森で熊さんに遭遇
私とイモーテルは馬車から降りると、親友同士の貴族の娘がするように腕を絡め合い、ピクニック会場へと歩きだした。
するとそれを合図にしたように、私達の乗っていた馬車に控えていたらしき下男達がさっと現れて馬車の馬に纏わりついた。
彼らは馬車の馬を馬車から外して移動させ始めたので、せせらぎなど何一つ聞こえないが、この近辺に馬を休められる小川のような場所があるのだろうと考えてほっとした。
だって小川が無ければ、私達のトイレに困るではないですか。
ヤスミンの家が快適なのは、おまるが不要のトイレだからでもあるわよね。
ガスコンロに気軽に洗濯ができる洗濯室。
ヤスミンの家は以前に住んでいた伯爵家よりも、実に実に快適なのだわ。
「俺よりも家か?と言われたら厳しいわ。」
私の口を勝手に出た独り言を、イモーテルは勘違いしたようだ。
彼女は私の言葉に対して自分の思う事を吐きだした。
「私は家なんかどうでもいい。爵位が無い方がずっといい。手が荒れていたって、土塊を弄っている時は誰にも馬鹿にされなかったもの。」
「あなたは働き者ね。あの彼も働き者なんでしょう?」
「働き者でも、あいつは嘘吐きだよ。私は戦争から帰って来たばかりのどこかのせがれかと思ったんだ。見た事が無かったけど、お父ちゃんは知っているようだったし。それなのに子爵だなんて。ああひどい!貴族様が土塊なんか弄っているから、私は騙されたんだ!」
「領主は農家だもの。作物の出来について研究している方は多いのよ。」
「ハハハ、私は物知らずだね。それで?世間に詳しいあなたは家を選ばれるの?」
「家を快適にしてくれる人かしら?」
「ああ、それはそうだね。お父ちゃんは優しかった。お疲れってね、お母ちゃんの肩を揉んでたりしていたよ。私もお父ちゃんみたいな人が良い。そんな結婚生活が良いって思っていたのに。」
ぐすってイモーテルは鼻を啜り出し、私は彼女を自分に引き寄せて、空いている手で彼女の頭を撫でた。
この子はルクブルール伯爵家の人とは違う。
きっと貴族の令嬢として育っても、心優しさや我慢強さがあるから、素晴らしき令嬢になったのだろう。
たぶん、私以上の。
「私が不幸だったのは、あなたという偽物が娘に成り代わっていたからなのね!」
母の金切り声の言葉が頭に響いた。
私と母が不幸せな親子だったのは、いいえ、母が女主人であろうとすることさえも投げ出すようになったのは、私という異物がいたからかもしれない。
そうよ。
母だって私が生まれる前は女主人をしていたはずなのよ?
「最初から取り換えっこ無かったら良かったわね。」
「いいや。私は父ちゃんと母ちゃんがいい。あの本当のパパとママは綺麗だけどおっかねえだけで嫌だ。」
私はなんと意地の悪い女だろう。
実の娘に両親が否定されたことで、一瞬前の罪悪感が和らいだなんて!
「まあ!それは認めるわ。」
私の賛同した声にイモーテルは目を丸くし、それから私を慰めるように私の手を掴んでからおずおずという風に尋ねてきた。
「マルファは大変だった?沢山怖い思いをなさった?」
なんて優しいの?
私の罪悪感が戻って来るわ!
