オレンジの木とヤスミン
「ああ!久しぶりね!あなた!」
マルファは親友にあったような声をあげると、オレンジの木に向かって駆け出して行った。
サンルームでしかない洗濯室では、ガラスの天井を通して朝の水色の空が輝き、オレンジのつやつやした緑の葉っぱを輝かせている。
葉っぱの合間にはオレンジ色に輝く丸々した実が実り、その実を飾るようにして白い星型の花が咲き誇っている。
そして、マルファが抱きついた事に喜ぶようにして、ざざっとオレンジの木は枝を揺らした。
花と実の芳香がヤスミンの鼻腔をくすぐり、彼の脳裏に彼がかつて愛した女性の面影がよぎった。
彼との別れの時の最後の姿、暴行による傷が膿んでいるという痛ましい姿ではなく、彼が憧れた美しい生前のその姿だ。
ブランディーヌは白い肌とブランディー色に輝く艶やかな髪を持っていた。
そのうえ、彼女のその美しい髪は、根元からしばらくはまっすぐなのに、先になるほどにくるくる巻くという不思議なものであった。
しかし、その長くて不思議な髪の毛が華奢でも胸がある女性的な彼女の体に巻きつ事で、彼女が淫靡な美の女神であるというイメージを、どんな男達にも抱かせ掻き立てるのである。
それから、常に自信溢れた笑みを作る口元は女性にしては大きい。
だが、全く下品どころか自分で人生を切り開く彼女にぴったりだとヤスミンは思っている。
さらに彼を前にすると輝く彼女の瞳は、宝石のような緑色だった。
ヤスミンは頬に手を当てた。
自分はブランの死の時に泣いただろうかと、自分の指先が感じる涙によって今更に思い返された。
自分は彼女の死に怒りと絶望しか感じず、彼女の死を認めたくないばっかりに、かってのクラルティを破壊したのでは無かったか?
「違う。俺を一途に愛した女への自分の愛が、家族に想う愛でしか無かったと気が付いて、俺はその贖罪の為に全てを破壊してブランに捧げたんだ。心を贈れなかった代りに、恋人を失った男の行動を贈ったんだ。」
「あたしを抱いたらあたしたちの魔法は解けるんだよ?」
彼の耳元でブランの囁きが聞こえた。
彼女を愛していると想っていた当時は、ヤスミンは何度か彼女をベッドに誘ったりもしていたが、彼女は絶対にヤスミンに応じる事は無かった。
「君は知っていた。俺は君を不幸にするばっかりだったのかな。」
ヤスミンは彼が今愛している女性を見つめた。
ブランディーヌがヤスミンの為に植えた木にしがみ付くマルファは、明日には彼の花嫁になるとは思えないほどに幼く見えた。
「そうだ。マルファはまだ子供じゃないか。」
「さあ、お入り。ブランディーヌの屋敷へようこそ。この館に入ったら、途中で逃げる事なんざ許さないよ。」
「え?」
ヤスミンはブランディーヌの口上が後ろで聞こえたと振り返った。
洗濯室の戸口には、ブランディーヌの右腕として必ず脇に控えていた年上の女性、ミネルパが当時を彷彿とさせる衣装で立っていた。
真っ青の宝石のような瞳をさらに際立たせる真っ青のアイシャドーに、年を経ても細い肉体美は衰えないことを見せつける黒に近い紺色のドレス。
ヤスミンがミネルパと再会した時、彼女は青いアイシャドーを塗っていないどころか、農場主の奥方のような上品な格好をしていた。
ヤスミンの帰還の願掛けで自分のスタイルを封印したとマルファから聞いていた彼は、ミネルパの格好について罵りをあげる前に喉が詰まってしまったと思い出す。
だが彼女はいつだってミネルパだ。
「はっ。騒々しい悪ガキが帰ってきた!せっかく優雅な毎日を送っていたと言うのに、明日からガキを躾けなきゃいけないやり手婆に逆戻りか!」
その一声の後、ヤスミンの涙が止まらなくなるどころか逃げ出したくなるぐらいに、ヤスミンを罵って虐めてくれたのだ。
そのミネルパが今日に限ってなぜか戸口に立っていて、ヤスミンにブランディーヌの口上を言って見せたどころか、不敵に笑っているのである。
「ミネルパ?」
「クロエがお前が朝飯を取りに来ないって騒ぐからさ、代わりに持って来てやったんだが、来て良かったよ。甘ちゃんなあんたが結婚に尻込みしている事が分かったからね。」
「し、尻込みなんか!」
「しているじゃないか。何がお子様だ。マルファは大人だよ。あんたのために社交界を捨ててクラルティに戻って来た時にあたしは言ってやったんだよ、逃げ帰ることは許されないよってね。」
