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伯爵令嬢と育てられましたが、実は普通の家の娘でしたので地道に生きます  作者: 蔵前
第四章 自分なりに生きていくということ
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オレンジの木の枝は月夜に揺れる

 夜になってから洗濯室に来た事は無かった。

 一度くらい来てみれば良かった。

 私はヤスミンと一緒に洗濯室の前に立ち、ヤスミンが扉を開いた瞬間に、すぐにそう考えた。


 元サンルームだったこの部屋の天井はガラス張りだ。

 だから、だから、月の灯りが室内に落ちているのだ。

 それも、オレンジの木にまばゆい月の光を浴びせるようにして!


「今夜はいつに増して綺麗だな。ブランディーヌは夜になるとこの風景を眺めにこの部屋に来ていたものさ。月の光で葉っぱが輝いて妖精がいるみたい。あら、おかしい?こんな私が妖精や魔法の世界を語るのは?」


 彼はそこで言葉を止めた。

 私はぎゅうっとヤスミンの手を握り返した。

 ヤスミンは私の手を握り返し、喉を鳴らした素晴らしい笑い声を立てた。


「侯爵家のサンルームにはね、大きなオレンジの木が植えられていて、母のお気に入りの場所だったんだよ。体の弱い母は、体の具合が良い日は常にそこにいたんだ。オレンジの木と微笑む母。俺の手を握る親父の大きな手。俺の幸せだった幼少時代の記憶だね。そんなことを酒で酔った勢いで喋っちまったからさ、ブランディーヌはサンルームにオレンジの木を植えやがったのさ。」


「あなたを息子様の様に感じていらっしゃったのね。彼女を亡くしてさぞお辛かった事でしょう。喪に服していらっしゃったのでしょう?」


「大丈夫だよ。俺はそんなに感傷的じゃない。俺こそブランディーヌのお陰で、母にできなかった看病をしてやれたんだ。あいつが亡くなったのは五年前。喪はとっくに明けている。俺がこの家に閉じこもっているのは単なる逃避だよ。」


 私はヤスミンの右足のことを思い、彼はとっても傷ついていたのだと思い当たった。

 体だけでなく心も。


「あなたの生活を邪魔してごめんなさい。」


「マルファ?」


「ごめんなさい。明日、私は明日、ラブレー伯爵夫人の所に行きます。」


「どうした?急に?俺は別に出て行けと言っている訳じゃなくてだな、」


「だって、こんな素敵な風景も、大切なあなたの記憶も、そっと大事にするものじゃないの!イモーテルに見せたくない!ヤスミンが教えてくれた色々を彼女に教えたくない!この家の暮らしをイモーテルに分けたくない!だって、きゃあ。」


 私は前に引っ張られた。

 戸口から中へ。

 そしてヤスミンは、私と二人きりとなるのに、初めて扉に内カギを掛けた。


「わがままっ子。それでもマルファの我儘は聞きたくなるのは何故だろうね。子供みたいな我儘だからかな。子供のくせに俺のことを気遣ってもいるからかな?」


 彼はそのままオレンジの木の方へと、手を繋いだ私を引っ張って歩かせた。

 オレンジの木に辿り着くと私の手を放したが、すぐに私に手を放した理由を教えてくれた。

 彼の手はオレンジを一つ私に差し出していたのである。


「ありがとう。」


「座って。月を見ながらオレンジを齧ろうか?」


「齧る?オレンジは吸うものではありませんの?」


「吸う?」


「穴を開けて中のジュースを吸い上げて楽しむものでしょう?オレンジは。」


「お前にオレンジを渡す度に、オレンジが不気味な死骸となってお前の部屋に転がっている意味が分かったよ。」


「ええ!死骸って、酷い!それで何時も勝手に捨てちゃうの?乾燥させて箪笥に入れるチップにしようと思っていたのに!」


「あのまんまじゃ腐って虫のお家になるだけだ。座って。そしてそのオレンジを俺に返して。」


 私はヤスミンの言う通りにしぶしぶとオレンジを返し、ヤスミンが指示したとおりに木の根元に座った。

 ヤスミンは私の隣に腰を下ろし、私が返したオレンジに小さなナイフの刃を入れていた。


「まあ!いつの間にナイフを?」


「男の子は無駄にお道具を持ちたがるものなのさ。」


 オレンジの皮は厚ぼったく硬いものだったが、ヤスミンがリンゴの皮を剥くように皮を取り除くと、かぐわしいオレンジの香りがそこいらじゅうに溢れて鼻腔を刺激し、視界の中では瑞々しいオレンジ色で透明な果肉が輝いている。