「で、でもそんなに怖くないのよ?怖がりなのはあちらの方なの。お父様なんか時計が一分遅れているだけで怒り出す小さな人よ?自分が遅れたのに時計のせいにして時計の管理をしている召使を折檻するような人なの。で、ですから私は父の大事な用がある時は、家中の時計を三十分早めるように召使いに命令したのよ。そして遅刻だって父が大急ぎで家を飛び出したら、時計を全部元通りにしなさいとね。」
「え?」
「遅刻しなければ怒らない。それだけの人よ。お母様は都合が悪くなると寝込むのよ。ですから、寝込まれたら苦みのある野菜スープを作って差し上げるの。彼女は苦いものが苦手ですの。だから、出来る限り野菜の臭みや苦みを残すようにと料理人に伝えるのを忘れないで。短くてその日の午後には、長くて二日で必ず音を上げられます。ほら、扱いは簡単で怖くないでしょう?って、あら?どうなさったの?」
私にしがみ付いて落ち込んでいた少女は、私から腕を剥がして、私から二歩ぐらい離れた場所に逃げてしまった。
「イモーテル?どうなさったの?」
「あ、あんたは帽子屋で聞いた通りに、こ、怖ええお人だったんだな。」
「あら?」
「わ、私はエマさんとこに先に行く!」
金色の美少女は、本気で怖いものを見たという風に駆けだして行ってしまったのである。
彼女の後を私達の影として付き添っていたアンナが追いかけ、しかし、アンナは私を追い越す時に私に訳ありな視線を流すことを忘れなかった。
私はイモーテルを追いかけることなく足を止め、芝居がかった声をあげた。
「あら、まあ!どうした事でしょう。」
「可愛いヒヨコだと思っていたのに、そのヒヨコさんの足が蛇をひねり潰していたって知った時の恐怖かな。」
クスクス笑いの心地よい低い声。
私が大好きな声がした方へと期待を込めて振り返ると、乗馬服姿が素敵でも髭で台無しなヤスミン様が木にもたれて立っていた。
彼は私と目が合うと私の方へと進み出て、当り前の様に私に彼の左腕を差し出してきてくれた。
私は当たり前のように彼の腕に自分の右腕を絡ませた。
少々どころか胸が膨らむような幸せを感じながら。
腕を絡ませ合った私達は、まるで二十年来の友人のように歩き出した。
「それで君は家なのかな?俺なのかな?」
「まあ!盗み聞き?」
「リサーチだよ。俺は元軍人なんで、情報収集が趣味なんだ。」
「まあ!では質問に答えますわ。あなたの家が快適すぎて、あなたとお家のどちらを選ぶか悩んでしまいます。ガスコンロに蛇口をひねればお湯が出る水道!夢のようだわ。でもあなたが住まう場所は全部きっと同じようになるのでしょうから、ええ、あなたからは離れられませんわね。」
「ああ!あのイモーテルの方が良い女だ。家を快適にするの意味が全然違う!俺のヒヨコはどうしてこんなに血も情けも無いのだろう!」
「だってあなたは私の頭をぐりぐりするばかり。肩揉みなんてあなたにして頂いた事は無くってよ?肩揉みって、そんなに全てが快適に感じるぐらいに気持が良いものですの?」
ヤスミンはピタッと立ち止まり、私に謝ってきた。
「――すまん。」
私は珍しい事もあるのだと彼を見上げれば、彼は右手を顔に当てて思い悩んでいるような姿となっていた。
「どうなさったの?私へのぐりぐりを反省なさっているの?」
「ちがうよ、馬鹿。男の脳みそは連想ゲームが好きなんだよ。ちょっとした単語に反応して暴走するんだ。その度に理性でストップを掛けなきゃ野獣の出来上がりだ。面倒なんだよ、男は。」
「あら、大変なんですね。では私がお疲れさまって肩を揉んであげましょうか?」
ヤスミンから牛のような唸り声が発せられた。
それから彼は低い低い脅すような声を出した。
「ヒヨコ?俺に首を絞められたくなかったら、今すぐイモーテルの後を追いかけな。俺はお前のせいで連想ゲームが制御できない危険水域まで暴走し始めちまったようだからな。少し頭を冷やしたい。」
「まあ!私で出来る事は何でもいたしますわよ?」
「お前は煽るな!」
「きゃあ!」
ヤスミンは安っぽい声で私を怒鳴った。
それからすぐに私から自分の腕を乱暴に引き剥がすと、両手で私の肩を掴んで私の向きをグリンと変え、私の背中を軽く押した。
行け、という風に。
「もう!」
「さああ、走れ。森は野獣の住処なんだよ。走って逃げろ!」
「もうおかしなヤスミン!」
私は彼の言う通りにするしか無いだろう。
本気で不機嫌な声を出しているのだもの。