ヤスミンはオレンジの木に抱きつくマルファを見返したが、彼女はミネルパがヤスミンに言ってみせたように逞しかった。
なかなか彼女の傍に来ない彼の不在をものともせずに、勝手にオレンジの花を摘み始めていたのである。
「いや、もともと俺不在でも勝手に動いていたよな。最初に出会った時から。」
「そうだよ。だからあの子はあたしの言葉に格好良く返して来たよ。私のいい人を手に入れるまで、私はどこにも逃げる気は無いわ。合格どころじゃないね。そのいい人があんただから、あたしたちは頭が痛かったけれどね。」
「……ちくしょう。」
「いいか?マルファは自分の足で立っていられるし、自分の翼で何処にだって飛んで行ける。それなのに、あんたに恋をしたからと、あんたが望むヒヨコでいるんだよ。見くびるのはもうお止め。」
「ばかやろ。あいつを見くびった事など一度も無いよ。だけどさ、あいつは子供だろ?男も世界も知らない子供だろ。俺が伴侶で不幸にならないか?」
ミネルパはヤスミンに思いっ切り呆れ顔を見せた。
それから、ブラディーヌが生きていた時にしたのと同じようにして、ヤスミンの尻を思いっきり蹴り飛ばしたのである。
「うわあ!」
「あんたは自意識過剰のたわけ者だよ。人間はさ、誰かに幸せにして貰うんじゃないよ。幸せに自分でなるんだ。ブランは幸せだったよ。あの子はマルファよりも繊細だった。それでもあんたと結婚して幸せだったんだから、マルファこそ大丈夫なんだよ。」
「あたしと結婚したいならあたしの持ち物を全部燃やしてくれ?俺に何も残す気は無いが、それでもいいのか?あいつのその行為の意味は分かるよ。だから、俺はあいつには申し訳が立たないんだ。あいつがあいつを自分で消しやがったんだ。俺の名誉というくだらない理由でね!」
「阿呆。それこそあの子の女心なんだよ。あんたの名誉の為なんかじゃない。娼婦であった自分の過去を全部消しさってさ、あんたの妻というその肩書だけ持って死んじまいたいっていう女心なのさ。あんたの妻に、ああ、たった二日だったけれど、あの子はなれたって喜んでいたよ。あんたのあの子への愛情が家族の愛だとしてもそれはいいんだよ。だって、あの子は妻というあんたの家族になれたんだからさ。」
ヤスミンはミネルパを抱き締めていた。
それでやっと彼は思い出した。
彼はブランディーヌが死んだ時、このようにミネルパにしがみ付き、子供のようにして泣きじゃくってしまった、という事を。
その泣き方は、自分が泣いた事を忘れてしまうぐらいに、慟哭といえる魂からの嘆きであった、と。
「あんたがマルファとの結婚に怖気づいたのは、あれが六年前でしかないからだ。でもね、あんたは幸せになりな。あの子の願いはあんたが幸せにいきていく事だけなんだからさ。大丈夫だよ。あんたはあの子を侯爵家一族が眠る墓所に、自分の妻という墓石を乗せて埋葬してやったじゃないか。ちゃんと待っているよ。あんたの次にマルファが来たら、ブランとマルファで仲良くなってあんたは捨てられるかもしれないけどね。」
「ちくしょう。お前もブランと同じ場所に埋めてやる。」
「嫌だよ。死んだ後ぐらいはあんたからは解放されたいね。あんたにはうんざり。それで、あたしじゃなくて今はマルファをウンザリさせなよ。あの子はもうすぐ泣きそうだよ。一人ぼっち過ぎて。」
「うわあ!」
ヤスミンはミネルパから腕を外すと、大事な大事な少女の元へと駆け寄っていった。
前の妻には申し訳が立たないが、彼が恋というものを初めて知ったのは、明日には彼の妻になるマルファ・ブーケ・ド・ルクブルールしかいないのだから。
子供みたいにスカートを持ち上げて白い花の籠にして、可愛い足首をちょこんと出している可愛いが先に立つ美女こそ、彼が恋に落ちた相手であり明日には最愛の妻になる人なのだ。
お読みいただきありがとうございます。
クラルティに戻ってきたマルファは、ミネルパに歓迎会も開いてもらったあと、ヤスミンの家に連れていかれるというエピソードを作っておりましたが本文に出せませんでした。
そこでこの話でミネルパに語らせました。
それから、大好きなミネルパがヤスミンが戻ってきた後の事を本文で書けなかったので、ミネルパを最後に出せて良かったです。
ブックマーク、評価、それから誤字脱字の報告、皆様には本当にお世話になっております。
これからもどうぞよろしくお願いします。




