馬車が向かう先には
ブルーノ雑貨店の扉には休業の札がかけられた。
アドリナの夫をヤスミンの悪の手から奪い返さねばならない、ということだ。
私とミネルパ、そして赤ちゃんを抱いたアドリナが商店街を出て大通りへと向かうと、通りにはいつもの幌のない荷馬車が待っていた。
アドリナの継子であるソフィが当り前のようにして御者台で手綱を握っており、荷台には彼女よりも年下の男の子二人が猫の様に転がっている。
ソフィは私達の姿を見つけると、大きな声を上げた。
「お母ちゃん。次はどこに行けばいいの!」
「ソフィ、首都の方角にある元牧師館に行っておくれ!」
「あそこはお父ちゃんもヤスミンも近づいちゃ駄目だって!」
「子供が一人の時は、だろ?母ちゃんとミネルパも一緒なんだ。大丈夫だよ。」
「でも、ヤスミンの言う事は絶対だって。ヤスミンに呆れられたら嫌だよ!」
私は年端も行かない少女がアドリナに言い返すのを見つめ、彼女がヤスミンに嫌われる事こそ拒んでいると気が付いた。
ヤスミンのルールを守ろうとしている私みたいだな、と私は何となく考えるとともにソフィに親近感が湧いた。
「大丈夫よ。ヤスミン様はアドリナ様にもミネルパ様にも敵わないもの。彼が敵わない人に貴方が一人で抵抗しきれるはずなんて無いって、普通に彼は解ってくださるわよ。」
ミネルパは、その通りと、吹き出しながら小声で呟いた。
アドリナはソフィの隣となる御者台に腰かけ、ソフィの背中をポンと軽く撫でる感じに叩いた。
「大丈夫だよ。怒られんのはヤスミンで、怒るのがあたしとミネルパだ。そして、あたしに叱られるのはあんたの父ちゃんで私の亭主のレミ、だよ。」
「ぷ、くく。父ちゃん可哀想。」
「じゃ、頼むよ。」
私とミネルパは母娘の会話が終わったのを確かめると、男の子達が転がる荷台へと上がった。
以前の私を知られたくないぐらいに、よいしょ、という風にドレスの裾をたくし上げて乗り込んだのである。
「わん。」
「あ、ジョゼを忘れていた。」
私が抱き上げようと荷台から身を乗り出して地面に向けて両腕を伸ばしたのだが、ジョゼは私に抱き上げられる事を選ばなかった。
ジャンプして私の腕に飛び掛かり、私の腕を蹴り飛ばして荷台の中へと飛び込んできたのである。
「きゃあ!」
私はバランスを崩して荷台から落ちかけ、しかし、私の腰リボンをぎゅっと引っ張って貰えたことで私は落ちずに済んだ。
「わあ、大丈夫?お姉さん。」
ソフィとよく似た顔立ちで、ソフィと同じ琥珀色の髪と瞳をした可愛い兄弟が私の腰のリボンを掴んでくれていたのだ。
「兄ちゃん、このお姉さんがヒヨコさんなの?ヤスミンの新しい女の?」
「クラルティの新顔ならヒヨコさんで間違いないだろ?可愛いし若いし、ヤスミンが飽きたら俺が結婚してやってもいいな。ちょっとどんくさいけど。」
私は助けてくれた八歳の男の子と五歳の男の子の掛け合いを眺めながら、この人達に助けてくれてありがとうと感謝する前に、親しくなっていいのだろうかという不安が湧いた。
「ほら、アダンにブリス、馬車が動くんだからそっとしといで!」
「はい!母ちゃん。」
アダンはジョゼを抱きしめて私の左隣に腰を下ろした。
そして小さなブリスは私の右隣に腰を下ろしただけでなく、私に彼のぷくぷくの手を差し伸べたのだ。
「ヒヨコさん、怖かったらおれが手を握っていてあげるよ?」
私は小さな紳士の手を握って笑みを返した。
「助けて頂いてばかりね、ありがとう。」
「いいってことよ。」
馬車はグインと動き出し、私達三人は同時に小さな悲鳴を上げた。
そしてその悲鳴は笑い声となった。
幌のない馬車は何て気持ちが良いのだろう!
