ヤスミン・デジールとは
「なんだ?」
私が新聞を目の前に翳した男の第一声だ。
そうだわ!
きっとこの人は字が読めないに違いない。
なんて私は失礼なことをしてしまったのかしら!
「新聞ですわ!」
「見りゃわかるぞ。」
「まあ!字はお読みになれたのですね。あ、新聞は誰でも見てわかりますわね。」
新聞の向こうなので男がどんな表情をしたのかわからないが、彼は黙り込み、それから重たい空気が流れた数秒後に、新聞の向こうから低い唸り声が聞こえた。
「……殴られたいのか?」
はっ、そうだ、この人は野蛮人だったわ。
私は焦りながら、どうして新聞を掲げたのかの説明を大声であげていた。
伯爵令嬢だった者が人前で大声を上げるなんて、なんてはしたないの!と思ったが、今の私こそ恥など捨てねばならない身の上なのだ。
「ご覧いただきたいのは、この新聞の広告欄です!」
「馬鹿な子供の売り出しは書いていないぞ?」
「まあ!酷い方!読んで頂きたいのは、この広告にある、ヤスミン・デジール様の広告ですわ!療養中の可哀想なご婦人が話し相手を求めていらっしゃるの!私は今すぐに参らねばなりません。デジール家への道順を教えて下さる?わたくしはこの方の話し相手のお仕事を喜んでお受けしようと思いますのよ!」
「君は子供じゃないか!」
間髪入れずに男が怒鳴って来た。
どうして私があなたに怒られなきゃいけませんの?
私は必死で生きようとしていますのに!
「ま、まあ!何をおっしゃるの!私は女学院も出ております。年配の貴婦人の話し相手が務められる教養だってございます。こんな活気のある町でお友達も無く、療養中で話し相手を求められているお方よ?私は誠心誠意務めさせていただく所存ですの!」
「でも君は子供でしょうが!」
私は目の前に翳していた新聞をカーテンを引くようにして降ろすと、私を子供としか言わない男を睨みつけた。
この職を得ることに、私の人生というか、生存権が掛かっているのよ?
家も無いお金も無い私の、唯一見つけた生きる道なのですよ?
「いいから案内なさいな!ヤスミン・デジール様をご存じないなら、私を交番まで案内して下さればよくってよ?」
男は身をかがめ、本気で大熊が人を喰おうと威嚇していると思うそぶりで私をねめつけると、俺だ、と言った。
「え?」
「俺がヤスミン・デジールだ。俺が必要としているのは、身持ちが固くて俺の話し相手になれるあいじんんん、げふ、ごほん、いや、女房だ!」
「まああ!」
神様って意地悪ばかりなのね!
私の意気揚々としていた気持ちは一瞬でぺしゃんことなり、それでも目の前の男に辞去を告げねばと口を開いた。
さあ、ごめんあそばせって言って、私は次に行くのよ。
「う、うううう。」
情けない。
伯爵令嬢ともあろうものが、人前で泣いて言葉を失うなんてはあってはならないことなのに。
私の両目からは涙が零れ落ちて、何とかしたいのに体も口も動かない。
「な、泣くんじゃない!」
私の顔に汚い布切れが押し付けられた。
優しい振る舞いだが、布はゴワゴワして臭い。
「いやだ!あなたのシャツの裾じゃない!」
「黙れ!」
ヤスミンは私の顔をその汚いシャツの裾で拭い出し、私の顔は自分の涙でべとべとどころか、シャツの汚れが塗りたくられただけだった。
なんて臭くて汚いのと、私はさらに自分がみじめになっていくばかりだ。
伯爵令嬢で無くなった私など、わたしなど?
ああ、私はもう伯爵令嬢じゃ無いんだわ。
私は、生まれて初めてぐらいに、うわーんと声を上げていた。
「泣くんじゃない!ああ、俺が悪かったから!泣くな!」
「いいじゃないの!泣いたって!私はもう人前で声を上げて泣いてもいいの!だって、ご飯だって昨日から食べていないし、お仕事も無くなったし、帰る家だって無いんだもの!」
「わかった、泣くな!取りあえず飯はやる!」
私は熊男に掴まれて家に引きずり込まれた。
まあ!
淑女が一人暮らしの男の家に引き込まれてしまったなんて!
私の評判はもうおしまいだ。
家庭教師のお仕事も話し相手のお仕事も出来ない人になっちゃったわ!
「なんでさらに泣くんだ!飯をやると言っているだろう!」
無教養な男に淑女は近づくべきでは無いと、アンナが言っていた戒めの意味が良く分かった。
だから、私は自分の終わってしまった人生に声を上げて泣くしか無かった。