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妻の秘儀は呪い返し

 ヤスミンの妻は芸術家である。

 それはヤスミンこそ認めていることであり、歓迎していることである。

 彼の誕生日に、自分自身を鏡に映しながら描いたのよと、全裸の自画像を贈ってくれたという、素晴らしき行動をしてくれた人なのだ。


 ヤスミンは妻の才能を愛するばかりに、一階の客室の二部屋を潰し、彼女専用の書斎兼アトリエを仕立ててしまったぐらいである。


 そんな彼でも盲目的に妻の作品を愛しているわけではない。

 彼は彼女の木彫り作品だけは受け入れ難いと思っている。


 彼女が描く絵が写実的すぎる繊細なものであるのと同じようにして、木彫りの作品も無駄に写実的すぎるのだ。

 つまり、生き物の死体にしか見えないぐらいに、不気味この上ない。


 彼女がかってクラルティのバザーの為に仕上げた木製の庭小物、土に差す棒の天辺に生き物のオブジェが付いているという作品だが、それはヤスミンの琴線に触れるどころか、恐怖心だけを掻き立てた作品だった。

 普通だったらヒヨコモチーフならば誰だって可愛らしく仕上げるはずなのに、彼女が作り上げたそれは、剥製にされて恨んでいるヒヨコでしかなかったのだ。


 しかし、マルファの幸せを守ることが一番の男でもあるヤスミンだ。

 そのヒヨコが一匹も売れなくてマルファが悲しむくらいならば、彼が全てを引き取り、彼がその代金分の寄付をクラルティにしようと覚悟だって決めていた。

 町長のミネルパはそれを見越していやがるな、と、ヤスミンは心の中で罵詈雑言をミネルパに対してあげながら、自分が大量のヒヨコオブジェを引き受ける覚悟していたのだ。


 それが完売した。

 その時のヤスミンの喜びは、口では言い表せられないものだった。

 否、口に出して喜んでいれば良かったと、ヤスミンは結婚式の翌日に自宅の庭の有様を見たその瞬間に後悔したのだ。


 恐るべき呪いヒヨコの大軍が、彼の家の庭を来襲していたのである。

 売れたはずのヒヨコ達が、累々と、ヤスミンの庭のそこかしこに差し込まれて鎮座しているのである。


 この機会に返品されたのか?

 マルファが傷ついて泣いちゃったら?


 彼は狼狽し、だが、庭ヒヨコ達にリボンがかけられ花が飾られていた事で、こんな嫌がらせをしてきた奴らが嫌がらせの意思はなかったとヤスミンは認めるしかなく、この呪いの庭を受け入れるしかなくなったのである。


