女心と微かな希望
ソフィは手綱を握る天才だった。
一頭立ての荷馬車でしかないから当たり前。
なんて誰にも言わせるものですか。
荷馬車だというこれだけで乗り心地の悪いだろう物を、どんなでこぼこ道でも殆ど揺れないようにして、また、馬の速度を安定させて走らせて引っ張ることが出来るのだ。
「あなたはすごいのね。」
「こんなのは慣れだよ。弟が覚えりゃ、きっと弟がこの仕事を代わりにするようになる。そんでお役御免になったあたしは村の誰かの女房になっているのさ。」
「まああ!村の誰か、なんて!でもその気持ちはわかりますわ。私も寄宿舎にいた時は、ここを出たら結婚市場に並べられて買われていくんだなって、友人と語り合っては泣いていましたもの。」
「でも!あんたは良い所に嫁に行くんだろ?あたしは!」
「嫁に行くのが嫌なら、俺の戦車を引くか?お前だったら六頭立ての戦車の御者が務まりそうだ。」
荷台に転がって犬と遊んでいたヤスミンが御者台の私達の会話に割り込んできて、ソフィはヤスミンの言葉によって嬉しそうに頬を赤らめた。
けれど、そのすぐ後に、彼女は表情をまた暗くした。
「何かお悩み事があるのかしら?」
「そうだよ、ソフィ。ここには俺と世界を混乱させるヒヨコしかいない。君の悩みを吐露したって平気だよ?」
私は小包をぎゅうっと胸に抱いた。
ヤスミンの声や言葉が優しすぎたから何かに抱きつきたくなったわけでは無く、ヤスミンがソフィを気にしていたからこそ、彼が私達の届け物に同行したのだと今更に気が付いたからだ。
そうこれは、何も気が付かない私って情けない、そんな感情から抱き締めてしまったのだ。
ああ、私は伯爵令嬢でなくなって良かったのかもしれない。
こんな視野の狭い自分では、きっとそのうちに領地に住まう人々を不幸にするだけの存在となっていただろう。
「……ヤスミンは嘘つきだ。あんたは軍を辞めたじゃないか。あたしがあんたの戦車なんか絶対に引けないじゃないか!」
「もう!君は本気で世間知らずだな。戦地じゃないとこで戦車を引くから良いんじゃないか!俺の元上司のソルドレ大将閣下親分様は、首都でも領地でも無意味に迷惑に戦車を引いて遊んでいるぞ。」
「それはソルドレ親分が侯爵閣下様でもあるからじゃないか!ヤスミンはただのヤスミンじゃないか!馬車なんか絶対に持てないね!」
「ハハハハ。ソフィったら酷いな。」
「ひどいのはヤスミンだよ!あんたはあたしらには気さくだし、色んな女と付き合っているって知っているよ。だけどさ、このお姫さんだけには手を出さないんだろ?それはこの人が身分が高い女の人だからという事だろ!こんな人とは真面目に付き合うけど、あたしらみたいな女とは遊びだけって事なんだろ!」
私はハッとした。
ブルーノ雑貨店で私が演技して挨拶した時の彼女が寂しそうだった理由は、私よりも賢いこの少女が、私が考えもしないことを考えていたからだったと。
私は何を言えばいいのだろうとヤスミンを見返せば、荷台のヤスミンは腕を伸ばして父親のようにしてソフィの頭をポンと撫でた。
「ソフィ、ここだけの話なんだけどさ、絶対に内緒にしてくれよ?」
「な、なんだよ?」
「俺はフラれてばかりなんだよ。」
「だって、クラリスが!」
「あいつとは付き合ったこともねえよ、馬鹿。それから言っとくけどな。クラリスも君の隣のヒヨコ姫もな、色気なんか全然ねえだろうが!」
「あたしはもっとないガキじゃないか!」
このソフィの訴えの気持ちはわかったわ!
私だって子供の時に両親のパーティで盗み見た素敵な男性に胸をときめかせた事もあるし、その方がたった数年ででっぷりとした残念な外見におなりになってしまった悲しさも経験しているもの!
「ま、まあ!そうね。悲しくなるのはわかるわ!大きくなって素敵なレディになったその時には、ヤスミン様はお腹が出ている中年になっているものね。って、痛い!頭をぐりぐりするのは止してちょうだい!」
「お前は人の気持ちを考えて話す癖をつけような?このソフィの可愛らしい優しさを見習え。例えば、あなたが成長した暁には、俺ぐらいの王子様もいるはずよ、ぐらいな事は言えないのかよ?」
「あら、だって、あなたは王子様じゃないわ。」
「おや?王子様を知っているような物言いだな?」
ヤスミンは私に挑むような顔付をして見せたので、私も似たような表情を作って彼に返した。
そして、彼をやり込めたいと思ったそのまま、彼に言い放っていた。
「ええ知っているわ。物語に出てくるような王子様はいるのよ。金髪に青い瞳を煌かせた、優しい王子様が。あなたは魔王様って感じよ?」
「ハハハ!馬鹿ヒヨコ。大人の男は王子様言われるよりも魔王様の方が褒め言葉だ。残念だったな。」
「あら?あなたを褒めたのよ?って、痛い!もう!」
「大人を揶揄うからだ。それで、ヒヨコ。その王子様に君は恋をしていたのか?」
「いいえ。恋はしていなかった。相談事をし合える友人同士ではあったわ。社交デビューして結婚相手を探すことにウンザリした私達は、お互いが婚約してしまえば良いのよねって、思いついただけなのよ。」
「だから、奴には頼れないと?」
「親友だったら頼ればいいのに。何でも無いヤスミンが面倒見るなんて可哀想。」
ヤスミンはソフィに大笑いの声を上げ、私はさすがヤスミンに可愛がられているだけあるなと、ソフィに感心してしまった。
そうして気が付けば馬車はこじんまりとした屋敷の前で止まった。
伯爵家に仕えていた女中頭が引退して住まうにはちょうど良い大きさ、住み込みの女中が一人いれば十分な広さだろう家である。
花壇には可愛らしい花が植えられ、家の壁にもどこにも煤けたところは無い。
ソフィが完全に馬車を止めて御者台から降りると、ヤスミンが荷台に乗っていた野菜籠を持ち上げて荷台から降りた。
私も小包を抱きながら馬車から降りると、ノックをする前に家のドアが開いたのである。
ようこそ、と低くてざらついた声を出した人は、引退するには早すぎる年齢の三十代の女性であり、顔の左側に鞭の傷跡があった。
私は彼女がなぜ引退せざるを得なかったのかその傷跡を見て悟るしか無く、雑貨店でソフィにして見せた様にしてドレスの裾を掴んでの挨拶を彼女に向けた。
「ブルーノ雑貨店の店員です。お荷物をお持ちしました。」
「あなたが噂のヒヨコ様ですわね。お時間があるならばお茶はいかが?」
私は喜んで、と答えていた。
ヤスミンがなぜ私達について来たのか、朝のヤスミンのお願いは何だったのか、私は目の前の女性からの誘いで理解したのである。
ソフィにドレスを与えるプロジェクト、ね。
元女中頭の女性からの贈り物として体裁を整えたのならば、ソフィが流行りもののドレスを着たとしても、はしたない、なんて陰口を叩く事など出来ないだろう、そういう計画に違いないわ!




