願い事をしてみようか?
第七章となります。
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ありがとうございます。
私はヤスミンから手渡された結婚証明書を手に取ると、その全景像をぼんやりと眺めた。
眺めるしか無かった。
知っていた事とはいえ、ヤスミンとブランディーヌの結婚証明書は、重石となって私の心をずしっと押しつぶしてくれた。
「あなたが誰とも結婚しないのはブランディーヌ様への。」
「違うな。」
意外にあっさりとした声に驚き、私はヤスミンに振り返った。
ヤスミンは私に顔を向けてはいたが、彼の視線は私の手の中にある彼の結婚証明書にだけ注がれていた。
「ブランとの結婚は、あいつを看取ってやるためだ。それに必要だろ。あいつの為の弔い合戦とかさ。あいつから奪われた生きる権利の代りの賠償請求とかさ。」
「ヤスミン。」
「ハハハ、あいつはそんな俺をよくわかっていたよ。だから結婚を承諾してもね、俺に自分の持ち物を全く残さなかった。ナルシストの俺が自分の形見を抱いて死ぬのが嫌だってね。」
「素敵な人ね。」
「そうだな。だけどな、俺はあいつの形見があの家とこの結婚証明書だけになっちまった。持ち運べるサイズの形見がこれだけだ。あいつが書いた、今にも死んじまう弱々しい情けない文字のあいつの名前だけになっちまった。こいつは絶対に捨てられない。それで、俺と結婚した女が一人残されてさ、今の俺と同じ気持ちになると思うとな、絶対に結婚など出来ない。」
ヤスミンの戦場に戻るは絶対なのだ。
完全に覚悟を決めている人なのだ。
「ヤスミン様は自分のベッドに連れて行く気が無い女性には誠実である。」
「そういうことだ。」
私の頭は気持が重くなるごとに下へとさがっていき、私の左隣に座るヤスミンは、私を慰めようというのか、右手で私の頭をさらっと撫でた。
いや、いつもと違いその手は私の頭をゆっくりとなぞり、私のうなじを指先で軽く撫でた後に、私を手の中に収めるようにそこで手を止めた。
私は彼の腕にもたれる事も出来るだろう。
望むならば。
彼の笑みはそう言っている。
「ヤスミン。」
「お前は可愛いよな。面白くって目が離せない。」
「ま、まあ!」
そこで彼は微笑みを深くした。
ソフィやフェリクスやジョゼに向ける、私がずっと見つめていたいと考えたあの笑顔、父親のような優しい微笑みとなった。
違う。
その顔を小さな子に向けているあなたを見つめたいだけで、私をその目で見て欲しくないが私の真実なのよ!
「本当に可愛いよ。何にもできないから心配で目が離せないが、何にもできないから、何にも出来ないままにしときたいって思ったりもね。俺が消えたらお前が餓死しちまうのはわかる。ハハハ、ガキを持つってこんな感じなのかねぇ。」
「ひどいわ。」
本当に酷い。
これは私の分かりすぎる恋心への返礼なのだろう。
私の気持ちは受け取れない。
彼には私が子供にしか見る事ができない。
オレンジの木の下で彼が私に約束してくれた、巣立つまで見守るって気持ち、彼は変わらずそのままなのだ。
私は再び下を向き、自分の膝をぼんやりと見つめた。
バルバラが用意してくれた真っ白な木綿の寝間着は、長い裾とラッパ型の袖口には刺繍があり、まるで花嫁のドレスみたいだ。
そう思った途端に、胸に大きな杭が刺さったような痛みを感じた。
私は自分が花嫁衣装を着る夢想を一瞬だけしてしまったのである。
相手は、ああ、相手は!
