ほっとする台所にて
ヤスミンは無教養なだけで優しさはある男だった。
泣き喚く私を台所の椅子に座らせると、すぐに綺麗なタオルを手渡してくれた。
ほかほかと温かいタオルはお湯で濡らしてあるもので、私はそのタオルで汚れた顔を拭った。
顔から臭い匂いや汚れが落ちていくごとに、私の気持ちも少しずつ解されていき、そのうちに台所で立ち働くヤスミンの背中を眺めはじめ、伯爵家の厨房で働く料理人の背中をこうして眺めていた事を思い出した。
両親は私に愛情らしきものは見せなかったけれど、伯爵家の召使い達はみんな私に優しかったと思い出したのだ。
そうしたら、淑女でいることに拘るよりも、彼らの仲間入りした方が幸せなんじゃ無いのか、なんて考えが湧いて出た。
そうして私のしゃくりあげていた呼吸が整った頃には、ヤスミンによって木の器に盛られた温かいスープが目の前に差し出されたのである。
透明な薄茶色のスープの中には小型バゲットの厚切りしたものが中心に置いてあり、そのパンの上にはチーズがたっぷり乗っているというものだった。
昨日から食べていない私には輝けるごちそうで、私のお腹はググウと大きな音を立てて鳴った。
「昨日から食べていないなら、少しずつ口に入れて、ゆっくり呑み込め。でないと腹がひっくり返るからな。」
ヤスミンは私に木のスプーンを差し出し、私がそれを掴むと私の斜め対面になる椅子に腰を下ろした。
「あ、ありがとうございます。」
「いいよ。」
私は早速とスプーンで砕いたパンを口に入れ、すると、頬が痛くなるぐらいにじゅわっとスープが口の中にしみ込んだ。
「ああ、美味しいわ。」
「良かったよ。で、君は仕事も家も無いんだな。で、家事も出来ないのに、君は女中になろうとしていたと?」
「君ではなく、マルファです。いえ、本当の名前はイモーテルらしいのでイモーテルの方が良いのかしら。でも、言いにくいし、あの香りはあまり好きじゃないので、マルファでよろしくてよ?」
「――。俺に対してはデジール様と呼んでくれるか?」
「やはり女性のお名前っぽくてお嫌いなのかしら?」
「――。ヤスミンでいい。それで、誤魔化さないで答えてくれ。君は何の考えも無く、金もないその身の上でふらふら町を歩いていたと言う事なんだな?」
温かい食事を貰えたのだから私は感謝をするべきなのに、同じテーブルについて私を面談をする男の口調が私を罵っているようにしか聞こえないことで、私の中でメラメラと反抗心が湧いてしまっていた。
「返事は?」
「考えも無くなんて!お部屋の掃除もハンカチーフの洗濯も寄宿舎で学びました。ですから、食事は作れませんが女中仕事は出来ると思いましたの。だって、女中仕事は分けられているものでしょう?台所女中が屋内の清掃は致しませんし、小間使いが掃除や洗濯などしませんわ!」
だが、自分で声に出して言ってみたそこで、館の召使いには一番の下層の仕事をする者がいた事を私は思い出したのである。
「ああ!おまる担当は嫌です!ああ!お仕事が出来なかったらその係ですわね!そうですわね、おっしゃる通りです!私は考え無しだったかもしれませんわ!」
「ああ。」
ヤスミンの、ああ、は、私の言葉に対する相槌というよりも、頭が痛い人があげる唸り声に聞こえた。
額に手を当てているのだから、その見立てで間違いないだろう。
きっと足も痛むのかもしれない。
ヤスミンは、戦争で大怪我をしているらしく、右足を大きく引き摺っている。
それで将来への不安と人寂しさが相まって、結婚を思いついたのね。
「あの、差し出がましいかもしれませんが、結婚相手をお探しなら、親交のある方からの紹介が一番ですわよ?」
「俺が募集したのはそういうお相手じゃ――、いや、そう、そうだね。」
ヤスミンは私の言葉を打ち消しかけたが、急に真面目な顔で肯定し、そのすぐ後にまた両手で自分の頭を掻きむしり始めた。
頭が痒いの?虱?
どうか、彼の頭の虱が飛んできませんように。
私の祈りが通じたかのように彼は頭を掻くのを止めると、大きなため息を吐いてから私を見返した。
「ああ、どうしようか?君は家が無いって本当なのか?」
「はい。昨日の朝、本物の娘が我が家に参りました。どうやら私とその方は赤ん坊の時に取り違えられていたらしいのです。その方は今まで孤児だったそうですから、ええ、身分がすっかり取り換えっこになりましたの。」
「何だそれは!」
ヤスミンはテーブルに拳を叩きつけ、怒りの声を上げた。
私は彼の急な大声でびくりと震え、テーブルの足元にいた白い犬が、彼を叱るようにしてキュウンと鳴いた。
ヤスミンはこの犬を悪魔の犬と呼んだくせに、私にしたように犬に食事を与えているのが不思議だ。
それじゃあどんな犬だって追いかけるでしょうに。
「大声はいけませんわ。これから結婚される方がそんな風では、それなりの淑女の方は脅えてしまいます事よ?」
「いや、だから、俺が今欲しかった相手は!……気を付けましょう。」
まあ!なんて素直な方かしら!
そうよね、新聞広告で結婚相手を探すような方ですもの。
教養が無くて社交に出られないと言う事でしたら、大怪我をした事でさらに引きこもってしまったのもわかりますわね。
でも、私のような困った人を家に招き入れて、こうして食事を振舞ってくれただけでなく、初対面の私の行く末を案じて下さるほどの心優しいお方だわ。
私はこの目の前の不器用な男性に好感が湧いており、もしかしたら自分の教養で彼をそれなりの紳士に仕立て上げられるかもしれないと考えた。
そうよ、彼を素晴らしい女性と結婚させるの。
そして、そんな素晴らしい女性と結婚したならば、私は彼らにできた子供たちの家庭教師のお仕事を貰えるかもしれないじゃない。
まあ、まあ!これならば私は一生安泰では無くて?
「どうしたものかな。」
「このまま私を話し相手に雇ってくださいな。」
私は未来を見つけた様にして叫んでいた。