!って、痛い!拳で頭をぐりぐりされるのは止して!」
「失礼だからな、お前は!こっちはお前の体を慮ってのあれだというのに!」
「ご、ごめんあそばせ!でも、そうしたら夕食はどうなさるの?」
私へのぐりぐり攻撃を止めたヤスミンは、ふうと寂しそうな溜息を吐いた。
まるで足元が崩れてしまった人が吐くような、そんなため息だった。
「どうかなさったの?」
「お前が飯を作れるわきゃないし、我が家の最新コンロを駄目にされたくないし、とくれば、俺に夜遊びを禁止させて俺が夕飯を作るしか無いだろ?」
「まあ!なんて立派な雇い主様!って痛い!頭をぐりぐりするのは止めて!」
ヤスミンを優しいなんてどうして思ったの!
この人凄く乱暴よ?