 それでも、呪いヒヨコがわさわさいる庭のある家に住んでいたくはない。

 彼は二週間の休暇が終わったその後、お祝いの使者でもヤスミンには嫌がらせの存在でしかないこのヒヨコをどうしようかと、本気で思い悩んでいた。

 だが彼が本気で思い悩んでいても、一向に行動を起こさなかったのは、可愛らしい新妻を腕に抱いた途端に思考が飛んでしまうからに他ならない。


 今の今まで。


「リンガーさん。ありがとう。メイジーちゃん。ハイどうぞ。」


 何件目かのドア先で、御礼のカード付ドラジェの小袋を妻は手渡していた。

 ドラジェとはアーモンドを糖衣で包んだ小さな卵みたいなお菓子である。

 ひよこのお祝い返しには最適であろうと、何度目かの最愛の妻の訪問先とのやり取りを眺めながらヤスミンは思った。

 そして、そんな洒落たお菓子が初めての人達は一様に大喜びを見せ、今も目の前のリンガー家の幼い少女が白い小袋の中身を知って大きな歓声を上げている。


 ドラジェが入った大きな籠と園芸用のカートを引いているヤスミンは、マルファの肩越しに少女の母親と父親達に笑顔を向けた。

 妻の方は普通の社交的な笑みをヤスミンに返したが、夫の方はヤスミンに対して含みのある笑みを向けた。


 さっそく尻に敷かれやがって。


 きっとそう言いたいのだなとヤスミンは理解したが、彼は相手の笑みなど全く腹が立たなかった。

 それは、ヤスミンの妻が素晴らし過ぎて、ヤスミンこそ喜んで彼女の尻に敷かれてしまいたと思っているからに他ならないからであろう。


 いや、最初の一軒への挨拶から、ヤスミンはマルファの後ろをいくらでも歩いて行こうと誓ったのだ。


 リンガー家との挨拶を終えた彼の妻はくるっと踵を変えて、そして、一軒目で行ったと同じ行動をしてヤスミンを喜ばせてくれたのだから。


 マルファは一匹のヒヨコオブジェを、リンガー家の庭先の花壇に、当たり前のような自然の動作でぷすっと差し込んだのだ。

 ヤスミンは園芸カートに振り返り、カートの中で鎮座している不気味ヒヨコの大軍に勝利感の溢れた笑みを向けた。


 よし、あと五十五本。


「次はトーレンさんのお宅ね。あそこは三人姉妹のお宅だから、三羽と一斉にお別れできるわよ。あなた。」


 ヤスミンに向けたマルファの笑顔は純粋だったが、ヤスミンは彼女が凄く純粋な悪辣さんだったと思い出していた。

 それから、彼女が自分を一番に大事に考えてくれているという事に。


「俺は君と結婚できてとても幸せだよ。」


 彼の口からは自然に言葉が紡がれていた。

 彼の妻はこの何度も同じセリフを放つ夫に嫌な顔をするどころか、何度も同じぐらいに幸せそうな笑みを返した。


「ちくしょう。今日はここまでにして今すぐ家に連れて帰りたい!」


「ヤスミンったら。明後日からは普通の生活に戻るのだもの。明日一日は何もしないであなたと一緒にいたいわ。」


「頑張ろう。俺も君のその考えには賛成だ。」


 二人はにっこりと笑みを交わした。

 ヤスミンは妻の可愛い額に唇を付けようとした。

 ところが、リンガー家の玄関ドアが再び開いた。


「ヒヨコさん!」


 リンガー家の少女が玄関ドアからちょこんと出て来て、マルファに向かって大きく手を振って大声をあげたのだ。

 マルファはファルゴ村ではヒヨコさんと呼ばれて慕われており、だからか、彼女が村で先生をし始めても彼女はひよこさんと呼ばれている。


「ええと!会えて嬉しかった。えと、お会いできて光栄ですわ!」


 少女は貴族の少女がするようなぴょこんと腰を下げる挨拶をして見せた。

 ヤスミンは妻と妻の教え子の様子が微笑ましくて、彼らを見守ることにした。

 彼女は人気者だなあ、と嬉しく思いながら。


「どういたしまして。月曜日からまた学校で会えるわね。」


「えええ!アラン先生はお終いなの!」


 見るからにマルファはがっかりと肩を落とした。

 アラン先生の素晴らしき評判は、引きこもっていたヤスミン達の耳にも入るほどであったのだ。


 ヤスミンはこの何度もの生徒とマルファのやり取りを眺めているうちに、マルファがお返しだ挨拶だとファルゴ村を回りたがったのは、生徒達に会いたかったのが一番の理由のような気がしていた。

 ファルゴ村の集会場を学校にして子供達に文字を教えたい、は、彼女の提案と彼女の行動によって叶えられたものなのである。


 ヤスミンはこれも何度目かのやり取りだなあと思い返しながら、言葉に詰まったマルファの代りに何度目かの同じセリフをマルファの生徒に返していた。


「あいつはあと一週間はここにいるよ。」


「ええ!ほんとう?ヤスミン!わあ!すごい!」


 少女は嬉しそうに飛びはねると、もう一度ぺこっとお辞儀をして、それから彼女の自宅の中へと戻って行った。


「私はいらないのかしら?」


「マルファ?女の子は王子様が好きなもんだろ。ほら、次は男の子のお家に行くぞ。ソフィの弟達、ブリスとアダンは君こそを待っている。」


「あ、そこは一番最後の予定よ。」


「どうして?ああ、彼らとはゆっくり話をしたいからかな?」


「ユベールが来るってソフィが。彼が帰った頃にしたいの。」


「……彼は君のお兄ちゃんだよね?」


 マルファはヤスミンから顔を背けた。

 今までの生徒とのやり取りの繰り返しを、きっとマルファは兄に見せたくはないのだろうと考えた。


「あなたのお兄ちゃんにもなったわよね?」


 ヤスミンは真面目過ぎて話が合わない男を思い返し、その男は堅苦しく小言を言ってくる自分の兄と似たような所もあると思い出していた。


 ヤスミンは今の自分の姿を見返した。

 腕にはドラジェ入りの大きな籠を下げ、ヒヨコオブジェが詰まった園芸工具入れのカートを牽いている、という情けない姿だ。


 誰が見ても女房の尻に敷かれているという姿。


 ヤスミンは最高の笑みを最愛の妻に返した。


「……最後にしよう。君の言う事に俺は何だって従うよ。」


「あなたったら。でも、そうね。本当は、ああ。あと一週間はハネムーンを延長したい。」


「君の我儘は最高だよ。善処しましょう。」


お読みいただきありがとうございました。

庭に溢れた呪いヒヨコを返していくだけの話でした。

また何かありましたらその後の暮らしを書けたらいいなと思っております。

今後ともどうぞよろしくお願いします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] とにかくおもしろかったです! 常に斜め上で悪辣なマルファとヤスミンの言葉遊びのような会話の応酬が楽しくて読み進めるうちに、どのキャラも愛しくなるくらい素敵なお話でした。 何度か泣きそうにな…
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