ああ、私はやっぱり彼の花嫁になりたいのか。
ぽつっと雫が布地に落ち、白い布地に小さな雫の染みを作った。
私の肩にヤスミンの腕が回され、私はヤスミンに引き寄せられた。
温かな彼のしっかりとした硬い胸。
柔らかみが無いから私を本当は受け入れてはいないような気にもなる、いつでも戦場に出られるために鍛えられた彼の体。
「マルファ。こんな男の為に君が泣くんじゃない。君に魅力が無いからじゃない。俺は結婚を考えてはいないんだよ。誰ともね。」
「――それはわかったわ。泣いてもいないわ。泣くわけなんか無い。」
ヤスミンはクスッと笑いながら私の涙を指で拭ってくれた。
ついでのようにして私の鼻先を軽く摘まんだ。
小さな子ども扱いしかしない彼に苛立ち、私は彼の手を振り払った。
「それでこそ俺のヒヨコだな。さあ、話を戻していいか?君は兄とエマの結婚証明書に押す教会印の偽造は出来るのかな?」
「それは簡単だわ。」
「さすがだ!ではやってくれるか?」
「望むものをくださるのなら。」
「ハハハ、やっぱり悪辣ヒヨコだ。何が欲しいんだ?」
「何でも言っても良くって?」
「何だっても。」
結婚と言ったらどうするつもりなの?
ああ、死が簡単に二人を別ってくれるわね。
ああ、その前に先に結婚はできないと言っていたわね。
じゃあ恋人?
愛も無い契約上の?
彼はわかっているのだろうか?
私が彼を愛しているからこそ、私が彼に何も望めなくなっているという事に!
それなのに、ヤスミンはさらに追い打ちをかけてきた。
私の頬を両手で包んで来たのだ。
「マルファ?どうした?お前はいつも自分の欲しいものが分かっているはずだろう?ご飯が貰えないと死んじゃうと叫ぶ雛鳥みたいに、俺にあれだこれだと言ってくるじゃないか?」
私はそれぞれの頬に当たるヤスミンの手に自分の両手を重ねた。
そして、彼の両手がもっと自分の頬に張り付くように押し付けた。
「マルファ?」
「……しい。」
「マルファ?」
私は失いたくないとヤスミンの手をぎゅっと握った。
そして、彼に強請ったのだ。
「全部が欲しい。あなたが持っている物を、全部。」
全部が欲しい。あなたが持っているあなたの魂も何もかも、全部!
「欲しいのは、俺の……もの?」
「そう。あなたが死んだら、あなたの持ち物を全部私にちょうだい。」
「俺が死んだら?」
「だってあなたが戦場に行くのは絶対なのでしょう!」
あなた自身が手に入らないのならば、せめてあなたのよすがを!
「骨だって物よ!あなたの遺体も私の物だわ!」
甘いだけのヤスミンのチョコレート色の瞳はぱっと煌き大きく見開かれ、そのすぐ後にぎゅっと眉根を潜めて出来た影のせいでただの茶色の瞳になり、その次には私には何も見えなくなった。
こつん。
ヤスミンは私の額に自分の額をくっつけた。
「ちくしょう。俺の心は欲しくないのか。この強欲物欲ヒヨコめ。」
「ほ、欲しいと言って簡単に心を貰えるような安い男はいらないわ。」
「確かに。ハハハ。ああ、そうだ、全く!俺のヒヨコは真理のヒヨコだ!」
私の額から温かな彼の額は取り去られ、私の視界は再び明るくなった。
私の目の前には、私を見下ろすいつものヤスミンの顔。
いつもの視線を受けた途端、なぜか私は凄くホッとした。
だが、いつものヤスミンに戻ったのならば、彼は自分の欲しいものを的確に手に入れる事が出来る男でもある。
いつもの悪戯っ子のような笑みを顔に貼り付けると、再び彼の目的物を私の目の前にひらひらと動かした。
「お前に何かをくれてやるのは止めにした。お前が俺から奪うゲームの方が何倍も俺もお前も楽しめる。そうだろう?俺の心を奪ってみようか?」
私はヤスミンを睨みつけた。
それから偉そうに顎を上げて、今度は見下す視線を与えた。
まあ!かえって喜ぶって酷い男だわ。
「まあ、残念な方ね。簡単に偽造できる教会の認定印なんかで心をくださるの?全く食傷気味だわ。」
そこで言葉を切って、人を小馬鹿にするようにおほほと笑って見せた。
完璧なる偽造結婚証明書を仕上げる事について、一番の難問をこれからヤスミンに私は突きつけるのだから。