「よだれ。」


 私は慌てて自分の口元に指先を添えたが、当り前だが乾いている。

 ヤスミンはこれこそいつもの儀式だという風に微笑んで見せてから、透明で瑞々しい宝石のようなオレンジの破片を私の口に放り込んだ。

 果肉を噛めばじゅわっと甘いジュースが広がり、口の中のつぶつぶした果肉をかみ砕く感触は初めての体験だ。


「美味しい。」


「ほら、もう一口。」


 私は成すがままになっていた。

 男の人の指で摘まんだ果実を唇の中に滑り込ませられる。

 これはとてもはしたない行為でしょうけれど、オレンジのおいしさには敵わないから、いいえ、ヤスミンの優しさを貪欲に自分一人で受けたいと望んでしまっていたの。


「泣いちゃうぐらいに美味しいか?」


 私は指先を目元には当てなかった。

 だって、これは嘘じゃないと自分で知っているから。

 分かっているから。

 私はヤスミンに恋をしてしまっていたと気が付いてしまったから、私は涙が零れて止まらなくなっているのだ。


 彼が優しいのは私がヒヨコだから。


 男の人に恋をしてヒヨコじゃなくなったイモーテルには、ヤスミンは一つも関心を向けなかったじゃないの。

 あんなに、あんなにも美しい少女なのに。


「離れがたいからよ。私はずっとずっとここにいたいって思うの。」


「この家はこんなにも空っぽなのに?そしてこの家の主人の俺だってこんなにも空っぽなのに?どうして君は虚しくならないの?」


 私はヤスミンを見つめた。

 あなたに恋をしていると言いたい唇をきゅっと噛んで、ヤスミンのチョコレートのような深くて魅惑的な瞳を見つめ続けた。


 ヤスミンは私を変わらず見つめ続けていて、当り前のようにして私の口にオレンジの一欠けらを放り込んだ。

 そうして、何も言えなくなった私の額に、なんと彼は自分の唇を軽く押し付けた。


 私はごくりとオレンジを飲み込み、そんな私を彼は笑い飛ばすと、私を自分に抱き寄せた。


 彼の胸は温かく、彼の鼓動は少し早くなっていた。

 いいえ、これは私の心臓の音に違いないわ。

 だって、いつもは安心できる彼の横のはずなのに、今はとてもドキドキと心臓が破けそうなほどに音を立てているのだもの。


「汚れきった空っぽな人間だから、こうして君のようなヒヨコを抱きしめたくなるのかもしれないな。君はひたすらに俺を頼っている。こんな俺を英雄視して、いつだって必死にぴよぴよと後をついて来てくれる。」


 彼はそこで言葉を切り、皮肉だな、と呟いた。

 私はようやくそこでヤスミンの胸から顔を上げた。

 ヤスミンの笑顔は帽子屋の前で私に見せたものと同じだった。

 貴婦人の誰もが夢見る騎士の顔。

 彼は私の右手を取ると、私の右手の甲に唇を寄せた。


「君を守ろう。君が俺から巣立つ気になるその日まで。」


「す、すごく夢みたいな申し出ですわ!」


 私はあふれる涙を止める事が出来なかった。

 感動の涙なんかじゃない。


 あなたは巣立つまで、と言った。

 ヒヨコでい続ける限りあなたが傍にいてくれるならば、あなたが一生手に入らないのと同じこと。


 そんな悪夢みたいな申し出ではございませんか!




お読みいただきありがとうございます。

ようやくすりっからし男と夢見る少女の恋愛話の流れになっていけます!

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