ぐんぐんと馬車は動いて行き、見慣れた町の風景を遠ざけ、そしていつの間にか閑散としている木立が点々とあるだけの風景に代わった。
しばらくの後、私の両脇が静かになった上に暑いと見れば、アダンとブリスが私に寄りかかって眠っていた。
私は彼らがおかしなところに転がらないように腕を広げて彼らを抱え、それから馬車が向かう前方の風景を見つめた。
これは再び見慣れている風景だと、胸が微かに痛んだ。
社交デビューしていなくとも、社交界シーズンには両親と一緒に首都のタウンハウスへと旅立ったのだ。
私はなぜかラブレー伯爵夫人やコンラッド伯爵夫人に気に入られており、私が参加できるお茶会を両親はタウンハウスで催し、お二方は毎回いらっしゃってくださったのである。
するとその返礼のようにして、彼女達は社交界の面々が欲しがるパーティの招待状を両親に贈ってくれたのだ。
両親はその夢の招待状目当てでしか無かっただろうが、私には両親に囲まれて自慢されて褒め称えられる大事な時間でもあった。
「社交界シーズンはもう少しね。」
私はそっと呟いていた。
本来ならば二週間前にアラン・デュボア・ド・マールブランシュとの婚約発表をしていたはずだが、それはこれから社交界デビューをする私の社交界シーズンに向けてのイベントの一つであった。
社交デビューをまず行い、そのシーズン中に婚約発表をしてはどうかとアランの両親は私の両親、いえ、ルクブルール伯爵夫妻に申し入れたが、彼らはデビュー前の婚約式に拘った。
それは、着飾っても他の人よりも見劣りする私では、アランとの婚約が流れると不安になったからであろう。
あれから何日経ってもアランの婚約の話が一切公表されないのは、きっと、あの美しき本物のマルファならば、社交デビューした方が素晴らしき縁談が次々と舞い込むとルクブルール伯爵夫妻が判断されたからであろう。
アランは素晴らしい人だが、次男、でしかないと、ルクブルール伯爵夫人は私に何度も忠告?窘めて?いたのである。
「いい気になっては駄目よ?何も継ぐことが出来ない次男ですのよ?」
何も継ぐことのないアランだったからこそ、本当に結婚する事があっても大丈夫だと、私は考えていたというのに。
「考え方がいつも違っていたのは、私が貴族の血を引かなかったからなのでしょうね。何を考えているか分からなければ、嫌われるのも仕方がない事ね。」
「ヒヨコの考えていることなんか、わかり過ぎているほどに分かると言うのに!そんな事をヤスミンが言ったのかい?」
はっとしてミネルパを見返した。
私はぼんやりとしながら過去を思い返していたようで、口元は気が付かずに余計なことを呟いてもいたらしい。
「いいえ。ヤスミン様がそんなことをおっしゃるはずなどありません。以前の家のことを思い出していたの。私が理解できないってお母様もお父様もおっしゃっていたわ。でもそれは、私達の間に同じ血が流れていなかったからかしらって。」
「アダンとブリスとソフィの母親をしているアドリナは子供達をわかろうと一生懸命だよ。だから、この可愛い子供達はアドリナを慕ってくれるんだ。あんたの元ご両親は、きっと単なる大馬鹿者なんだろうさ。」
「ありがとうございます。」
私はミネルパに笑顔を返し、そしてミネルパの言葉で慰められたからと、私達が向かう世界へと顔を向けた。
馬車は私が見慣れていた首都への道から逸れて、うっそうとした森のような世界へと入り込んでいた。




